ぼくはゼクシィが怖い
ぼくには交際二年目の彼女がいる。ぼくはゲイだが、交際二年目の彼女がいる。ぼくはゲイなので、彼女に恋愛感情を抱いていない。当然のことながら、ぼくは彼女とともに人生を歩んでいこうなんて考えていない。ぼくはそもそも死ぬまで誰とも結婚するつもりはないが、万が一ぼくが誰かと結婚するとしたらそのひとは男性であり、爽やかで高身長のイケメンなのだ。たとえばうちのサークルの後輩の深田とか。あいつノンケだけど。
一年と少し前、ぼくは首都圏の大学の放送サークルの懇親会で由梨と知り合った。というか、たまたま同じテーブルになった。ぼくとしては由梨のことを意識していなかったが(ごめんなさい)(あの席でぼくが意識していたのは別の大学の水野くんでした)、由梨としてはぼくのことが気になったようだった。それでぼくは由梨に「お茶に行きませんか」と誘われ、ぼくは断る理由が思いつかなかったので何度も誘いに乗ってしまい、「ぼくはゲイなので付き合えません」と言うつもりが「ぼくと付き合いませんか」と告白してしまったのだった。ええ、ぼくはサイコパスですとも。
ぼくの大学と由梨の大学はどちらも中央線沿線にあって、ぼくは蒲田、由梨は桜木町のほうの実家に住んでいる(プライバシーの侵害)(ネットリテラシーお留守)。そういうわけで、ぼくらは平日の放課後、京浜東北線で一緒に帰ったりする。もちろん毎日ではない。今期だとせいぜい週に二日だ。
電車に乗ったことがあるひとなら誰でも知っているだろうが、電車内には広告というものがある。中づり、ドア横、ステッカー、車内ビジョン広告。電車の網棚(荷棚)の上にある広告の形態は「まど上」と呼ばれる。なぜぼくがそんなことを知っているかというと、ぼくはついさっき「電車 広告」でGoogle検索を実行したからである。
この二週間で二回、ぼくと由梨は京浜東北線の車内で、ゼクシィ8月号のまど上広告の前に立たされている。これはまったくの偶然……であることを願うのだが、偶然にもぼくらが電車に乗って空いているスペースに立つと、目の前にゼクシィ8月号の広告があったりするのだ。
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ゼクシィ。株式会社リクルートが発行する結婚情報誌である。将来にわたって誰とも結婚するつもりがないぼくの人生とは無縁の情報誌だ。深田がノンケからゲイ(orバイセクシュアル)にモデルチェンジでもしない限り無縁の情報誌だ。現時点でゼクシィが同性カップルを射程に入れているという話は寡聞にして知らないが、日本で同性婚が認められた暁には、当然ゼクシィも同性カップルの結婚を奨励するようになるだろう。リクルートは反LGBTの教義を掲げる宗教団体ではないはずだし。
ゼクシィの広告の前に立たされている時、ぼくと由梨は気まずい。二人のあいだにソワソワした空気が流れる。前にもこんなことはあった。去年の暮れ、ぼくらはゼクシィの車内広告の前に立つことになり、目のやり場に困ったのだった。でも、あの時より今回のほうが気まずい。それはやはり、ぼくらが交際一年を超えたからという事情による。そして由梨が最近、ぼくらの将来を漠然と考えているかもしれないという事情による。
先月下旬のこと。交際一年記念みたいな感じで、二人でホテルに泊まった(ホテルといってもラブホテル的なところだが)。ぼくは母との二人暮らしだから朝帰りしようが数日間家を空けようが問題ないが、由梨はご両親と弟さんと一緒に暮らすちゃんとした女性である。中高一貫の女子校→女子大というルートで大事に育てられた女性である。だからぼくとの「宿泊」はそれまでに2回しかなかったし、そういう時は一人暮らしの友達のサキちゃんの家に泊まるとお母さんに電話で嘘をついてくれていた。
センシティブな行為を済ませ、シャワーを浴びたあと、ぼくがベッドで眠りに落ちかけていると、由梨が「お泊まりだとのんびりできるからいいね。今期は会えない日が週4日続くじゃない? もっと(ぼくの名前)くんと一緒にいたい」などと言ってくる。コンビニ夜勤のバイトのせいで万年睡眠不足のぼくとしてはさっさと眠りたかったのだが、「うん」とか「たしかに」とかいう単語で優しく応対する(ぼくは紳士なので)。「ずっと一緒にいたい」と由梨。「そうだね」とぼく。「一緒に住んじゃう?」と由梨。ぼくはその時ほぼ眠りかけていたが、由梨のこの質問でちょっと目が覚めた。ぼくは「う……いや……ぼく……たちは焦らないでいこう。焦るといいことないし。いまはそのタイミングじゃないと思う……」とやんわり拒絶したが、これってよく考えると「いまは違うけどいずれは同棲しよう」という意味に受け取られかねない危うい発言だよな。でも、由梨が「そうだね。わたしたちまだ学生だし。焦るのはよくない」と穏やかな声を返してきたので、ぼくはその声色に安心してしまって、この時点で睡魔に負けた。
