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ぼくはエレンディラを読む
ぼくは『エレンディラ』を読む。『エレンディラ』というのは、ちくま文庫から出ているガブリエル・ガルシア=マルケスの短編小説集のことだ。ついでに言っておくと、ガブリエル・ガルシア=マルケスというのはコロンビア出身の作家の名前である。
ぼくは今年の6月に『百年の孤独』が文庫化されるタイミングでガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を読むようになった。『予告された殺人の記録』『百年の孤独』『族長の秋』と読み進めてきて、今回の『エレンディラ』がぼく史上4冊目のガブリエル・ガルシア=マルケスだ。
ぼくが今年の6月からガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を次々読み続けているのは、ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説が面白いからだ。そりゃそうである。ぼくは自分の趣味でガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を読んでいるんだもの。ゼミの課題で読まされているとかじゃないんだもの。ぼくは面白くないと分かっている小説家の小説を無意味に読み進めていくほどタイパが悪い人間じゃない。ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説が面白いことを知っているからこそ、ぼくは『予告された殺人の記録』『百年の孤独』『族長の秋』を読み終えたあと、じゃあ今度はこの『エレンディラ』ってやつを読んでみるかという気になったのである。
ただ、この「面白い」というのには個人差があるようでして、ぼくの話で『百年の孤独』に興味を持った河村(サークルの同期)は、『百年の孤独』文庫版を買って一応最後まで読んだらしいけど、「面白さがいまいち分からなかった。言うほど面白いかこれ?」と感想を述べてきた。おすすめした側としては河村に1,375円(税込)を無駄遣いさせてしまったみたいで胸が痛んだが、河村からは「それは(ぼくの下の名前)の責任じゃないから気にするな。持っていて損になるものじゃないし。だって有名な小説なんだろ?」と逆に励まされた。チッ、これだから実家が太いやつは……
……さて、『エレンディラ』である。ちくま文庫の『エレンディラ』には7つの小説が収録されている。
「大きな翼のある、ひどく年取った男」
「失われた時の海」
「この世でいちばん美しい水死人」
「愛の彼方の変わることなき死」
「幽霊船の最後の航海」
「奇跡の行商人、善人のブラカマン」
「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」
上の6つはそれぞれ30ページぐらいの短編小説で、最後の「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」だけは80ページぐらいの中編小説だ。『百年の孤独』の翻訳者でもあった鼓直というひとと、ぼくにとってははじめましての木村榮一というひとが共同で翻訳している。
ぼくは最初のページから順に読んでいったが、もう、「大きな翼のある、ひどく年取った男」からしてめちゃくちゃ面白い。『百年の孤独』っぽいマジックリアリズムを感じるし、なんなら『百年の孤独』よりもマジックリアリズムのキレがいい。少し不気味っていうか、不穏っていうか、気味の悪さが漂っているところもクセになる。
「失われた時の海」は日常ドラマのようでいて、やっぱりマジックリアリズムが効いていて(効きまくっていて)、奥の深い小説だなと思った。「この世でいちばん美しい水死人」は一つひとつの文章にシニカルなユーモアが詰まっていて面白かった。「愛の彼方の変わることなき死」と「幽霊船の最後の航海」は比較的地味な感じだったけど、明らかに印象に残る台詞とシーンがあって、なんだかんだで心に残る作品だ。
そして、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」。もうね、これはね、呆れ果てるほど面白かったですね。最初の2ページだけで大優勝。怪しい行商人が出てきて得意げに毒消しの薬を実演販売するが……っていう出だしは、筒井康隆の作風と被るところもあって(そんな風に思ったのはぼくが筒井康隆の愛読者だからだろうけど)、ぼくは一瞬で「あっ、この小説、好き……」という気持ちになった。それで、最初の2ページだけじゃなくて、この小説はそのあと最後まで面白さをキープしてやんの。というか、むしろ面白さを加速してやんの。ブラックなオチも最高だったし、この「奇跡の行商人、善人のブラカマン」こそがぼくのいちばん好きなガブリエル・ガルシア=マルケス作品だなって、読み終わった時に確信しましたね。
まあ、そうは言っても、せっかくだから「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」も読んでおきますか。この本の最後に収録されている中編小説。……ふむふむ。あー、この土地の雰囲気は『百年の孤独』のマコンド(村の名前)みがあるなあ。……うん……えっ……うん……あれれれれれれ、もしかしたらこの作品、とんでもなく面白いかも……!
