ぼくは彼女の弟さんの部屋に上がる

 ぼくは彼女の弟さんの部屋に上がる。ぼくには交際二年目の彼女がいる。そろそろ交際一年半になる。彼女はぼくより遥かに社交的なひとだ。例えば、ぼくを自分の知り合いに合わせたがる。ぼくは付き合って間もない時点で彼女のバイト先のパン屋さんに連れて行かれて、そこの店員さんたちと顔見知りにされた。彼女の大学の友達にも会わされて顔見知りにされた。ぼくはこういった彼女の企みに黙って従った。

 だが、実家に来ないかという誘いについては、交際から一年が経っても頑なに拒んできた。単に神奈川県横浜市中区の建築物内に入るだけだったら差し障りはない。ぼくが彼女の実家に行くことを頑なに拒み続けてきたのは、彼女のご両親とお会いするのが怖かったからである。「てめえか、うちの娘と付き合ってんのは! ぶん殴ってやる!」と言われたらどうしよう。逆にものすごく冷たく接せられて気まずい空気になったらどうしよう。そう考えてしまって、ぼくは由梨の実家に行くことを拒み続けてきたのだ。

 それでもぼくは由梨の実家に行くことになった。断る言い訳がもう思いつかなかったからだが、行くことになったのには実はもう一つ理由がある。それは、由梨の実家に行ったら由梨の弟さん(17歳)(高校2年生)に会えるからだ。ぼくは由梨の弟の孝彦くんが好きだ。由梨から見せられた画像と動画でしか見たことがなかったし、ぼくがこれまで好きになったひととは違うタイプの男子だったが(注:ぼくはゲイです)、画像を一目見た瞬間、ぼくはその「かっこよさ4:かわいさ6」の比率に魅了されてしまったのである。

 由梨の実家(一軒家)に行って、ご両親とお会いして、晩ご飯をいただいて、2階にある由梨の部屋に上がって、由梨のベッドに座って……という話はこの前書きましたので、興味がある方は漁ってください。今回はその続きである。トイレのため廊下に出てきていた孝彦くんに、由梨が「たぁくん、(ぼくの下の名前)くんに魚拓見せてあげて!」と声をかけた。孝彦くんは小さい頃から釣りが趣味で、去年、大きいイワナを釣って魚拓を取ったのである。孝彦くんはぼくに聞き取り不可能な言葉を由梨に返すと、自分の部屋に戻ってドアをバタンと閉めた。

 由梨が自分の部屋に戻ってきて、「いま持ってくるって!」とぼくに告げた。……本当か? 孝彦くんは本当に「いま持ってくる」と言っていたのか? ぼくは「たぁくん怒ってるんじゃないの?」と由梨に尋ねたが、由梨は「怒ってないよ。わたしにはいつもあんな感じ」と返してきた。ぼくはいてもたってもいられず、「行こう、廊下へ行こう」と言って由梨の肩を押し、由梨と一緒に廊下へ出る。二人で一緒に孝彦くんの部屋のドアを見つめる。由梨が「待ってないでたぁくんの部屋に入ろうよ」と言ってきたが、ぼくは「ダメだよ、たぁくんは『待ってて』って言ってたんでしょ」と却下する。しばらくすると、部屋の中からガタガタという物音が聞こえた。中でなんかやってる。もしかすると押し入れかどっかから魚拓を取り出してくれているのかもしれない。ソワソワする。

 孝彦くんの部屋のドアが勢いよく開いて、孝彦くんが出てきた。手には何も持っていない。手ぶらである。孝彦くんはぼくと由梨が廊下に立っているとは思っていなかったようで、ぼくらの存在に少し驚いていた。孝彦くんがぼくに向かって「あの……本当に見たいですか?」と聞いてくる。ぼくはここは「引く」ではなく「押す」のタイミングだと感じたので、「う、うん! 見たい! 孝彦くんがよければだけど」と答えた。孝彦くんは何かをあきらめたかのような表情になったあと、「部屋の壁に飾ってあるんですけど上手く外せなくて。入ってきてください」と言ってきた。

 「えっ! いいの?」。ぼくは、かわいい高2男子の自室に入れるらしいことに歓喜しつつ、由梨と一緒に孝彦くんの部屋に入ろうとする。すると、孝彦くんが由梨に向かって「由梨は入らないで」と言った。「なんで? いいじゃん」「部屋のもの勝手に動かすからやだ」といったきょうだい喧嘩を聞きながら、ぼくは、孝彦くんが由梨のことを「由梨」と呼んでいることに衝撃を受けていた。ぼくは一人っ子なので分からないのですが、弟が姉のことを呼び捨てするのってふつうのことなんですかね?

