ぼくと彼女はデイヴィッド・ホックニー展に行く

 ぼくと彼女は『デイヴィッド・ホックニー展』に行く。行こうと提案してきた由梨のほうはともかく、ぼくはめんどくさいなあと思いながら行く。というのも、デイヴィッド・ホックニーなる人物についてぼくは何も知らないし、何も知らない人物の絵を観るために1,600円も払うのは億劫だし、そもそも日曜は全7曜日中最も眠い曜日だからだ(?)。ぼくは毎週日曜、眠い目をこすりながら……というか、ほぼ眠りながら由梨との待ち合わせ場所に向かっている。

 デイヴィッド・ホックニーなる人物が誰なのかを知らない点においては由梨も同様だった。由梨はヨーロッパアニメオタクではあるが美術オタクってわけではない。ぼくらは何かの美術展だか展覧会だかに行った時にデイヴィッド・ホックニー展のチラシを手に取って、デイヴィッド・ホックニーという名前とデイヴィッド・ホックニーが描いた絵を初めて認識したのだった。そのチラシに載っていたのは『ノルマンディーの12か月 2020-2021年』という風景画と『クラーク夫妻とパーシー』という肖像画だった。正直、ぼくは『クラーク夫妻とパーシー』を見た瞬間に心を惹かれた。どことなく「健康的なシニカル」って感じがして、あ、こういう絵は好きかも、このひとの美術展に行ってみたいかもと思った。ただし、観覧料が1,600円となると話は別である。1,000円台後半は高額な気がする。なんかさっきからお金の話ばかりしていて申し訳ないが……でもこのnoteは正直なぼくの想いを書く場なので、はい、はっきり言わせていただきます。観覧料、高いです! そちら側にも事情はおありでしょうが、ぼくはこちら側の人間なので言わせていただきますと、高いです!(涙)

 東京都現代美術館に行くのは約10か月ぶりだ。去年、オランダの女性映像作家の展覧会を観るために行った時以来である(この時の観覧料は900円だった)。都営大江戸線清澄白河駅で降りた時には分からなかったが、この日の東京都現代美術館はめちゃくちゃ混んでいた。前に行った古代メキシコ展に負けず劣らずって感じだ。「混みすぎだろう……」などと青ざめつつ、由梨と並んで当日券の大行列に並ぶ。並んでいるあいだに由梨に現金を渡し、2人分をまとめて払ってもらってチケットGET。当然だが、展示ブースの中も混んでいる。というか、入口に掲げられている花の絵の時点で人だかりができていて先に進めない。なんなんだよ、デイヴィッド・ホックニー。何者なんだよ。人気すぎるだろ。日本にこんなにデイヴィッド・ホックニーファンがいるなんて知らなかったぞ!

 やがて、ぼくらは『三番目のラブ・ペインティング』という絵の前にたどり着く。デイヴィッド・ホックニーが新人(?)の頃に描いた絵らしい。その解説パネルには「彼がまず主題にしたのは、同性愛を含む自己の内面の告白だった」という文章が書かれていた。由梨がぼくの耳元で「同性愛者だったんだね」とささやいた。この時、ぼくは動揺した。ご存じない方のために言うと、ぼくはゲイである。女性と付き合ってはいるがゲイである。由梨はぼくがゲイであることを知らない。ぼくは自分がゲイであることを学部の後輩の早瀬以外には誰にも明かしていない(早瀬に対しても「ぼくはバイセクシュアル」と中途半端に嘘をついている)。ぼくは周りに自分がゲイだと気付かれないように毎日を過ごしている。だから由梨と一緒にいる時に「同性愛」や「LGBT」などのワードに遭遇するとビビる。由梨は勘がいいから、ぼくのちょっとした反応を見てぼくがゲイだと気付いてしまうかもしれない。だからぼくは由梨の前では絶対に同性愛の話をしない。同性愛がテーマの映画は絶対に一緒に観に行かない。

 解説パネルを読んでデイヴィッド・ホックニーが同性愛者だと知って、しかも由梨が「同性愛者」という単語を口にしたのを聞いて、ぼくはこの美術展に来たことを後悔した。ここに来る前にデイヴィッド・ホックニーのプロフィールを調べておくべきだった。ぼくは動揺する。この絵はつまらないから早く次の絵を観たいなという雰囲気を出す。でも、進行方向側でぼくの隣に立っている由梨が全然動こうとしない。そもそも混んでいるから動きたいように動けないという事情に関係なく、由梨はこの『三番目のラブ・ペインティング』という絵の細かいところをじっくり観ている。仕方ないからぼくも目をやる。抽象的な絵だが、絵の上に書かれてある「LOVE」という単語が目に入ってきた。その単語の下には「must go」とも書いてある。あまりにも直接的なメッセージすぎるだろ。ぼくは色々な意味で泣きそうになる。この絵は明らかにぼくに対して訴求力がある。ぼくがこの美術展に来てこの絵を観ることは、ぼくの人生における小さな宿命のうちの一つだったのかもしれない。ぼくはもうこの時点でデイヴィッド・ホックニーのことを「他人」とは思えなくなっていた。それどころか、デイヴィッド・ホックニーのことを好きになってしまっていた(ぼくって単純!)

