ぼくは彼女の実家に行く
ぼくは彼女の実家に行く。さて、彼女の弟さんへのプレゼント購入と菓子折り購入を済ませ、感動の一大巨編もいよいよ大詰めである。今回はいよいよ彼女の実家に訪問した日の話を書きたい。ぼくも由梨も小手家の構成員も誰一人として体調不良にならず、外出自粛が求められる大雨や雹(ひょう)も降らず、ぼくはついに実家暮らしの彼女の自宅を訪れてしまったのだ。
約3週間前に彼女の実家に行くことが決まってからというもの、ぼくはずっと憂鬱な気分だった。彼女の実家に行くだけなら支障はない。問題は由梨のご家族に会わなければいけないことだ。緊張する。会いたくねえ。ガチで会いたくねえ。由梨から「うちに来て親に会ってほしい。そしてみんなで晩ご飯を食べよう」と提案(という名の強要)をされて、後日、「この日ならお父さんもお母さんもいる。たぁくん(由梨の弟の孝彦くん)もいるよ!」と日にちを指定された。ぼくは「その日は本当にたぁくんもいるんだね?」と孝彦くんの同席を由梨に念入りに確認した。孝彦くんは高校2年生で、由梨からは過去に何度も写真を見せてもらっているがとにかくかわいい。アイドルグループにいてもおかしくないぐらいかわいい。孝彦くんに会えることだけがぼくが由梨の実家に行く唯一のモチベーションだったのだ。
由梨の実家に行くことが決まって、由梨からは結構早い段階で「晩ご飯は何がいい?」と聞かれた。ぼくは「そもそも由梨の実家で食べたくない」と答える代わりに「なんでもいい」と答えたが、由梨は「それは困るから何か希望を言って」と追及してきた。ぼくは内心めんどくせえなと思いつつ、「今川焼」と答えた(ぼくは今川焼が大好きなので)。由梨はぼくの回答を無視すると、「ハンバーグでいい?」と言ってきた。手元に案があるなら初めからそれにしてくれ。ハンバーグって実はぼくはあんまり食べたことがないので、「ぼくってハンバーグ苦手じゃなかったよな?」と我ながら少し不安になったが、そういえばナナさん(七尾先輩)に連れて行ってもらった大学近くのお店で美味しいの食べたなと思い出してホッとした。
この他にも心配なことはあった。由梨のお父さんやお母さんから質問攻めに遭ったらどうしよう。ぼくの生い立ち、大学での専攻、放送研究会での活動、卒業後の進路、由梨とのなれそめ、これまで由梨とどこへ行ったか、由梨とどこまでやったか……。ぼくは由梨にこれらをすり合わせて質疑応答のリハーサルをしようと提案したが、由梨は「そんなこと聞かれないから大丈夫だよ」とか「正直に言えばいいじゃん」などと言うばかりでまともに相手してくれなかった。由梨は自分の親だからいいだろうけど、ぼくにとっては赤の他人なんだぞ。ぼくはもし由梨のお父さんから「うちの娘を傷物にしやがって!」と怒鳴られたらすぐにその場から逃げ去ろうと決めた。
それと、由梨の実家にどんな服装で行けばいいかも心配だった。由梨に会った時に尋ねたら、「そんなこと気にしてるの? いつもの服装でいいよ。これ(その時に着ていたやつ)でいい」と言ってきた。念のためサークルの連中にも相談したが、「いちばんお洒落な服にしろよ」(河村)、「何を着ても変態っぽさは消せないから無駄ですよ」(藤沢)、「そんなことおれに聞かれても答えようがないです!」(井上公輝)という、むしろ不満が残る回答が返ってきただけだった。学部の後輩の早瀬からは「やっぱりスーツじゃないですか? 彼女の親に会うわけだから」と言われて一瞬はそう思ったが、それは大げさすぎるとその後に思い直し、たまに着る紺色のカーディガンを羽織っていくことにした。ぼくなりの大人コーデである。まあ、これを羽織れば最低限サマになるだろう。
