ぼくと彼女は芥川龍之介展へ行く
ぼくと彼女は『芥川龍之介展』へ行く。ぼくと彼女がデートで展覧会やら美術展やらに行く時、だいたいは彼女が行き先を決める。由梨が「これに行こう」と提案して→ぼくとしても特に異論はないので→二人で一緒に行くことになる……といった流れである。「異論はない」というより「異論が思い浮かばない」というのが正確かもしれないが。
しかし、たまにはぼくのほうから「この展覧会に行きたい」と提案することもある。たまには、ですけどね。少し前にぼくらが行ってきた日本近代文学館の『芥川龍之介展ー文庫目録増補改訂版刊行記念ー』は、ぼくのほうから「行きたい」と提案した貴重な展覧会だった。
なぜぼくが『芥川龍之介展』行きを提案したのかというと、それはぼくが芥川龍之介の小説を好きで、由梨もそのことをよく知っているからだ。芥川龍之介はぼくがいちばん好きな日本の小説家と言っても過言ではない。芥川の小説を読むと、チャップリンの映画を観た時と同じような気持ちになる。つまり、幸せな気持ちになる。「いいなあ、小説は」という豊饒感(?)に包まれるのだ。だから、春休みに大田区立郷土博物館へ一人で行って『芥川龍之介展』のチラシを目にした時、ぼくは由梨を誘ってこれに行こうと決意したのだった。いま考えれば、別に由梨を誘わずに勝手に行ってもよかったんですけど。
日本近代文学館は日曜日が休館日だ。土曜日は日中に由梨のバイトが入っているので、ぼくらは平日に『芥川龍之介展』へ行くことにした。4年生になってから由梨は週2でしか大学へ行っていないが、ぼくはほぼ毎日大学へ行っている。期末試験を何度も寝坊してきたような学生には4年の春学期を週2通学で済ます余裕はないのである。そんなわけなので、由梨にとっては休日の午後、ぼくにとっては学校帰りの平日の午後、ぼくらは京王井の頭線駒場東大前駅の西口改札前で待ち合わせた。
渋谷で京王井の頭線に乗り換え、駒場東大前駅に到着。授業が始まる間近のタイミングだったのか、東大生らしき者たちが一斉に降りる。その中に混じってぼくも東大生になった気分。西口へ行くつもりが、間違えて東口(東大キャンパス側)方面の階段を上ってしまう。やべえ。たしか西口はこの裏側だったよなと思い出して、東口から駅の外へ出て、1〜2分ほど歩いて西口改札前へ。無駄な遠回りである。ガード下から現れたぼくを見て、由梨(すでに到着していた)は「どこから来たの?」と驚いていた。
日本近代文学館を目指して駒場公園へ。道中、由梨から「また別の企業から内定(内々定)をもらった」という話を聞かされる。まあ、由梨のような優等生が複数社から内定を得るのは自然の摂理だが(ぼくが企業の人事担当だとしても由梨には真っ先に内定を出す)、正直、そんな話を聞かされてもぼくとしてはリアクションに困るんだよなあ。なにぶん、ぼくはまだどこからも内定をいただいてませんもんでね!
