ぼくはチェーホフを超えた

 ぼくは普段、大学の学生手帳を使っている。これはぼくが愛校心にあふれているからではなく、新年度が近くなると学生手帳が無料で配布されているからである。そりゃぼくだってダイソーやキャンドゥで110円の薄っぺらい手帳を買うぐらいの経済的余裕がないわけではないが、せっかく0円で配られているものを使わないのはもったいない。だからぼくは大学の学生手帳を使っているのだ。……おいそこ、ケチくさいとか言うな!

 ぼくの大学の学生手帳の巻末のほうには、教員たちがおすすめの本を紹介するコラム的なページがある。「○○学部××学科教授 ■■先生の選ぶ3冊」みたいなやつだ。ぼくは「オールタイムベスト10」みたいな企画が好きな人間なので、このページを毎年密かに楽しみにしていたりする。今年、某学部の某先生が紹介していたのは、チェーホフの短編小説『犬を連れた奥さん』(英語版)だった。チェーホフはぼくの先輩である(ぼくより先に生まれた劇作家という意味で)(ぼくは放送サークルで音声ドラマを作っている)。しかも、だいぶ敬愛する先輩である。この選書はスルーできない。

 ぼくは高校生の時に図書館で借りたチェーホフ短編集で『犬を連れた奥さん』を読んでいるはずだが、内容はすっかり忘れてしまった。うーん、読み直すか。かといって英語版を読むのはかったるいので(外国語版を読まなきゃいけないならどうせなら原典のロシア語版を読みたいぞ)、近所の図書館に取り寄せてもらって、新潮文庫版(小笠原豊樹訳)を読むことにした。

 既婚の中年男性が休暇先で「犬を連れた奥さん」と知り合って不倫する。その場限りの遊びで終わるはずだったけど、忘れられなかったので「犬を連れた奥さん」にまた会いに行って不倫する──。これが『犬を連れた奥さん』のあらすじだ。ストーリー展開的にはそれ以上でもそれ以下でもない。しかしこの短編小説は読んでいて引き込まれる。

 その第一の理由は、「名場面があるから」。ストーリーが「それ以上でもそれ以下でもない」代わりに、『犬を連れた奥さん』には名場面がある。ぼくとしては、『ゲイシャ』という芝居が上演される劇場で主人公が「犬を連れた奥さん」を見つけるところ、久しぶりに声をかけるところ、階段の半ばで話し合うところが特に名場面だと感じる。演劇か映画のワンシーンのように視覚的な印象を残す名場面である。

 そして第二の理由は、「少し意地悪だから」。主人公の中年男性のことも「犬を連れた奥さん」のことも、この短編小説の作者(つまりチェーホフ)はどこか突き放すような皮肉的・風刺的な視点で描写している。少し意地悪な眼差しである。しかし、単に軽蔑しているといった感じではない。登場人物が愚かな人間であることを可愛がっているようすである。

 これは『犬を連れた奥さん』に限った話ではない。戯曲にせよ小説にせよ、チェーホフが書いた作品は「愉快な悪意」に満ちている。ユーモアと残酷さが、一つの作品、一つのページ、一つの文章に同居していて、読む者に味わい深い興奮をもたらさずにはいられない。チェーホフはその「愉快な悪意」を、設定の奇抜さというよりも文章の面白さで見せてくる。What(何を語るか)以上にHow(どのように語るか)で読者を魅了する。だからチェーホフの作品は読んでいて引き込まれる。演劇で喩えるなら、チェーホフの作品は「演出」に重きを置いているタイプの作品だ。ぼくはチェーホフの作品のそんなところに惹かれる。

 そんなところに惹かれるのは、ぼく自身が脚本家である以上に演出家であるからかもしれない。ぼくは音声ドラマの脚本を書いているが、それは脚本を書きたいからというより、演出をして舞台で上演するためである。ぼくの興味は実は演出のほうにある。ただ、どうせ演出するなら面白いホンで演出したい。だからぼくは自ら脚本を書いているのである。

 大学一年生の時にチェーホフの『かもめ』を読んで、ぼくは「この程度の戯曲ならぼくにも書けるな」と思った。分かっている。この文章を読んでいるあなたが「こいつは不遜で自惚れたやつだな」と鼻で笑っていることは分かっている。ただ、あなたがそんな態度を取るのは、あなたがビッグネームに弱い権威主義者で、ぼくの音声ドラマをまだ聴いたことがないからじゃないかしら? 事実、去年の番組発表会で上演した作品は『かもめ』を超える傑作にして名作だったと自負している。分かっている。再び鼻で笑われているのは分かっている。ただ、ぼく的にはそれぐらいの手応えを実感したのだ。観客からの評価も高かった。まあ、今年の5月に上演したやつのほうが評判がよかったのは意外だったけど。

 まもなく9月の発表会が開催される。当然、ぼくが脚本・演出を務める音声ドラマも上演される。今度の新作もなかなかの傑作だと思う。脚本を書いたのが『犬を連れた奥さん』を読み直した直後だったこともあり、ぼくは今回、観客の印象に残るような「名場面」を入れることを意識した。だけど、「愉快な悪意」のほうは意識しなかった。ぼくにはぼくのWhatがあり、Howがある。チェーホフを超えてしまった人間がチェーホフの猿真似ばかりしているわけにはいかないのである。明日は出演者が集まっての練習日。ここでぼくがあなたに発表会の日時を告知できないのが残念な限りだ。

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