「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」は、題名から分かるように、無垢な少女・エレンディラと無情な祖母の動向を描いた小説だ。若干ネタバレになってしまうがあらすじを書くと、エレンディラと祖母は田舎の村に二人で暮らしている。しかしある晩、エレンディラが火の不始末で自宅を全焼させてしまう。祖母はエレンディラを責め、借金を返すために国のあちこちを移動してエレンディラに売春させる。まあ、はっきり言って、この時点でほとんどの読者はドン引きだと思う。こんな小説は読みたくないと思うと思う。
だけど、「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」はとんでもなく面白いのだ。何が面白いって、物語そのものも面白いが、文章が面白い。筆致に引き込まれる。そうなんだよな。ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説の面白さって、プロットが独創的であるとか予期せぬ展開であるとかいう以前に、出来事を俯瞰的に繰り出していくその語り口にある。しかもその「俯瞰」は、小説が三人称(神の視点)の場合でも、一人称(「わたし」や「おれ」)の場合でも冴え渡っている。形式は小説なんだけど内容はルポルタージュのような、登場人物のことをどこか突き放したような冷静な視点が文章に常に潜んでいる。
あとはまあ、やっぱりガブリエル・ガルシア=マルケスはテクニシャンですね。主人公たちと違う人物たちの動きを同時並行で描いたり、絶妙なタイミングで語り手が自我を現わしたりして、非常にハイレベルな技法が張り巡らされている。こういうのを「文学性が高い」というのだろう。ただ、そういう技法をこれみよがしに誇示するのではなく、さらっとカジュアルに繰り出していっているところがにくい。あくまで「物語の面白さ」で読者を引っ張っていくところがすごい。読者を「上手い」と感心させるのではなく「面白い」と興奮させる小説に仕上がっているのがエグい。今さらですけど、ガブリエル・ガルシア=マルケスはただもんじゃありませんよ。
……とまあ、抽象的なことを書いてはみたが、結局のところ、ぼくは「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」がどうしてとんでもなく面白いのかをいまだ解明できていない。そして、実は解明するつもりもない。それは、ぼくがガブリエル・ガルシア=マルケスという小説家を好きになってしまったからだ。ぼくはこの小説家の作品を学術的に研究したり評論したりするよりも、ただの一読者、一ファンとして無邪気に楽しんでいたい。思考停止で「ガブリエル・ガルシア=マルケス沼」に浸っていたい。なんていうか、ぼくはこの「事件」に立ち向かうことなく、犯人に翻弄される被害者のままでいたいのだ。
とはいえ。ぼくはガブリエル・ガルシア=マルケスのことを神のように慕っているわけではなく、「どこか信用ならないやつ」と思って一定の距離感を保っておりますので、そこのところはご安心ください(?)。中学生の時に出会ってしまっていたら神聖視していたかもしれませんけどね。ほら、中学生ぐらいの時に心を惹かれたものって、その後の価値観を決めちゃうようなところがありますから。
まあ、そんなわけで、『エレンディラ』を読み終えたことだし、ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説はひとまずこれで一段落。なにしろ、ぼくには趣味で読みたい小説がいくつも控えているのだ。次は『日はまた昇る』を読もうか『火星年代記』を読もうか、それとも『蔦屋の息子 耕書堂商売日誌』を読もうか……と考えながらPCのメールボックスを確認していたら、光文社古典新訳文庫のメールマガジンが届いていて、「【これから出る本】 2024年11月 『悪い時』 ガブリエル・ガルシア・マルケス」と書かれてあるではないか。……はあ? 光文社古典新訳文庫からガブリエル・ガルシア=マルケスの新刊が出るだと……? しかも11月? ……はあ?
えっと、ええ、みなさまお察しの通り、ぼくは11月12日に光文社古典新訳文庫から発売される『悪い時』を購入するつもりでいます。おそらくは大学構内の紀伊國屋書店か、自宅の近所の有隣堂グランデュオ蒲田店で購入することになるのでしょう。そして読み始めて、読み終わって、「ああ、やっぱりガブリエル・ガルシア=マルケスは面白いなあ」とか思って、今度は河出文庫から出ている『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』に手を出すことになるのでしょう。……ふーむ……。ぼくは当分、ガブリエル・ガルシア=マルケス沼から脱出できなさそうだ。