ぼくと彼女は見ることの重奏展へ行く
ぼくと彼女は『TOPコレクション 見ることの重奏』展へ行く。『TOPコレクション 見ることの重奏』というのは東京都写真美術館で7月18日から10月6日までやっていた展覧会(写真展)のことで、ぼくがいまこの文章を書いている頃にはとっくに終了している。それでもぼくはこの写真展のことについて書いておきたい。……いや、別に書かなくてもいいっちゃいいのだが、せっかくなので書いておく。
10月1日はぼくの就職先の企業の内定式だった。その話は「ぼくは内定式へ行く」という記事に書いた(どうです? ぼくのこのプライベート全公開スタイルは!)。だが、内定式は午前で終了するとのことだったので、ぼくとしては午後から由梨(彼女)と一緒に東京都写真美術館へ行きたかった。それはなぜか。10月1日が都民の日だからだ。都民の日は東京都写真美術館が入館無料になるのである。誰でも彼でも猫も杓子も入館無料なのである。
実際、ぼくと由梨は、一昨年と去年も東京都写真美術館へ一緒に行っている。毎年10月1日の入館無料DAYに東京都写真美術館へ行くというのは、ぼくらが交際を始めて以来のお決まりの行事なのだ。由梨のほうはそこまでこだわっていないみたいだが、ぼくは「毎年10月1日は由梨と東京都写真美術館へ行く」というルーティンを守らないともはや心と体が落ち着かない。
由梨からは「内定式のあとにみんなでご飯食べに行ったりするんじゃないの? スケジュールが読めないから今年はやめたほうがいいよ。普段の日に行ったって観覧料は560円(安め)なんだし」と言われたが、ぼくは「いや、大丈夫だ。由梨さえよければ一緒に行こう」と押し切った。ぼくが由梨の意見に逆らうことは滅多にないが、今回がその例外である。それぐらい、ぼくは「10月1日のルーティン」に心をとらわれていた。
でも、由梨はいいよなあ。就職先の会社(というか団体)が自由な気風だからだと思うけど、そもそも内定式がないんだもの。っていうか、なんで企業は10月1日に内定式なんてやるんだ。百歩譲って平日にやるのはしょうがないとして、都民の日にやるのはやめてくれよ。都民の日を満喫しようと考えている人間に対する人権侵害だろう。よし決めた。ぼくは今度の衆院選で「10月1日の内定式禁止」を訴えている政党に投票する。そんなことを訴えている政党はないということなら、全国の政党関係者のみなさん、ぼくの一票を得るためにいますぐ選挙公約を書き直してください。
……もう1,000文字超えてるんで、集合場所のJR恵比寿駅東口改札前に行かせていただきます。この日のぼくは、内定式で知り合った遠藤くんとすき家でお昼ご飯を食べて別れたあと、JR山手線で恵比寿駅へ向かった。由梨との集合時間まで余裕があったので、アトレ恵比寿(駅ビル)内を散策。まあ結局、5階の有隣堂(書店)で時間を潰すことになりますよね。……あ、『百年の孤独』文庫版だ。発売当初は売り切れ続出だったけど、いまやどこの本屋さんにもたくさん平積みされているよなあ。
集合時間に近付いたので東口改札前へGO。由梨を待つ。集合時間ちょっと前に由梨到着。ぼくのスーツ姿を見て「似合うんじゃん」と言ってくる。そういえば、由梨がぼくのスーツ姿を見るのはこれが初めてなのだった(うちの放送研究会では番組発表会でも部員は基本的にスーツを着ません)。恥ずかしいなあ、スーツ姿を見られるの。由梨から「内定式どうだった?」と聞かれたので、ぼくは、内定式の内容があまりにも空っぽだったこと、これならオンライン開催で十分だと思ったこと、隣の席の遠藤くんという子と仲良くなって一緒にすき家でお昼ご飯を食べたことなどを明かした。
ぼくが「遠藤くんは大学で写真研究会に入っていて、写真を撮るのが趣味らしい」という話をしたら、由梨から「そのひとを誘って一緒に来ればよかったのに。せっかくこれから写真美術館に行くんだから」と言われて、ああそうだな、ぼくは遠藤くんに悪いことしたなと一瞬思ったけど、いやいや、カップルのデート(一応)に第三者を巻き込んだらご迷惑すぎるだろう。そもそもぼくは遠藤くんと今日知り合ったばかりで、まだそこまで信用しているわけじゃないし。念のため書いておくと、由梨は皮肉や冗談で「一緒に来ればよかったのに」と言ったのではなく、遠藤くんのことを思って本心からそう言ったのだ。その証拠に、そのあと由梨は「あ、でもそのひとにもこのあと予定があるよね。そうだよね……」と真顔で反省していましたから。由梨は致命的なところで天然すぎる。