 小手家では弟より姉のほうがパワーバランスで上位にあるらしく、結局、由梨も一緒に孝彦くんの部屋に入る。孝彦くんの部屋は由梨の部屋と間取りがちょうど正反対で、本棚には漫画の単行本が並べられていた。今どきの高校生も紙の漫画を揃えていたりするんだな。由梨の部屋と違ってモノが多くてごちゃごちゃしている。といっても、ぼくの部屋よりはだいぶマシだし、部屋が汚いところも含めてぼくは孝彦くんのことが好きなんですけどね(変態)。孝彦くんが壁に目をやり、「これです」とぼくに告げる。白い壁の上部に額縁が飾られていて、その中に魚の墨絵的なやつが収まっている。紛れもなく魚拓だ。ぼくは「魚拓」というものがこの世に存在することは知っていたが、実際に見たのはこの時が初めてだった。

 ぼくは素直に感動した。魚拓ってもっとショボい感じかと思っていたけど、意外とリアルで迫力がある。これは額縁に入れて飾りたくなる気持ちも分かる。ぼくは魚拓と孝彦くんの顔を交互に見ながら、「すごい……すごいね……! かっこいいよ、本当に……!」とやや興奮気味に伝える。孝彦くんは気をよくしたのか、釣った場所だとか釣った状況だとかをぼくに教えてくれた(残念ながら詳細は失念)。由梨が部屋のごみ箱を覗き込みながら「ごみ溜まってない?」と言っているのを聞き流しながら、ぼくは「その時の写真はないの?」と孝彦くんに尋ねる。孝彦くんは「写真……?」と言うと充電中だったスマホを手に取り、由梨に向かって「勝手にごみ箱触るな」と言ったあと、ぼくにスマホの画像ギャラリーを見せてくれた。

 孝彦くんが見せてくれた画像は魚と川とバケツが写ったものばかりで、孝彦くん自身が写った写真は全然なく、孝彦坦としてはそこにだいぶがっかりした。だが、いまのぼくの目の前には孝彦くんのスマホがあり、画面をスクロールする孝彦くんの指がある。スマホの画面を見つめる孝彦くんの目があり、「これは静岡のナントカ川に行った時のやつで……」とぼくに解説する孝彦くんの口がある。この現実を自覚するとそれだけでぼくは興奮してしまい、呼吸が荒くなりかけた。しかしぼくは立派な成人である。放送研究会で培った番組進行スキルを活かし、「その川まではどうやって行ったの?」と質問を加えたり、「へえ、4時間も!」と相槌を入れたりして、孝彦くんの趣味トークをさりげなく盛り上げた。

 孝彦くんの解説が一段落した時、由梨が「お菓子持ってこようか?」と声をかけてきた。ぼくと孝彦くんがせっかく心を通い合わせていたのに邪魔しやがって! でもまあ、さすがにぼくも質問や相槌を入れ続けるのが面倒になりかけていたので、空気を変える由梨のこの一言は正直助かった。ぼくの孝彦くんに対する愛情なんてしょせんこんなものである。

 趣味トークに熱中していたところを一時停止され、ふと現実に戻った孝彦くんが無言になる。ぼくのほうをチラッと見たので、もしかしたらぼくの反応を窺っていたのかもしれない。ぼくはもっと孝彦くんと一緒にいたかったし、孝彦くんの部屋で孝彦くんの匂いに包まれたかったので(変態)、「そうだね。お茶をみんなで飲もう、一杯だけ」と言って、孝彦くんに「……いいかな?」と尋ねた。ここでぼくが「一杯だけ」と付け加えたのは、長居はしないという意思表示である。長居をしないと約束すれば孝彦くんも話に乗ってきやすいと思ったのだ。案の定、孝彦くんは「一杯だけなら……」と返してきた。ぼくは「じゃあぼくが持ってくるね!」と言うと、お茶とお菓子が置いてある隣の由梨の部屋に向かっていった。