当日。日曜日である。ぼくと由梨は毎週日曜にいつもデート的なやつをしているが、この日は日中のお出かけはなしで、夕方に由梨の実家の最寄駅前で待ち合わせとなった。具体的には横浜市営地下鉄ブルーラインの某駅某出口前である。はあ、緊張する。集合時間10分前に着いてしまったので、駅の周りを無意味にウロウロする。結構遠くまで来てしまったので早く集合場所に戻らないと。しばらく待っていると由梨が自転車に乗って来た。ガチ近所だからか、いつもよりラフな服装である。自転車に乗っている姿の由梨は初めて見たが、なんだか自転車に「乗せられている」感が強く、他人が自転車に乗っている姿というのはこんなにも間抜けなものなのかと思った。
「早いじゃん!」と由梨が言う。「うん……この服装で大丈夫?」とぼくは聞く。由梨はぼくの格好を見ると「大丈夫!」と言う。その場で「この駅初めて降りた」とか「孝彦くんもいるんだよね?」などとしばらく立ち話をしたのち、由梨から「行く?」と促されて、ぼくは由梨の案内で由梨の実家へと向かう(由梨は自転車を押しながら歩いた)。歩きながら由梨が「今夜は煮込みハンバーグとクリームシチューだから。お母さんと一緒に作ってたところ」と言ってくる。ふう、緊張する。ぼくは「緊張する。ぼくが言葉に詰まりそうだったらその段階でフォローしてね? 基本的にずっと由梨がしゃべって」と懇願する。由梨は余裕の笑みを浮かべながら「分かった、分かった」と言葉を返す。ダメだ。やっぱりこいつはコミュ障が他人の家庭にお邪魔することのハードルの高さを理解していない。
公園やコンビニやスーパーマーケットの前を通り、信号を渡って住宅地のエリアへ。しばらく歩く。もうこの時間しかチャンスがないので、ぼくは由梨に質疑応答のリハーサルを仕掛ける。具体的には「由梨のほうからぼくをデートに誘ったっていうのは言っていいんだよね?」とか「ぼくらはホテルには行ったことないって設定だよね?」とかいう話のすり合わせである。由梨は余裕の表情で「心配しすぎだから(笑)。大丈夫だよ、お母さんはだいたい知ってるし」と言う。ぼくが「『だいたい』ってなんだよ?」と聞いた時、由梨は「ここだよ」と言って前方の一軒家を指さした。いまうっかり色や外観まで詳しく記してしまいそうになったが(危ない)、まあ、お洒落な感じのおうちである。これが由梨の実家だ。
由梨が自転車を停めているところをじっと眺める。ふう。緊張がひどい。この家の中には由梨のお父さんとお母さん、孝彦くんがいるのだ。孝彦くんとの面会は本来なら胸躍るレクリエーションのはずだが、その時のぼくはそれすら拒絶して自宅に帰りたい衝動に駆られていた。由梨がちいかわのキーホルダーを取り出し、鍵穴に鍵を差し込んで玄関のドアを開ける。「ただいまー」。奥のほうで誰かが料理をしている気配はあるが、何の反応もない。ああ、ぼくは小手家の人々に完璧に嫌われている。招かれたから来たのにひどい仕打ちだ。由梨は「靴脱いで上がって!」と言うと、一人だけ家に上がり、奥のほうへ消えていった。