まあ、大した話じゃないけど、ぼくの記憶が正しければ、由梨がぼくらの将来に言及したのはそれが初めてだった。それまでは言わずにいてくれていた感があった。以来、ぼくは由梨との同棲をたまにイメージしてしまい、その度に憂鬱な気分になっている。ぼくは由梨とはもちろん同棲したくない。というか、誰とも同棲したくない。これはぼくの勝手な偏見かもしれないけど、「同棲」と「結婚」はセットのように思う。逆に、「別居」と「離婚」もセットのように思う。ぼくの父と母も家庭内別居を経て別居し、事実上の離婚状態(法律上は離婚していないだけの状態)に至っているし。
そんなわけで、いまのぼくには、ゼクシィの広告を目の当たりにするのは精神的にキツいものがある。しかもゼクシィ8月号の特集は「今、絶対に知っておくべき結婚のこと100」というやつで、「親あいさつ」とかいう見出しが目に飛び込んでくる。実はこれも、ぼくは由梨から言われたことがあるのだ。「うちに来る?」「親に会う?」ってやつである。ぼくは「由梨の実家を蒲田の空気で汚染させたくない」とか言って話を誤魔化したが、なんか自分がどんどん追い詰められているのを感じている。
でも、改めてゼクシィの広告を見ると、1冊300円(税込)っていうのは安いと思う。他の雑誌と比べたら安いと思う。しかも、ゼクシィ8月号にはミッキーマウスのハンディ扇風機が付録として付いているらしい。ちょっと気になる。いや、だいぶ気になる。知るひとぞ知る話だが、ぼくはミッキーマウスが好きだ。ミニーマウスは別にそんなにだが、ミッキーマウスは結構好きなのである。昔はまったく興味なかったけど、ミッキーマウスの巾着袋を持ち歩くようになってから、単純接触効果(人間はよく接するものを好きになるという現象)のせいで好きになったのかもしれない。
昨日、ぼくは欲望に屈した。蒲田のくまざわ書店でゼクシィ8月号を買ってしまったのだ。なぜいつも行く有隣堂のほうじゃなくくまざわ書店のほうで買ったのかというと、なじみの店でゼクシィを買うのはやっぱり恥ずかしかったからである。「旅の恥はかき捨て」じゃないが、イレギュラーな雑誌はイレギュラーな状況で買いたかったのである。じゃあどうしてAmazonや楽天ブックスで買わなかったのかというと、できれば紙の書籍はリアル書店で買いたいというぼくのこだわりのせいだ。
分厚い情報誌本体のほうは無視して、さっそく付録のハンディ扇風機を組み立ててみる。ぼくは図画工作があんまり得意なほうじゃないが、このレベルなら余裕で組み立てられる。去年はニトリで買った本棚のキットも組み立てたしな(2時間半かかったけど)。出来上がったミッキーマウスのハンディ扇風機は思ったより立派な感じで、300円の情報誌の付録としては十分合格だ(上から目線)。舌を出しながらウインクするミッキーのイラストはかわいいし、羽を覆うガードに「MICKY」という文字が彫られているところもいい。ストラップの色はピンク色じゃないほうがありがたかったなと思ったが、でも、ぼくは中学生の時にクラスの女子から「(ぼくのあだ名)はピンク色が似合うと思うよ」と言われたことがあったのだった。7年ぶりにそれを思い出した。あれはいったいどういう意味だったんだろう。
せっかくなので、誌面のほうもチラッと読んでみる。親あいさつのマナーだとか、婚約を報告する友人の順番だとかが書いてある。ドン引きである。クソめんどくないかこれ。これがもし「結婚する」ってことなんだとしたら、この世に自らの意思で結婚したがる人間が実在するとは思えない。テロリストに脅されているわけでもないのに自ら進んでこれをやりたがる人間がいるんだとしたら、はっきり言って異常である(不適切発言)。ゼクシィ8月号を読んで、ぼくは絶対結婚しないぞと自分自身に誓ったのだった。
ただ、このミッキーマウスのハンディ扇風機はかわいいよな。外出時に実際に使ってみたい。問題はこれが市販品ではなくゼクシィの付録だということだ。ゼクシィ購読者が東京都及び神奈川県にどれだけいるのか知らないが、有識者に目撃されたら「あ、こいつゼクシィ8月号買ったんだな」と即バレしてしまう。完全にイタいやつだと思われる。まあ、大学のキャンパス内の知り合いに会わなそうなスペースで使う分には大丈夫かな。結婚を準備中の学生なんてうちの大学にはまずいないだろうし。
でも、由梨の前では絶対に使えない。ぼくがもしこのハンディ扇風機を目の前で使っていたら、由梨は絶対「それどうしたの?」って聞いてくる。ぼくは「駅前で配ってた」とか「さっきそこで拾った」などと嘘をつくことはできるが、どう考えても由梨がその説明に納得するとは思えない。ぼくが真実を告げなくても、由梨のことだからゼクシィの付録だと早期に特定すると思う。その展開はいくらなんでもヤバい。どう転んでもヤバい。うーん。ごめんよミッキー、きみのすみかはひとまずぼくの勉強机の上だ。