 廊下に出て、隣の由梨の部屋に入ろうかという時、ぼくはようやく下敷きの存在を思い出した。この日の一週間前、由梨と一緒に行った国立科学博物館ミュージアムショップで買った淡水魚のA4下敷きである。孝彦くんへのプレゼントとして買い、持ってきていたやつだ。下敷きは1階に置きっぱなしにしているぼくのリュックサックの中に入っている。ぼくは孝彦くんの部屋に走って戻って、「由梨! お茶とお菓子は由梨が持ってって! ぼくは1階に例のアレを取りに行ってくるから!」と声をかけると、階段を急ぎ足で下りていく。階段を下りながら、いま由梨のことを「由梨」ってふつうに呼び捨てで呼んだけど、そのことで孝彦くんから「姉のことを呼び捨てしてるのキモい」などと思われてはいまいかと不安になった。でも、孝彦くんだって由梨のことを「由梨」って呼び捨てしてたしな。第一、自分のことを呼び捨てで呼べと言ってきたのは由梨のほうだ。ぼくは最初は「由梨さん」って呼んでいたのに。いや、付き合う前は「小手さん」って呼んでたな。

 1階のリビングに入ると、テレビがついていて、由梨のお父さんとお母さんがダイニングテーブルについてお茶を飲んでいた。ぼくがリビングに入ってきたのに気付き、「あら、どうしたの?」みたいな顔をこちらに向ける。ぼくは「あっ、もう少しだけいさせていただきます。ありがとうございます」とお辞儀すると、リュックサックの中から国立科学博物館のロゴが入ったビニール袋(中にはもちろん下敷きが入っている)を取り出したあと、由梨のお父さんとお母さんに向かって再び会釈して、リビングを出ていく。階段を上がりながら、ぼくは由梨のご両親から「あいつはリュックサックの中からコンドームを取り出したのではないか」「これから娘の部屋で性行為を始めるつもりなのではないか」と疑われてはいまいかと心配になった。ぼくが取り出したA4サイズの薄いビニール袋に国立科学博物館のロゴが印刷されていたのをきちんと目撃してくれていたらよいのだが。

 2階へ上がると、孝彦くんの部屋の手前にある由梨の部屋に由梨と孝彦くんがいるのが見えた。どうやら二人揃って由梨の部屋に移ってきたらしい。由梨はベッドの上に座り、孝彦くんは由梨の学習机の椅子に座っている。ぼくは「お待たせしました。こっちの部屋に移ったの?」と問いかけながら由梨の部屋に入る。由梨は「うん、わたしの部屋のほうがきれいだからって」と答えたあと、ぼくが手に持っているものに気付いて「……あ! すっかり忘れてたね」とぼくに声をかけてきた。ぼくは「忘れてないよ! 忘れてない」と返す。もちろん本当は忘れていたのである。でも孝彦くんへのプレゼントを忘れていたなんて本人の前で認めるわけにはいかなかったし、ぼく自身だって認めたくなかったのだ。

 本棚の脇にあったミニテーブルが部屋の中央に移動されていて、その上にはポッキーとカントリーマアムと、紙コップに入ったお茶3人分が置かれている。どうやら由梨(か孝彦くん)(でもたぶん由梨)がもう紙コップにお茶を注いでくれていたようだ。由梨が自分の左隣をポンポンと叩いて「ここに座れ」の信号を送ってきたので、ぼくは仕方なく由梨のベッドの上に座る。座席としては落ち着かないんだよなあ、このベッド。背もたれがないし。由梨の掛け声で乾杯をして、3人でお茶とお菓子をいただく。なんだかピクニックみたいだ。室内だけど。

 お茶とお菓子を飲み食いしながら、孝彦くんの得意な科目・苦手な科目だとか、部活のことだとか、孝彦くんの釣り以外の趣味だとかの話をした。孝彦くんはまだぼくの目を見て話すのは恥ずかしいようだったが、少しずつぼくに心を開いてきている気がする(気のせいでないことを望む)。孝彦くんは以前は『呪術廻戦』が好きだったが、いまは『青の祓魔師(エクソシスト)』という昔の漫画にハマっていて、単行本を途中の巻まで揃えているらしい。小説版は全巻揃えているらしい。さっき部屋に入った時に本棚に並べられていたのはそれか。「どんな内容なの?」と聞いたら細かく説明してくれたが、ぼくの理解力が悪いせいか、なんだか怖ろしい物語ということしか分からなかった。ただ、悪魔を祓う的なお話らしいので、ぼくは「ぼくも『九十九字ふしぎ屋商い中』っていう小説のシリーズ読んでるよ! これも妖怪を退治する的なやつ」と会話を広げた。「よかったら小説貸すよ!」とも言ってあげたが、残念ながら孝彦くんはこれには興味がなさそうだった。まあ、趣味とか興味関心は細部に分かれるものなのでしょうがない。余談ついでに書いておくと、『九十九字ふしぎ屋商い中』シリーズは妖怪を退治する冒険アドベンチャーではなく、この世に未練を残すあやかしを成仏させる人情ドラマで、だからこそぼくはこのシリーズが好きなんですけどね。