 そこから先は最高だった。チラシで『クラーク夫妻とパーシー』を見かけた時に感じたように、デイヴィッド・ホックニーの絵はぼく好みの絵だなと感じまくった。先へ進もうとする由梨をむしろ止めて「いいね、この絵」とか「これ好き」とか言いまくった。由梨はぼくのテンションが急に高くなったので少し驚いたようすだったが、うれしそうにしていた。展示ブース前半のところで特にぼくが好きになったのは、『スプリンクラー』と『飾りのある金の額に入ったメルローズ通りの風景画』と『ジョージ・ローソンとウェイン・スリープ』だ。『ジョージ・ローソンとウェイン・スリープ』はプロじゃなきゃ描けない肖像画(2人の人物を1つの絵に収めた肖像画を「ダブル・ポートレート」と言うらしい)だけど、前者二つのようなヘタウマな絵はぼくもたまに描くことがある。っていうか、ぼくと画風そっくり。ぼくはますますデイヴィッド・ホックニーに親近感を持った。

 ビリー・ワイルダーとブルーノ・マーズの肖像画もよかったな。ビリー・ワイルダーの肖像画のポストカードが売っていたら買おうと思った。グレゴリー・エヴァンス(誰?)の肖像画を観た時は、「あ、このひとはデイヴィッド・ホックニーの彼氏かな」と直感した。あとでGoogle検索してみたら「グレゴリー・エヴァンスはホックニーのマネージャーで、一時は恋人でもあった」という情報に接したので、ああやっぱりなと思った。ぼくのゲイセンサーは相変わらず優秀だ。たぶんだけど、二人の関係においてはホックニーのほうが愛情重めだったのだろうと思う。あの絵を観たらすぐ分かる。あの絵からは恋人に対する所有欲が伝わってくる。もしかしたらグレゴリー・エヴァンスのほうはそれをウザったく思っていたかもね。

 本当はぼくは由梨とそういう話をしたかったのだが、同性愛関連の話をこのひとにできるはずがないので我慢した。本当だったら、由梨こそこういう話をするのに適した相手なんだけどなあ(逆にサークル同期の河村や伊勢崎にこういう会話は通じない)。代わりに、ぼくは由梨に「ホックニーは紫が好きだね」という話をした。これまたぼくの主観にすぎないが、デイヴィッド・ホックニーは紫色がお好きなのではないかとぼくはお見受けした。「困った時は紫」みたいな感じで紫色に頼っている。そんな風に思ったのは、ぼく自身が紫色が好きだからかもしれない。紫色を好きなひとがゲイだとは限らないが、ゲイは紫色を好みがちなんじゃないかと思う。念のため言っておくと、これはただの偏見だし(当事者だからって許されないぞ)、ゲイと紫色の関連性についてはもちろん由梨には話しませんでした。

 1980年代に入ると、デイヴィッド・ホックニーの絵からは紫色がなくなっていく。この頃、デイヴィッド・ホックニーが『ブルー・ギター』という版画集に載せた絵からはほとんど紫色が感じられない。やがて、写真のコラージュを経て、遠近法を再構築(?)したホテルの風景画を描き出したあたりから、デイヴィッド・ホックニーの紫色は復活していく。美術界隈でどう評価されているのか知らないけど、ぼくは『ブルー・ギター』の頃のデイヴィッド・ホックニーが、デイヴィッド・ホックニー史上最も「らしくない」時期だったのではないかと推察する。青色の薄い線ばかり描いていた頃のデイヴィッド・ホックニーは似非ノンケっぽくてつまらない。逆に、紫色に甘えるデイヴィッド・ホックニーは素敵だ。まあ、別に紫色がデイヴィッド・ホックニーのすべてだとは思わないけど。実際、ぼくは絵を鑑賞しながら「この絵は紫がないね」とか「あ、紫が戻ってきた!」などと騒ぎすぎて、「ホックニーさんは『紫の画家』ってわけではないと思うよ」と由梨に冷たく指摘されたのだった。

 さて、東京都現代美術館『デイヴィッド・ホックニー展』のうち3階展示室は写真撮影NGでしたが、1階展示室は写真撮影OKとなります。1階で展示されている絵は、『春の到来 イースト・ヨークシャー』という風景画とか、『ノルマンディーの12か月 2020-2021年』という風景画(例のチラシに載っていたやつ)だけなんですけどね。でも、この『ノルマンディーの12か月』は結構すごくて、絵巻物みたいな感じでとんでもなく長大に連なっている超大作なのです。タイトル通り、ノルマンディーの景色の12か月分を一続きで描こうっていう企画なわけだ。この企画、ぼくは嫌いじゃない(自分がやるとしたら面倒だけど)。

『ノルマンディーの12か月』の解説パネル(ブレ)
ノルマンディーの冬
ノルマンディーの冬から春にかけて
ノルマンディーの春
ノルマンディーの春から夏にかけて
ノルマンディーの秋
ノルマンディーの駐車場(?)

