ぼくは後輩の男子に恋をする

 ぼくはいま恋をしている。恋のお相手は交際中の彼女の小手由梨さん……ではなく、サークルの後輩の深田健也くんである。ぼくは深田のことが好きだ。大学の構内を歩いていても、自然と深田の姿を探していたりする。遭遇することは滅多にないが、それでも自然と探していたりする。毎週水曜の昼休みに開かれるサークルの部会では深田が来ているかをまず確認するし、街中で「深」とか「健」とかの漢字を見かけるとそれだけでドキドキしてしまう。ぼくは深田のことが好きだ。深田健也のことが大好きだ。

 ぼくが深田と出会ったのは今年の春のこと。深田が新入生の新入部員としてうちの放送サークルに入部してきたのだ。部室で一目見た瞬間、胸がキュンとなった。「爽やか」「高身長」「イケメン」というぼくの理想のタイプ三条件を満たしている上に、「優しそう」「健やか」「シャイ」という夢のオプションまで加わっている。最高の男の子じゃないか。でも、その時は恋愛感情までは抱かなかった。ぼくが深田を本当の意味で好きになったのは、5月の番組発表会の全体リハーサルがきっかけだったんだ。

 うちのサークルでは、一年生は6月の発表会でデビューすることになっている。それまでの期間は、部内のどの部門に所属するにせよ、先輩のもとで下積み的な修行をさせられる。深田は技術部門のミキサー志望なので、音声ドラマの制作者であるぼくとは部門が違う。ぼくの作品のミキサーは同期の篠丸が専属で務めてくれているから、サークル活動の面でぼくと深田は関わりがない。挨拶ぐらいは交わしたけど、深田はそんなに部室にたむろするタイプでもないので、「雑談」というほどの会話も重ねていなかった。

 5月発表会の全体リハーサルの日。篠丸が遅刻することになったので、ぼくの作品のミキサーをぼくが臨時で行うことになった。本来のミキサーが不在だからって、技術部門の他のひとに代打をやってもらうのは面倒である。このたった一回のリハーサルのために、代打ミキサーと「ここはこうやってもらって……」と打ち合わせたところで時間と労力の無駄だし。だから、その場ではぼく自身が臨時でミキサーを務めることにした。ぼくの書いた台本なんだからそれがいちばん手っ取り早いし、ぼくだって入部三年目でミキサー機器を最低限は操作できたりするからだ。

 機器の操作を壮大にミスりつつ、ぼくは「はい、お疲れさまでした」と自作のリハーサルを終える。はあ、疲れた。ぼくは脚本家・演出家としては一流だけど、機械の操作は下手クソだな。これを普段ノーミスでやってのける篠丸はやっぱりすごいな。なんてことを思いながら、ぼくがミキサー席の後片付けをしている時だった。深田が背後から声をかけてきたのは。「これで音量を変えるんですか?」。本体右側のフェーダー(音量調整のツマミ)を指さしながら、深田がぼくに優しく微笑みかけているではないか。

 びっくりした。なぜか深田がぼくに声をかけてきた。フェーダーのことなら技術部門の先輩からとっくに教わっているはずなのに。ぼくは本日限定の下手クソ臨時ミキサーでしかないのに。でも単なる現実として、ぼくの顔のすぐ右隣、15cmの距離に深田の顔がある。ぼくらはその至近距離で見つめ合っている。深田はやっぱりかっこいい。すごくドキドキする。この瞬間、ぼくはもう完全に恋に落ちていた。っていうか、この状況で深田に沼らないなんて無理だろ。深田はとにかく最高すぎる。ぼくの理想の男子すぎる。

 「……えっ、あっ。うん」。極度のドキドキ状態にあったぼくはそう返すのが精いっぱいだった。「そうなんですね。……あっ、ありがとうございました」。そう言って頭を下げると、深田は部屋の後方へ戻っていった。いまのぼくはこの対応を反省している。「えっ、あっ。うん」のあとに、せめて「ちょっと操作してみる?」と言ってあげるべきだった。「一年生は5月発表会が終わるまでは技術講習以外ではミキサー機器に触れてはいけない」という規則を先輩側から破って、その場で好きなだけ機械をいじらせてあげるべきだった。だいたい、「一年生は5月発表会が終わるまでは技術講習以外ではミキサー機器に触れてはいけない」とかいう規則はどうしようもなく意味不明でクソすぎるだろ。機械なんて早めに触ったほうがいいだろうに。ぼくはこのクソ規則の導入(とか)をめぐって会長の河村に反発し、それでぼくと河村は一時期溝ができたのだった(余談です)。

 それ以降、ぼくと深田のあいだに特別な交流はない。さっきも書いたように、深田はぼくとは部署が違うし、部室にたむろするタイプでもないからそもそも遭遇しにくいのだ。部会や発表会のリハーサルで深田が一人になっている瞬間を見つけて、ぼくのほうから「どう? サークルには慣れた?」とか「大丈夫? 疲れてない?」などとさりげなく声をかけに行く程度である。声をかけられた深田は笑顔で「あ、はい。慣れました」と返してくれるし、「はい、大丈夫です。……今日ってこのあと、みんなで飲みに行ったりするんですかね?」と会話を広げてくれることもあるが、あまり長く深田のそばにいすぎると胸のドキドキがひどくなるので、ぼくが結局「じゃあ……」と言って十数秒後にその場を離れてしまうというのが現状だ。

 ぼくのゲイセンサーが感知するところによれば、深田は十中八九ノンケであり、ぼくのことをちっとも恋愛対象として見ていない。それどころか先輩としても関心を寄せていない。技術部門の先輩である宇佐見なんかに懐いてやがる。大のサッカーファン、FC東京サポーターというつながりもあって、深田と宇佐見(と若林)は一緒に試合を観戦しに行ったりもしている。ああ、悔しい。ウサちゃん、その席ぼくと代わってくれないか。ぼくはサッカーなんて1mmも興味がないが、でも深田のことは好きなんだ。試合を楽しむ深田の横顔を眺めたいんだ。

 この前、彼女の由梨に連れられて、池袋の西武の屋上にある空中庭園に行った。もう日が落ちていたから池や草花がライトアップされていて、それがものすごく幻想的だった。由梨と並んで歩きながら、ぼくは深田のことを考えていた。深田と一緒にここを歩いてみたいな、デートしてみたいなって。池にかかる橋を渡りながら、由梨が緑色の欄干を触って「わたし、この色好きだな。コバルトグリーンっていうか」とぼくに微笑みかける。「いちばん好きな色ってわけじゃないけどね。でもこの色使いたい」とも言ってきたので、ぼくは「自分の作品に?」と尋ねる。由梨が「うん」とうなずく。ぼくはひどい彼氏だ。せっかくのデートの最中なのに、目の前の相手と違う相手のことを考えている。目の前の相手とデートしながら、違う相手とのデートを妄想している。

 ぼくは深田のことが好きだ。これは恋愛感情だ。でも、本気で本気ってわけじゃない。ドキドキとか胸キュンとか言ってみたって、それはアイドルを推すのと同一線上の感覚だ。ただ、この「好き」がいずれ本気の「好き」になってしまうかもしれない。ぼくはそれが怖い。ぼくはまだ、由梨とデートしながら深田のことを考える自分に罪悪感を抱けている。でも、そのうち、ぼくは深田のことを本気で好きになって、由梨のことを厄介なだけの存在としか思わないようになるかもしれない。ぼくはぼくに関心を持たないノンケとの叶わぬ恋を追い求めて、ここまで思い出を築いてきたぼく思いの子をあっさり捨ててしまうんだろうか。ぼくは自分自身が怖い。

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