 由梨が孝彦くんの恋愛の話をぶっ込む。同じクラスの女子と付き合っていたが少し前に破局したという話だ。孝彦くんが「もうその話はするな」と抗議する。やや気まずい空気になる。由梨が「みんなでUNOやる?」と提案したが、孝彦くんは「部屋に戻る」と立ち上がった。ほら、怒っちゃったじゃないか。ぼくはまだ孝彦くんと別れがたかったので、「……由梨のアニメ、一本だけ観る? 孝彦くんはあんまり観たことないでしょ?」と呼びかけた。ご存じない方のために書いておくと、由梨はぼくと違う大学の放送サークルでアニメを作っていて、放送研究会界隈では人気のアニメクリエイターである。孝彦くんは本当は部屋に戻りたかったんだろうけど、ぼくの目を見て「一本だけなら……」と返答してくれた。

 由梨の部屋のパソコンで由梨のアニメを観る。この前の週の合同番組発表会で上映された作品である。ぼくだったら自分の作品を家族に見せるのなんて絶対に嫌だが、小手家はみんな仲良しだからこういうことができる。なんだかんだで小手家の姉と弟は仲がいい。さっきも孝彦くんは由梨と話しながら笑顔になっていたし、由梨がそばにいることに安心している感じだった。ぼくは由梨のアニメを観ながら、隣の孝彦くんの反応をチラチラ確認する。ぼくの顔のすぐ隣に孝彦くんの顔がある……ハァハァ……孝彦の生フェイスやば……このイケメンを振ったクラスの元カノ愚かすぎ……ぼくなら死んでも離さないよ……(狂気)

 10分弱のアニメを観終わり、孝彦くんが立ち上がって帰ろうとした。ぼくは孝彦くんへのプレゼントを思い出し、孝彦くんに「あっ、ちょっと待って! 実は渡したいものがあって。本当に大したものじゃないんだけど」と言いながらA4サイズの白いビニール袋を渡す。孝彦くんは何も言わずに中身を取り出した。中に入っているのはもちろん495円(税込)のA4の下敷きだ。表面には淡水魚たちのリアルなイラストが描かれ、裏には各淡水魚の解説が書かれた、小中学生向けの学習用グッズ的なやつである。孝彦くんは「ああ……」とつぶやいたあと、「ありがとうございます」と言ってからぼくと目を合わせた。ぼくには孝彦くんの瞳がキラキラと輝いていたように見えた(気のせいでないことを望む)。

 孝彦くんが自分の部屋に帰っていく。ぼくと由梨は孝彦くんを廊下まで行ってお見送りしたあと、再び由梨の部屋に戻った。由梨が高校生の時に作ったマヤ文字(マヤ文明で使われていた文字)のはんこだとか、修学旅行の写真だとか、卒業アルバムだとかを見せてくる。子どものころの由梨の写真は過去にも見せられたことがあるが、制服姿の由梨の写真を見るのは初めてだったので、ぼくはそれを見てなぜだか胸がぞわぞわした。もう遅い時間だと思い、ぼくが「そろそろお暇するか」と言うと、由梨がぼくをベッドの上に座らせていちゃついてきた。ぼくは小声で「だめ」と言ったが、由梨が収集つかなそうな感じだったので、廊下に誰もひとがいないことを確認してからおでこにキスしてあげる。由梨のおでこは生温かった。由梨さん、今日は孝彦くんに会わせてくれてありがとね。

 ……さて、このあとぼくは小手家を去って帰宅するだけです。「由梨のお父さんとお母さんに帰宅のご挨拶をした」「由梨に駅まで送ってもらった」「帰りの電車の中で由梨とLINEでやり取りした」というエピソードを書いたとしてもあと+500字程度で済むと思うんですが、その500字がいまのぼく(夜勤のバイトに向かわなきゃいけない3分前)にはキツいので本日はここまで。この続きを書くかどうかは決めてないけど、読者のみなさんもこの続きを読むかどうかは決めてないと思うので、まあ、そこはお互いさまということで(?)。孝彦くん、今頃何してるかなあ。淡水魚の下敷きは使ってくれているかなあ。今度はどんなプレゼントを持っていこうか。孝彦くんへの次なる贈り物の資金を稼ぐため、ぼく、バイト頑張ってきます!

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