……などということを思ったりしながら恵比寿駅東口の動く歩道に乗っかり、恵比寿ガーデンプレイスへ。東京都写真美術館に通じる道を進む。一昨年と去年の10月1日は土日だったから東京都写真美術館も混んでいたけど、今年は平日だからガラガラだろうな。いくら入館無料といえども。メインで開催中の展覧会は『TOPコレクション 見ることの重奏』とかいうよく分からないやつだし(失礼)。
と思って、いざ東京都写真美術館の玄関に足を踏み入れたら、ええ……めちゃくちゃ混んでる……。もしかしたら一昨年・去年より混んでいるかもしれない。コインロッカー(100円入れなきゃいけないけどあとで100円返ってくるロッカー)もほとんど使用中で埋まっていて、ぼくと由梨は離れた位置のロッカーにそれぞれの荷物を入れないといけなかった。やっぱり、10月1日はぼくらみたいなのが押し寄せるんだな。「東京都写真美術館なんか入館無料DAYにしか行かねえよ!」みたいな人々が。
エレベーターに乗って3階展示室へGO。エレベーターの中もお客さんで混んでいる。他のひとが「地下の展示室は入場まで1時間待ちだって」「そうなんだあ」という会話を交わしているのを耳にして、ぼくと由梨は思わず顔を見合わせた。入場1時間待ちって……ディズニーランドじゃないんですから……1時間も並んでいたら閉館時間になっちゃいますよ……
3階に到着。入口の係員さんから展示作品のリストを受け取り、『TOPコレクション 見ることの重奏』の展示室へ入る。エレベーターで一緒だったひとたち(10人ぐらい)も一緒にぞろぞろ入っていくので、まるでぼくら全員が観光客の一団みたいである。展示室の中もやっぱりひとがいっぱいで混んでいて、ちょっとザワついていた。
『TOPコレクション 見ることの重奏』展は、東京都写真美術館(TOP)に収蔵されている古今東西の色んな写真家たちの色んな作品を展示するという展覧会である。入口のところに掲げられていた「ごあいさつ」のパネルによると、この『見ることの重奏』というタイトルには、一つの作品をめぐっても写真家・批評家・鑑賞者で「見方」が違うよね、一つの作品をめぐって「見方」は重なり合っているっていうことなんだね、という意味が込められているんだそうだ。ぼく的には「批評家」と「鑑賞者」の区別がよく分からないし、その説明だと「作品を論理的に解釈する批評家」「感覚的に眺めるだけの鑑賞者」みたいな選民意識を感じてしまって抵抗感があるけど、まあそこはこの際どうでもいいのでスルーします。
ぼくらが展示室に入った時、展示室はひとでいっぱいなのに、作品を写真撮影しているひとは周りに見当たらなかった。過去に来た時は東京都写真美術館は撮影可だったけど、この展覧会は撮影NGなのかなあ。ぼくが由梨に小声で「写真撮っちゃいけないのかな?」と聞くと、由梨は「……ん? 聞いてみようか」と言って、近くにいた監視員のひとに「すみません、写真って撮影しても構いませんか?」と尋ねにいった。本当さあ、由梨はコミュ力おばけだよ……彼女に代わりに質問してもらっている自分自身が情けない……今日のぼくはスーツを着ているくせに……
というわけで、撮りました。一部コーナーを除き撮影OKらしいので撮りました。まずはウジェーヌ・アジェというひとの作品。このひとは20世紀初期の写真家らしい。本人は自分のことをパリの街並みや建物を写真で記録する「記録者」と自覚していて、「芸術家」とは名乗りたがらなかったらしい。