駒場公園に到着。日本近代文学館に入る手前で由梨に300円(観覧料)を渡し、受付で由梨に2人分600円をまとめて支払ってもらう。受付の職員さんからは「彼女に払ってもらうのかよ。こいつ彼女のヒモか」と誤解されたかもしれない。まあ、誤解されてもいいか……日本近代文学館の職員さんならヒモ体質の太宰治くずれの男なんて見慣れているだろうし……
日本近代文学館の2024年度春季特別展『芥川龍之介展ー文庫目録増補改訂版刊行記念ー』は、芥川龍之介が遺した原稿やコレクションを展示しつつ、芥川の35年間の生涯を振り返る展覧会である。小規模な展覧会とはいえ、芥川龍之介ファンには見逃せない展覧会であろう。
2階の展示室へ入室。お客さんがまあまあいる(7~8人ぐらい?)。まずは第一部「原稿と初版本でたどるその軌跡」だ。ここでは芥川龍之介がデビューする前(東京帝大生時代)に仲間たちと作っていた同人誌や、『羅生門』や『鼻』の初出誌、さらには夏目漱石から送られてきた手紙などが展示されていた。去年の夏、『羅生門展』でも展示されていた「ずんずん御進みなさい」というやつである。
ぼくが第一部の展示品で最も目を奪われたのは『歯車』の原稿だ。芥川が生前最後に書いた小説である。ぼくが『歯車』を初めて読んだのは高校生の時だった。正直言って、当時のぼくはこの小説を面白いと思わなかった。特別なドラマがあるわけでもないし、現実と虚構が入り乱れているのか入り乱れていないのか曖昧なタッチが分かりくかったし。しかし、大学生になってから一丁前に(?)幻想文学をかじるようになり、ルイス・ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(という映画があるのです)なんかも観るようになって、そんなタイミングで『歯車』を再読してみたら、まさにその「現実と虚構が入り乱れているのか入り乱れていないのか曖昧なタッチ」が胸にしみた。しっくりきたというか落ち着いたというか、妙に納得がいったのだ。人生なんて所詮、なにがなんだか分からず戸惑っているうちに終わってしまうものなのかなと。
ぼくは筆跡専門家じゃないので適当なことしか言えないが、晩年の芥川の字は、初期の芥川の字と比べて「きれい」だと思う。『歯車』の原稿の字も読み取りやすい。『歯車』の原稿を指さしながらぼくが由梨に「この字はきれいだね」と小声で言うと、由梨は「(ぼくの下の名前)くんの字と似てるんじゃない?」と小声で返してきたが、ぼくの字はこんな神経質そうな字じゃありません。由梨さんはぼくのことをなんにも分かってないです。
続いて第二部「旧蔵書に見る〈知〉の宇宙」へ。まあ、日本近代文学館の展示室は狭い部屋なので、第一部と第二部の境目なんてあってないようなもんなんですけどね。さて、この第二部では芥川龍之介が生前所有していた書籍が展示されている。芥川は若い頃から漢詩文や『芭蕉全集』を好んでいたが、哲学・思想関係の本も読んでいたそうで、高校時代にはニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を読んで感動したりしていたそうだ。
そして、なんと! ここで芥川の蔵書としてシュティルナーの『唯一者とその所有』(英訳版)が展示されていたのには驚いた。思わず「えっ! シュティルナー! へえ!」と声を漏らしてしまったほどである。
シュティルナーの『唯一者とその所有』はぼくの人生の指針とでも言うべき書だ。ぼくはシュティルナーの『唯一者とその所有』を読んで……いや、正確には、この本を初めて日本語訳した辻潤による『唯一者とその所有』の解説エッセイ『自分だけの世界』を読んで、ぼくは生きることがすっかり楽になった。お恥ずかしい話だが、ぼくは『自分だけの世界』を初めて読んだ時、感動のあまり涙ぐんでしまったほどだ。
そうかあ、芥川も『唯一者とその所有』を読んでましたか。やるじゃん、アクタガワ。分かってるね、アクタガワ。やっぱり芥川龍之介はぼくのいちばん好きな小説家だ。ぼくは芥川龍之介を死ぬまで礼賛することにしよう。ぼくは芥川が『唯一者とその所有』の読者だったことを知って、ますます芥川のことが好きになった。芥川龍之介、もはや他人とは思えない。
……などとテンション高まりながら、芥川が所蔵していたその『唯一者とその所有』(英訳版)をじっくり眺めていたら、ページの片隅に芥川の手による書き込みがあるのを見つけた。どうやら芥川が『唯一者とその所有』を読み終わったあとに書き込んだこの本の感想らしい。おっ、気になる。なんて書いてあるのかな?
