ぼくの彼女はパンをくれる

 ぼくの彼女はパン屋さんでアルバイトしている。横浜駅の近くの商業ビルに入っているパン屋さんだ。そこで由梨はお客さんにパンを販売する接客スタッフを務めている。まあ、具体的にはパンを棚に並べたり、レジを打ったり、店内のお掃除をしたりってところだ。ぼくは由梨が実際に働いているところを見に行ったことはないが、横浜で会う時にはお店へ連れていかれることがあって、ぼくはそこの店員さんたちにすっかり「由梨ちゃん(or小手さん)の彼氏」として認識されてしまっている。

 デート(と由梨が思っているやつ)でぼくと会う時、由梨は自分のお店のパンを持ってきてくれることがある。「これあげる」とか「はいあげる」っていう感じで。たぶん売れ残りのパンだなという時もあれば、わざわざお金を出して買ってくれたのかなという時もある。はあ。そんなことしてくれなくていいのに。ぼくとしては由梨のその愛情が重たかったりする。ただ、由梨のお店のパンは見た目が美味しそうだし、実際に美味しいし、消費期限が切れているわけでもないから、ぼくはふつうに「あっ、ありがとう」とか言ってパンと好意を素直に受け取っている。まあ、由梨のほうだってぼくにパンを買ってあげるのを楽しんでるんだろうし(傲慢発言)。

 飲食店で食事中にパンを渡される時、ぼくはさすがにその場ではパンを食べたりしない。街中の洋食屋さんだとかイタリアンレストランだとかお好み焼き屋さんだとかでパンを渡された時にその場で袋を破いてむしゃむしゃ食べ始めるほど、ぼくはマナー知らずのヤバいやつじゃない。ありがとうと謝意を伝えた上で、「あんパンかあ。これぼく大好き」とか「ツナパンかあ。美味しくいただきます」とかいう一言を添えて、そのままいただきものをかばんにしまう。でも、学食とかフードコートとかコピス吉祥寺の屋外広場で渡されるんだったら話は別だ。特にコピス吉祥寺の屋外広場のベンチ。あそこで食べる由梨のお店のパンは無性に美味しい。真冬や雨の中をあのベンチで過ごすのはさすがにどうかと思うけど、秋とか春は吹いてくる風がとっても気持ちいい。そこでぼくがいまもらったばかりのパンをむしゃむしゃする時、由梨はいつも少し微笑みながらこっちを見つめる。恥ずかしい。超絶恥ずかしい。最初ぼくは何か感想を求められているのかと思って、「……この……チョコとあんこのバランスが絶妙だね……口に……口の中で豊かな甘みが広がる……」とか言って食レポ的なことをしてみたんだけど、逆に「別にコメントとかいらないよ」って笑われちゃって、ああこのひとはぼくのパン食シーンを見たいだけのただの変態なんだって気付いてからは、ぼくは「美味しい」とか「うん、うまいね」の一言で済ませるようにしている。

 ちょっと前の話なんだけど。ぼくは精神的に苦しんでいて、食事があんまり喉を通らなかったりして、二か月で5kgぐらい痩せちゃったりして、ついにBMIが「瘦せ型」に突入しちゃってたりしたんだけど、ぼくは自分がいま何で苦しんでいるのかを誰にも話さなかった。いや、話せなかった。同じサークルの連中にも、同じ学科の香川にも、学部の後輩の早瀬にも、もちろん由梨にも話せなかった。いつも通りのぼくっぽく振る舞ってた(ぼくは演技が上手いのだ!)。ちょうどその頃、由梨がまた自分のお店のパンを持ってきてくれた。ぼくが好きな菓子パンだ。由梨のお店のパンはどれも美味しいが、特にここのアップルカスタードパンは最高of最高だと思う。ぼくはその時食欲ないない期の真っただ中にあったんだけど、コピス吉祥寺の屋外広場のベンチで由梨からアップルカスタードパンを渡された時、これだけはちょっと食べてみようかなって気になって、一口だけだけど口に入れた。もぐもぐしている時、ぼくの目が少しだけ潤んだ。涙がこぼれそうになったっていうか。久々に食べ物を味わったな。ここ最近はずっと無理やり食べ物を食道まで押し込んでた感じだったけど、久々に、といっても一口だけだけど、でも「食べ物を味わった」という感じがする。ああ、やっぱり由梨のお店のアップルカスタードは美味いな。「美味しい」。ぼくがそうつぶやくと、由梨は「よかった」って言ってぼくに微笑んだ。

 その次に会った時も、由梨はサンドウィッチとかツナパンを持ってきてくれた。それはまあ、ぼくらのあいだのいつものことだ。由梨が自分のお店のパンを持ってきて「これあげる」ってぼくに手渡すのは全然珍しいことじゃない。別に由梨はその頃のぼくが精神的に苦しんでいたことに気付いていたわけじゃないだろうし(なにしろぼくは演技が上手いのだ!)、ぼくが食欲を取り戻すようにリハビリしてくれていたわけでもないと思う。そもそも由梨は看護師でもなければ理学療法士でもないし。ただ、由梨が持ってきてくれたパンがきっかけでぼくの食欲が少しずつ戻ってきて、BMIも「標準」の域まで戻ってきたのは事実だ。いまのぼくは、苦しみの原因そのものは何も解決していないが、でもそのことばかりに意識をとらわれずに済むようになって、すっかり一日三食いただけるようになった。

 急におじいさんみたいなこと言うけど、やっぱり食事って大事だね。このnoteを書いているいま、ぼくは少なくとも少し前よりは穏やかな精神状態で毎日を過ごせている。それはきっとご飯を食べるようになったからだと思う。気持ちが落ち着いてきたからご飯を食べれるようになったのか、ご飯を食べるようになったから気持ちが落ち着いてきたのか。ニワトリが先かタマゴが先かみたいな話だけど、いや、ぼくは「ご飯を食べるようになったから気持ちが落ち着いてきた」んだって感じる。本当に胸が苦しい時はなんにも喉を通らないよ。でもきっと、どんなにどんなに苦しい状況下でも、食べ物が喉を通るチャンスみたいなものが誰にでも一瞬ぐらいは訪れたりするもんなんだと思う。その時に自分の好きなものを口の中に入れることができれば、少しずつかもしれないけど食欲は戻ってきたりするもんなんじゃないかな。自分の好きなもの。ぼくにとっては由梨のお店のアップルカスタードパンとかね。──ああ、こんな話をしていたら、またあのアップルカスタードを食べたくなってきた。食欲が湧いてくるっていうのは実にいいものです。

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