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壁のところに「かれは犯行現場を撮影するように街路を撮影した」「それは見るひとを不安にさせる」というヴァルター・ベンヤミン(哲学者)の言葉が紹介されてあって、哲学科の学生としては「さすがヴァルター・ベンヤミン、的確な批評だなあ」と思った。もともとぼくはベンヤミンのことはそんなに好きじゃないんだけど。でも、「犯行現場の記録写真っぽい」っていうのはかなりドンピシャな表現だと思う。ウジェーヌ・アジェが撮った写真はどれも「透明人間が忍び込んで見ている場面」みたいな感じで、どこか不気味で、だけどそれが魅力になっている。非常に感覚的なことを言うなら、ぼくは「江戸川乱歩の怪奇小説っぽい。『屋根裏の散歩者』とかっぽい」と思いました。撮影者=語り手の得体が知れないところが気持ち悪い、だけどそこに魅力を感じてしまうっていうか。
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続いて、アンドレ・ケルテスというひとのコーナーへ。現在のハンガリーで生まれて、20世紀前半に活動したひとらしい。このひとの写真もウジェーヌ・アジュと同じく「誰もいない風景」を撮ってはいるけど、こっちはきちんと撮影者=語り手の存在(主観)を感じるなあ。「こういう趣きで撮ってやろう」的な。ちなみにアンドレ・ケルテスは『LIFE』にも寄稿していたそうで、ぼくは6月に行った『ロバート・キャパ展』を思い出した。キャパも『LIFE』のカメラマンだったよね。
中国の現代のカメラマン、チェン・ウェイの写真もインパクトがあった。脚を撮ったカラー写真は特に印象に残る。2年生の時に見学に行った他大学の放送研究会の番組発表会で、ダンスする脚を撮影したMV番組があって、この写真と構図が似ているなと思った。もしかしたらあのMVの元ネタはチェン・ウェイのこの写真が元ネタだったのかもしれない……って、放送研究会にそこまで意識高い部員がいるわけはないですかね?
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由梨は杉浦邦恵というひとの写真が気に入って、何枚か写真を撮っていた(ぼくも付き合いで撮った)。正直ぼくが興味を持つタイプの写真ではなかったけど、由梨が好きそうな写真ではある。ぼくが由梨に「どこが好きなの?」と聞いたら「写真に奥行きがある。混沌とした世界に魂が飛び出てくるような」みたいなことを言ってきたので、ぼくは「その感覚はすごく独創的な感覚だから絶対文章にまとめたほうがいいよ」と言っておいた。
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あとは……個人的には、ベレニス・アボットというひとが撮った1930年代のニューヨークの写真もいいなと思ったし、スコット・ハイドというひとが1970年に作ったコラージュっぽい写真にも心を惹かれた。コラージュっていうか、モノクロ写真の一部を上から水色で塗った作品ですけど。単純に薄茶色と水色は相性がいいってことなのかもしれない。
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![](https://assets.st-note.com/img/1728877639-bFNYAXOvUB9Ip2x6JjhiP70l.jpg?width=1200)
ただ、ぼくが本当にいちばん心を惹かれたのは、マン・レイというひとの写真と、ウィリアム・クラインというひとの写真だ。そして、たまたまではあるのだが、マン・レイのコーナーとウィリアム・クラインのコーナーに限って写真撮影禁止だった。なんたる偶然!……いや、もしかすると、「写真撮影禁止」と言われたからぼくは二人の写真にプレミアム感を感じてしまって、必要以上に高評価しているだけかもしれないけど。「『売り切れ中』と聞かされるとその商品を逆に欲しくなる」的な。ぼくには意外と(?)そういうミーハーなところがあるんですよ……
いや、そうじゃない。ぼくは本当にマン・レイの写真とウィリアム・クラインの写真に惹かれた。その証拠に……なるかどうかは分からないが、ここでぼくは印象に残った彼らの写真に文章のみで触れていくことにしよう。あ、でも短めに済ませるので安心してください!