……えっと、だいぶ辛辣にディスってます……? ……芥川龍之介さん、シュティルナーのことはお好きじゃないようで……
自分が大好きなひとが自分が大好きなものを嫌っているのを目の当たりにした時、人間はそれなりにショックを受けるものである。ぼくみたいな人間は些細なことで動揺しがちな人間なので、若き日の芥川龍之介がシュティルナーの『唯一者とその所有』に感動していなかったばかりか、むしろ酷評していたという事実を目の当たりにして大ショックを受けた。直前まで「芥川もシュティルナー読んでたのか! やっぱりぼくと感性被ってるな!」などと勝手にうれしくなっていただけに尚更である。
芥川の書き込みを覗き込みながら由梨が「(芥川は)皮肉屋だね」とつぶやくその隣で、ぼくは内心パニックに陥っていた。はあ、なんてこったい。ぼくの推しがぼくの神を嫌っていただなんて。なんだか裏切られた気分である。ぼくのテンションの急低下を察した由梨が「どうかしたか?」みたいな感じで意味深に見つめてきたが、ここは静かな展示室内で、周りには他のお客さんもいる。会話をするのは憚られたので、ぼくは「……なるほど……」とだけつぶやいて、その場を誤魔化した。
第三部「書画とに見る交友」では、芥川の書いた(描いた)書画とか河童の絵だとか、夏目漱石や斎藤茂吉が夏目漱石に宛てて書いた手紙だとか、芥川が加わっていた句会のメンバーによる俳句だとかが展示されていた。だがしかし、ぼくとしては『唯一者とのその所有』をめぐるショックが尾を引いていてそれどころじゃなかった。まさか芥川がシュティルナーを読んでいたなんて。だけどシュティルナーを嫌っていただなんて。
もしこれが芥川じゃなくて森鴎外だったら、ぼくは何とも思わなかっただろう。ぼくにとって森鴎外はどうでもいい存在だからである。それどころか、もしシュティルナーをディスっていたのが三島由紀夫だったら、ぼくは「ほらな! だから三島はダメなんだよ!」と変な優越感に浸って小躍りしていたかもしれない。でも、残念ながらシュティルナーをディスっているのは芥川なのである。ぼくにとって思い入れが強い作家なのである。芥川がシュティルナーを酷評している以上、「芥川龍之介が好きな自分」と「シュティルナーが好きな自分」は両立しないのではないか、だとしたらぼくという人間は存在自体が成り立たないのではないかという奇妙な不安感に襲われ、ぼくは展覧会に集中できなくなってしまった。
……とはいえ、第四部「生涯」のエリアに進んだ頃にはだいぶ集中力が回復しましたけどね。だって、芥川が幼稚園の頃に折った折り紙だとか、芥川が実父の家から除籍された時の「家督相続人廃除請求裁判判決書」なんかが展示されていたんだもん。どうしてもそっちに意識が奪われちゃいますよ。
第四部「生涯」では、芥川が書いた遺書(子ども宛て・夫人宛て・その他宛て)とか、菊池寛が書いた弔辞も展示されてあって、由梨はそれらを神妙な面持ちで眺めていた。どうやら芥川龍之介の死にショックを受けているらしい(100年の時を超えて)。ぼくが「芥川の葬式の役割分担表だって! 『休憩所係』のところに川端康成の名前がある!」と話しかけても、由梨は悲しげに「うん……」と返してきただけだった。
展示室の奥にある川端康成記念室も覗いたあと、2階の展示室を出る。ぼくは無知無教養な人間なので初めて知ったのだが、川端康成も死因は自殺だったんですね。なんだか昭和の作家はどいつもこいつも自殺ばっかだな。逆に自殺以外の理由で死んだ昭和の作家って誰だろう。もしかして安部公房しかいない?(そんなはずはない)
由梨がトイレに行きたいと言うので付き合ったあと、1階の受付で、今回の展覧会の図録と、今年の4月に発売されたばかりの日本近代文学館編『芥川龍之介写真集』を買う。しめて4,620円(税込)なり。大変な出費だが、これは計画通りの買い物だ。由梨を誘うにあたって日本近代文学館のサイトを覗いた時、ぼくはこの2冊が発売されることを知って、その時から「あ、これは絶対に買おう」と決意していたのである。この約一か月間、ぼくがコンビニ夜勤のバイトを頑張れたのは「お金を貯めて『芥川龍之介写真集』を買うぞ」という明確な目標を胸に抱いていたからなのだ。
『芥川龍之介展』に来て図録も写真集も買う来館者はきっと珍しかったに違いない。ぼくが受付の職員さんに「図録と写真集を1冊ずつください」と言った時、職員さんは「えっ、こっち(写真集)もですか!」と少しびっくりしていた。「あなたはそんなに芥川が好きなんですか!」という驚きと尊敬の眼差しだったな。……いや、いま冷静に考えてみると、あの驚きの表情は「こんな貧乏そうな学生に4,620円を支払う能力があるのか!」という意味での驚きの表情だったのかもしれない。
