ぼくは彼女と映画館へ行く

 ぼくは大学の放送サークルで音声ドラマを作っている。放送サークルでいうところの「音声ドラマ」っていうのは、あらかじめ収録して編集して完成させておくタイプのやつと、発表会でお客さんの前で上演する朗読劇みたいなタイプのやつの二種類がある。他の大学だとさらに別のパターンもあるのかもしれないけど。ぼくはどっちのタイプの音声ドラマも作るんだけど、どっちかっていうと朗読劇タイプのほうを作るのに力を入れていたりする。ここでぼくが「作っている」と言っているのは、具体的には脚本と演出(の真似事)を担当しているっていう意味で、逆に言うとぼくが出演者の側に回ることはまずない。

 ぼくは作品づくりで行き詰まったことがない。それはぼくに天賦の才があるからじゃなく、自分でも書けるような内容しか書かないようにしているからだ。ぼくは恋愛ドラマを書いたりしない。それはぼくがまともな恋愛をしたことがないからで、逆に言うと「ゲイなのに女の子と付き合っている男子大学生の物語」なら書けそうな気もするけど、いまのぼくがそんなものを書いたら騒ぎになるのは確実なので書かない。歴史ものやSFものも難しそうだから手を出さない。ぼくがよく書くのはNHK-FMの『青春アドベンチャー』で流れているような感じのやつだ。まあ、『青春アドベンチャー』の放送内容も色々だと思うけど。ちなみに、ぼくがいちばん好きな映画は『狼たちの午後』っていう1975年の映画。シドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演。ブルックリンの小さな銀行に3人組の強盗が押し入るんだけど、上手くいかずにどんどん追い込まれていくっていうお話。ただ、この映画の台詞はほとんどアドリブだったらしく、普段いかに「いい台詞」を書くかにこだわっているぼくとしては、それがちょっと残念な事実だったりする。

 ぼくの彼女、由梨が作っているのはアニメーション作品なので、ぼくとは畑違いといえば畑違いなんだけど、でもやっぱりどちらも都内の大学の放送サークルに所属していて、自分でシナリオやら台詞やらを創作していて、他人から評価される立場であるっていうことの共通点は大きい。お互いの苦楽が分かるっていうか、「同志」っていう感じがする。由梨の場合は自分で絵を描いているし写真も撮っているから余計に大変だなとは思うけど、まあそれを言うならぼくだって朗読劇の演出として視覚効果を考えていたりするから、そこはおあいこなのだ(なんの話だ?)。

 そんなわけで、ぼくらが一緒に映画を観に行ったり、舞台を観に行ったりするのには「勉強のため」という目的があったりする(まあ、舞台のほうはなんだかんだでチケットが高いからしょっちゅう行けるわけじゃないけど)。たかが学生のサークルごときが勘違いしてやがるなって笑われるかもしれないけど、少なくともぼくは息抜き感覚でサークル活動をしているわけじゃない。自分が生きている理由、自分が死んでいない理由、それを自分の書くドラマにぶつけているんだ。由梨の場合はそこまで思い詰めているわけじゃないだろうけど、でもやっぱり真剣に作品づくりに臨んでいるのは間違いなくて、ぼくは彼女のそんなところに「同志」だなって感覚を覚える。

 この前、といっても1か月近く前の話なんだけど、由梨の提案でぼくらは『それでも私は生きていく』という映画を観に行った。フランスの映画で、仕事とか親の介護とかでしんどくなっているシングルマザーが古い友人と恋に落ちて人生を再生していくというお話だった。別に統計を調べたわけでもなんでもないけど、大学生のカップルがデートで観に行く系の映画ではないと思う。実際、新宿武蔵野館のその客席にぼくらと同世代のカップルらしきお客さんは見当たらなかった。映画は感動的で、感動的といってもお涙頂戴ものとは真逆で、無理しなくていいから顔を上げて生きていこうと思わせてくれる逞しい映画だった。映画が終わって帰りのエレベーターを待っている時、ぼくは由梨に「ありがとう」と言った。その「ありがとう」は基本的には「素敵な作品を案内してくれてありがとう」程度の意味合いでしかない。でも、由梨はぼくからそう言われたことが相当うれしかったみたいで、ぼくの目を見て「うん、いい映画だったね」と言うと、照れた感じでニヤニヤしながら天井を見上げた。

 その時ぼくの脳裏に浮かんだのは、おそらくは人類史上最低最悪の感想だ。すなわち、「こいつ、恋する乙女気取りで気持ち悪いな」。念のため言っておくと、由梨はぼくに恋をしているのであり、年齢的に「乙女」と呼んで差し支えないのであり、由梨は実際「恋する乙女」であるとしか言いようがない。しかも坂道系に在籍していても何らおかしくないかわいらしい容姿なので、由梨にこんな反応をされたらたいがいの男はテンション爆上がり(古語)だと思う。ただ、あいにくぼくはゲイなのだ。この時、本当に今さらなんだけど、ぼくは自分がゲイであるということはどういうことなのかを痛感した。ぼくは女の子の存在が気持ち悪いのではなく、女の子に好意を持たれるのが気持ち悪いのだ。勝手にマスターベーションの対象にされるぐらいならまだいいけど、好意を直接ぶつけられると「うわ」って感じでドン引きする。ぼくにとって由梨は「同志」と思える存在で、ぼくはたまに由梨はぼくの最大の理解者なんじゃないかと思うことさえある。由梨が『それでも私は生きていく』という映画を提案してくれたのも、その時のぼくの創作傾向とか精神状態とかを考えてくれた結果なんだろう。でもやっぱりぼくは、学部の後輩の早瀬がよく使うワードを借りれば「色恋」の態度を由梨から示されるのが気持ち悪くて、ぼくに適した映画を案内しようというその愛情も気持ち悪く思っている。ああ、自分でも最低なことを書いてるのはよく分かってる。よく分かってる! でも、ここで嘘をついたってしょうがないだろう? だってこのnoteは、ぼくがいかに最低な人間なのかを見ず知らずのあなたに知ってもらうための場所なんだから。

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