ぼくには口癖がある
ぼくには口癖がある。自分の口癖として自分でも自覚しているのは「バカじゃないの?」というやつで、ぼくはこれを同じサークルの連中に対して日常的に使っている。もちろん本当に相手を馬鹿だと思ってそう言っているわけじゃなくて、あくまで一種の愛情表現、ツッコミのフレーズである。もっともこの前、後輩の梶に対して言った「バカじゃないの?」は、相手のことを本当に馬鹿だと思った上での「バカじゃないの?」だったかもしれない。だって、「音声編集でノイズ除去をしてたら間違えてノイズのほうだけ保存してた」とか言うんだもん。ぼくはそんな虚しいミスはしない。せいぜい、サブトラックの不要箇所を削除し忘れて雑音を本編に被せてしまうことがあるだけだ(一瞬でリカバリ可能なミス)。
いつの頃からか、ぼくの彼女の由梨も「バカじゃないの?」という口癖を使うようになった。ぼくの口癖がうつったっていうことなんだろう。「バカじゃないの?」の表現法に、①「バカじゃないの?」、②「バッッカじゃないの!?」、③「バカじゃないの……」の3パターンがあるとすれば、由梨の場合は①と②の中間のトーンで発声する。大学の放送サークルで音声ドラマを作っている立場の人間としてはその口振りが心地いい。ただ、ぼくらが出会った頃、一年前の由梨は「バカ」なんて言葉は使っていなかったはずだ。ぼくのせいで汚い(かもしれぬ)言葉を口走る人間に変貌させてしまったわけで、そこは由梨と由梨のご両親に申し訳なく思う。
最近のぼくは「バカ」という単語を日常会話では使わないように意識している。ただ、それは由梨に悪影響を与えてしまったのを彼氏として反省したからではなく、サークルの一学年後輩の真中凛から注意されたからである。ぼくが部室で別の後輩に向かっていつものように「バカじゃないの?」と言い放っていた時に、真中は「あの……ひとに向かって『バカ』と言うのはよくないと思います」と注意してきたのだ。ぼくは正直、めんどくさいことになったなと思った。そりゃ、ぼくだって「バカ」という単語がいくら「※愛情表現です」とことわったところで受け手の不快感を招き得るものだってことは分かっている。そんなことは承知の上で、というか、むしろ・だからこそ・あえて、ぼくは「バカ」という単語を使っていたりするのだ。
しかしぼくが「めんどくさいことになったな」と思った本当の理由は、そういう表現の自由的な観点が引っかかったためではない。この真中というのがサークル内でも随一の「天使」であるためだ。ルッキズム的な話にはなるが、真中はとても見目麗しい(さすがに「日本一かわいい女子大生」こと由梨にはかなわないが)。人格面も「明るい」「優しい」「お清楚」として称賛を受けている(やはりこれらの要素も由梨にはかなわないが)。実際、サークル内での真中の男子人気はすさまじいものがある。真中に性的関心を抱いていない男子部員は堀切(アセクシュアル)とぼく(ノンケのふりをしているゲイ)ぐらいなもんじゃないだろうか。梶なんて、彼氏でも何でもないくせに真中とお揃いの帽子を被って勝手にペアルックを気取っている(ドン引き)(逮捕不可避)。しかも真中は同性からの支持も厚い。なぜか嫉妬されることなく、「リンリンかわいい♡」などと持ち上げられている。まさに真中は我がサークルの「天使」と呼ぶべきアイドルなのだ。
その真中からぼくは公衆の面前で言動を非難された。はっきり言って、ぼくはこのサークルの実力者である。音声ドラマの作り手としても、渉外の担当者としても、ぼくはこのサークルにとんでもなく貢献している。ぼくがいなけりゃこの放送研究会には何の値打ちもない(傲慢)。ただ、相手は「天使」である。しかも「ひとに向かって『バカ』と言うのはよくない」というのは小学生レベルの正論である。争うだけ無駄というものだ。ぼくには「……そうだね。もう言わないようにします。リンリン、指摘してくれてありがとう……」と返答するという選択肢しか残されていなかった。
それから数日後。由梨の大学最寄り駅近くのカレー屋さんで平日ランチをともにしていると、由梨がぼくのくだらない話に「バカじゃないの?」とツッコミを入れてきた。はあ、安心する。日常会話の中に「バカ」という言葉が含まれていることの安らぎったらない。大阪のひとは「バカ」を侮辱表現と捉え、「アホ」を愛情表現と捉えるという話を聞いたことがあるが、ぼくの感性はその真逆である。ぼくは「バカ」という言葉が好きだ。「アホ」でも「おバカ」でも「stupid」でもなく「バカ」が好きだ。由梨がぼくに対して「バカじゃないの?」とか「バカだねえ」とか「バカだなあ」とかいう言葉を投げかける時、由梨にぼくの口癖がうつっていてよかったと感じる。由梨と交際していてよかったとさえ感じる。
ただちょっと、由梨が友達や家族にも「バカじゃないの?」と言ってしまっていないか、そのせいで由梨が周りから品性を疑われてはいないかと心配にもなる。ぼくはさりげなく「その『バカじゃないの?』ってツッコミ最高だね! 由梨はほかのひとにもそれ言ってたりするのかな?」と尋ねる(実際にはその1700倍ほど遠回しに尋ねている)。由梨は「言うわけないじゃん。『バカ』なんて、(ぼくの下の名前)くんにしか言わないよ」と答える。ああ、よかった。……って、うん? それってどういう意味なんでしょうね。ぼくへの愛情と捉えるべきなのか、それとも侮辱と捉えるべきなのか。ぼくの頭の隅が少しモヤるが、ここでその部分を深追いすると面倒な展開になりそうな気がしたので、ぼくは無表情で「はは」と笑って受け流す。由梨は小悪魔的な微笑をこちらに送っている。何を考えてるんだこいつ。心の中を見透かされているようでちょっと怖いが、まあいい。公衆の面前でぼくの言葉遣いを咎めてこないだけでも、リンリンよりはユリリンのほうがマシだ。
最近のぼくは「バカ」という言葉を日常会話では使わないように意識している。ただ、それはその場に真中凛がいない時に限った話である。梶や藤沢や佐々木や木村に対しては相変わらず「バカじゃないの?」と言っている。それでぼくらの関係は上手くいっている(と思う)。もっとも、堀川や田川や阿久澤に対しては「バカじゃないの?」と言わない。彼らはそんなツッコミが適すようなバカなことをやったりしないからだ。あと、多田野に対しても言わない。多田野は「バカ」と言われると傷付くタイプだと明らかだからだ。ぼくはこれからも「バカ」という言葉を使っていくと思う。そのせいで誰かに注意されたり、嫌われたりもするかもしれないが、それでもぼくは「バカ」という言葉が相変わらず好きだし、「バカ」という言葉を好きな自分が好きなんだ。──なんてバカバカしい話を長々としていると、これをお読みのみなさんからそれこそ「バカじゃないの?」とツッコまれてしまいそうです(おあとがよろしいようで)(そこまでよろしくない)。