 これにて『デイヴィッド・ホックニー展』はおしまいです。展示ブースと地続きになっている『デイヴィッド・ホックニー展』特設ショップへ行く(というか、そこを通らないと出口に行けない感じ)。ポストカード売場を眺める。ぼくが欲しかった『飾りのある金の額に入ったメルローズ通りの風景画』のポストカードも売っていなければ、ビリー・ワイルダーの肖像画のポストカードも売っていない。美術展に行くといつもそうなのだが、ぼくの好きな絵に限ってポストカードが作られてなかったりするんだよな。これってどういうわけなのだ。一方、由梨は『春の到来 イースト・ヨークシャー』とあともう一枚のポストカードを「あった」と言いながら手に取っている。どうしてぼくが好きな絵のポストカードはいつも作られていないのに、由梨が好きな絵のポストカードはいつも作られているのだ。この世は不公平すぎないか。由梨にそのことを言うと「日頃の行いの結果だね」と返された。由梨がそれを冗談で言っているのは分かっていたが、この時ばかりはぼくも本気で腹が立ったので、返答せずに由梨の言葉を完全に無視した。

 カタログ(図録)には当然すべての絵が載っているが、これまたなぜか、ぼくの好きな絵に限っていつも掲載サイズが小さかったりする。だいたい、『デイヴィッド・ホックニー展』のカタログは3,300円もする。誰がどう考えても異常な値段である。こんなの買えっこない。由梨だって買おうとしていなかった。しかし、である。ぼくは買うことを決めた。ぼくはもうデヴィッド・ホックニーの絵を結構好きになってしまったのである。ぼくと同じ同性愛者で、ぼくと同じ紫色好きで、ぼくと同じヘタウマな画風で、まあ、共通点と言ったらそれぐらいだが、でもこのカタログを買っておかなければ中長期的観点からいって損をするという衝動に駆られてしまったのだ。由梨からの「半分払おうか?」という提案を制して「自分用に欲しいから自分のお金で買う」と答えたが(ぼくはまだ由梨に対して腹を立てていたのである)、この態度は大人げないなと思ったので、「……由梨が見たくなったらいつでも貸すから言ってね」と言ってあげた(ぼくは優しい)。それでも由梨が「(経済的に)あとで困らない?」と言ってきたので、ぼくはつい「じゃあ1,000円だけ払ってもらってもいいかな?」と言いかけたが、「……いや、心配はいらない。ぼくならきっと大丈夫だ」というマーベル系スーパーヒーローが言いそうな台詞を返して面子を保った。はあ、これでぼくはこの先一か月は学食でいちばん安いきつねうどんかきつねそばしか注文できなくなった(値段は同じなのでたぬきうどんかたぬきそばでも可)。でも毎日きつねうどんかきつねそばだと舌が切なすぎるので、神様、2週間に一度は日替わり丼(きつねうどんときつねそばより110円高い)を注文するのをお許しください。日替わりランチ(きつねうどんときつねそばより200円高い)までは望みませぬから……

 なお、この話には後日談がございまして。この月のコンビニバイトの早朝勤務追加分の給与が思った以上に振り込まれていたので、ぼくはつい気が大きくなって、学食ではきつねうどんときつねそば以外のメニューも平気で頼んでしまっております。まあね、結局、ぼくはこのカタログを買ってよかったと思う。3,300円って高すぎるし、ビリー・ワイルダーの肖像画は掲載サイズが小さくてモヤっとするけど、でも、このカタログに載っている、デイヴィッド・ホックニーの恋人だったというグレゴリー・エヴァンスの肖像画を観ると、ぼくはなんだか微笑ましい気持ちになって、やっぱりこのカタログを買っておいてよかったなと思うのだ。ぼくから大金(1,600円+3,300円)を巻き上げたこの偉大な画家も、近場の男子に恋心を寄せる一人のゲイにすぎなかった。好きな男子をモデルにして絵を描きたくなっちゃう一人のゲイにすぎなかった。ぼくはこういうことを知るとホッとする。公的に表される「仕事」の裏に私的な「想い」が存在することを知るとホッとする。人間は人間にすぎないということ。それこそがぼくにとっての真実であり、他人を信じることをあきらめないで済むたった一つの理由だ。

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