日本近代文学館を退出。由梨が「せっかくだから駒場公園を散歩しよう」と言うので、別にそこまで広い公園じゃないので「散歩」といっても微妙なのだが、まあ、反対する理由はないので付き従う。「さっき、芥川の遺書を見ながら悲しんでたよね?」「悲しんでたっていうか色々考えてた。あの遺書ってさあ……」みたいな会話を交わしたあと、ぼくは、シュティルナーの『唯一者とその所有』に書き込まれていた芥川の書き込みについて話した。鼻で笑われるだろうなと思いながら、「自分の推しが自分の神を酷評していたのでショックを受けた」と正直に話した。
そうしたら、意外にも由梨はぼくをからかったりしないで、「それが芥川龍之介と(ぼくの下の名前)くんの違いってことなんじゃない? その哲学書を読んでも芥川は感動しないけど、(ぼくの下の名前)くんは感動するというところにそれぞれの個性があるんだよ」と言ってきた。
「芥川龍之介」と「ぼく」を対等な存在と捉えてそんなことをのたまう由梨の大胆さにびっくりさせられたが、まあ、由梨の言いたいことは分かる。ぼくは芥川龍之介の小説が好きで、芥川龍之介のことを他人と思えないでいたが、実際には芥川龍之介とぼくは他人である。真っ赤な他人である。いくら強い思い入れがあるからといって、そこを勘違いしてはならない。ぼくはぼくだ。他人の価値観に気を取られることなく、自分の価値観を信じて生きていかなくちゃならない。ぼくは芥川龍之介の好き嫌いなんかに振り回されている場合じゃないのだ。
だから、ぼくは自分を「芥川龍之介」から解放しなければならない。「芥川龍之介のファン」であることは構わないが、「芥川龍之介教の信者」であろうとしてはならない。ぼくの好きなものが芥川龍之介の嫌いなものであった時、ぼくはあくまでもぼくの「好き」を信じなければならない、尊重しなければならない。
もっと言うと、ぼくは「シュティルナー」からも自分を解放しなければならない。さっきぼくは「『唯一者とその所有』と辻潤による解説エッセイを読んで生きることがすっかり楽になった」と書いたが、ぼくの人生を楽にしたのはシュティルナーでもなければ辻潤でもない。彼らは過去に文章を書き残していたにすぎない。ぼくの人生を楽にしたのはぼく自身だ。ぼくが彼らの文章を読み、自分なりに受容することによって、自分で自分の人生を楽にしたのだ。傲慢不遜な態度と言われるかもしれないが、それこそが客観的事実である。哲学者や宗教家やカウンセラーが束になってぼくに説教をしてきたところで、ぼくが彼らの言動に意味を与えない限り、彼らの言動はぼくの人生において価値を持たない。「0」に「100」をかけても「0」は「0」のままだというのと同じ話だ。もしもあなたが誰かの本を読んで震えるほど感動した時、それはその本を書いたひとがすごいのではなくて、その本を読んで感動できたあなたがすごいのだ。その意味で、すべてのひとの人生はまさしく「自分だけの世界」なのである。
ぼくと彼女は『芥川龍之介展』へ行く。皮肉な話だが、大好きな芥川龍之介の展覧会へ行ったことで、ぼくは自分を「芥川龍之介」から解放できた。そう考えると、ぼくは若き日の芥川に感謝すべきかもしれないな。だって、もし芥川が『唯一者とその所有』を称賛していたりしたら、ぼくは「やっぱりぼくと芥川は他人ではない!」なんて思い込んで、いよいよ「芥川教」の信者になっていたかもしれないもの。自分の価値観を芥川の価値観に合わせようと自発的に隷従していたかもしれないもの。若き日の芥川がぼくの好きなものをディスってくれていたおかげで、ぼくは自分自身を生きることの大切さに気付くことができた。
念のため書いておくと、ぼくは芥川の小説はいまも変わらず好きですよ。いや、むしろ「芥川龍之介」から自分を解放したことで、以前より純粋に作品を楽しめるようになったというか。『歯車』もやはり面白いですねえ。主人公が銀座の丸善へ行って立ち読みするくだりが特にいい。丸善の2階で外国人作家の自伝的小説を立ち読みして、主人公は「それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄いろい表紙をしていた」との感想を抱く。ここでの「のみならず」の用法がユニークで面白いよなあ。さすがはぼくがいちばん好きな日本の小説家だ。ぼくは芥川龍之介の小説を読むと幸せになるのです。