まずはマン・レイ。ぼくはマン・レイの作品とは初対面だと思っていたけど、由梨から「東京富士美術館に絵が展示されてたよ。常設展のほうに」と教えられて、なんとなく思い出したような思い出さないような……(逆になぜ由梨は憶えてるんだ?)。ぼくが今回の写真展で気に入ったマン・レイの写真は、『ガラスの涙』という1930年の作品だ。上を向く女性モデルの頬に小さなガラス玉が乗っかっている。もしかしたら両面テープみたいなもので貼り付けたのかもしれない(1930年に両面テープがあったのか不明だが)。女性が涙の粒を流しているように見えるんだけど、涙の粒にしてはいささか形が綺麗すぎて、ぼくはその「リアル感」と「フィクション感」のバランスが絶妙で美しいと感じた。
続いてウィリアム・クライン。このひとの写真もよかったなあ。1950年代のニューヨークで撮った写真ばっかりなんだけど、路上で野球っぽい遊び(スティックボールというらしい)をしている子どもたちの写真とか、ブロードウェイの劇場のネオンの看板を組み立てているひとの写真とか、躍動的でめちゃくちゃ好みだった。『ブロードウェイと103ストリート、ニューヨーク』と題された写真では、子どもが拳銃(たぶんおもちゃ)をカメラに向かって突き付けているのだが、その子どもの表情がとにかく素晴らしい。すごいしかめっ面。ギャング顔。ついでに言うと、その少年を横から見ている別の少年の表情も、クールだけどどこか茶目っ気があって素晴らしい。この写真が載っているなら図録を買っちゃおうかと思ってしまったぐらいだ(もちろん実際には買いません)。
ぼくと彼女は『TOPコレクション 見ることの重奏』展へ行く。このあとぼくらは地下1階の展示室へ向かい、『いわいとしお×東京都写真美術館 光と動きの100かいだてのいえ』展も見たのだが、その話はまた改めて書くことにします。とりあえず『TOPコレクション 見ることの重奏』展の感想としては、東京都写真美術館は古今東西の写真家の色んな写真をたくさん収蔵しているんだね、と……。ぼくはもともと写真に興味があるほうではなく、写真展に連れて行かれても退屈しちゃいがちなタイプなのだが、写真にしか表現できない芸術というのがたしかにあるんだなと思いましたよ。
自分がどういうタイプの写真が好きなのかということも、なんとなく自覚できた気がするしね。ぼくは最近の写真よりは昔の写真が好き、カラーの写真よりはモノクロの写真が好き、人間が写っていない写真も人間が写っている写真も好き、だけど芸術みが強すぎる写真はあんまり好きじゃない……って書くと、余計に自分の好みが分からなくなってきたぞ……?
でもまあ、いまは分からないなら分からないでもいいのだ。なにしろ、東京都写真美術館には古今東西の色んな写真がたくさん収蔵されている。ぼくはこれからも東京都写真美術館で開かれる写真展を見に行って、その度に自分の好きな写真を見つけていけばいい。自分がどんな写真を好きなのかを少しずつ分かるようになっていけばいい。そのうちに自分の好みが変わったりしたらそれはそれでいい。作品を見ることが自分と向き合うことになってるっぽいならそれでいい。ふむ、こうなったらぼくは東京都写真美術館にこれまで以上に行くようにしようかな。入館無料の日だけじゃなくて、普段の日にちゃんとお金を払って。まあ、そうは言っても観覧料が高い写真展はちょっと(だいぶ)躊躇しますけどね。自分と向き合うためにはまずはお財布と向き合わないと……。現実ってやつは世知辛いのです。