ぼくは靴を脱がずに玄関で待機する。いつでも逃げれるようにするためだが、一応、リュックサックの中から手土産代わりのシベリアが入った袋を取り出しておく。「(ぼくの下の名前)くん来たよ!」と誰かに呼びかける由梨の声が聞こえた。数秒後、エプロン姿の由梨のお母さん(らしき人物)と、セーター姿の由梨のお父さん(らしき人物)が出てきた。お母さんのほうは笑顔だが、お父さんのほうは顔が引きつっているように見える。明らかにぼくは歓迎されざる客だ。早く帰りたい。帰らせてくれ。由梨のお父さんが「はじめまして」と言ってくる。「は、はじめまして、由梨さんとお付き合いさせていただいております、(ぼくの大学名)3年の(ぼくの姓名)と申します。本日はよろしくお願いいたします」とぼくは告げる。由梨のお父さんはなぜか微笑むと、「どうぞ上がってください」と言ってきた。敬語なのが不気味である。ぼくは足を震わせながら靴を脱ぐと、礼儀正しく靴を揃え、ついでに由梨の靴も揃えてあげて、小手家の邸内に上がった。
またうっかり細かい描写をしそうになってしまったが、由梨の自宅のリビングは明るくて清潔な感じだった。ぼくは「これ、つまらないものですが……近所の和菓子屋のものでして……」と言って、シベリア入りの袋を近くにいた由梨のお母さんに渡す。お母さんは「えっ? (ぼくの下の名前)さんが買ってきてくれたの? うれしい!」と喜ぶと、由梨のお父さんに「ご近所で買ってきてくださったんですって」と声をかけた。由梨のお父さんが「わざわざありがとう」などと言う。由梨のお母さんが「あとでいただきましょうか」と続ける。怖い。怖いよう。ぼくはこの時、小手家の人間から発せられるすべての言動にビビっていた。この直後にぼくが「手……手を洗わせていただいてもよろしいでしょうか」とおそるおそる申し出たのは、感染症対策のためでもあるが、その場から逃げたい気持ちが強かったためでもある。
ぼくは由梨に案内されて洗面所へ向かい、由梨と一緒に手を洗いながら、一つのことに気が付いていた。それは孝彦くんの不在である。さっき由梨の靴を揃えた時に男子高校生が穿きそうなスニーカーが目に入ったから、きっとご在宅だとは思うのだが……。ぼくは由梨に「たぁくんは?」と聞く。由梨は「いるよ! 自分の部屋だと思う」と言うと、ぼくが使わせていただいた小手家のタオルで自分の手も拭き、「呼びに行ってくる」と言って階段を上がっていった。由梨さん、行かないでぇ……! 由梨の後を追って2階に行くべきか、自分一人で1階のリビングに移動すべきか。……しばらく立ち尽くしたが、由梨が降りてくる気配はない。ぼくは洗面所の照明を消すと、ゆっくりと一人でリビング方面へ戻っていった。
由梨のお母さんはキッチンで料理をし、お父さんはダイニングチェアに一人で座っていた。お母さんはぼくの出現に気付いてこちらに微笑むと、「(ぼくの下の名前)さん、飲み物は何がいいかしら?」と尋ねてきた。なぜ初対面のぼくを下の名前で呼んでいるのだろうか。違和感を抱きながらぼくが「なんでも大丈夫です」と答えると、由梨のお母さんは「緑茶? 紅茶? 牛乳もあるけど?」と追加質問してくる。牛乳という選択肢に驚きつつ、ぼくは「……では緑茶で……」と答える。由梨のお母さんはぼくに「持っていくから座って待ってて」と笑顔で指示する。
ぼくがダイニングテーブルのほうへ向かうと、椅子に座っていた由梨のお父さんが、ぼくに向かって「(ぼくの名字)さん、お座りください」と声をかけてきた。面接でも始まるのか。ぼくはおそるおそる由梨のお父さんの向かいの椅子に座る。「……し、失礼します……」。ぼくも気まずいが、由梨のお父さんも気まずそうだ。「ここまで迷わずに来れました?」とお父さんが聞いてくる。ぼくは「あっ……由梨さんと一緒に来たので……」と答える。お父さんが笑いながら「ああ、そうか(笑)」と言う。由梨と似て意外と天然だな。そこまで緊張しなくていいかもしれない。
由梨のお母さんがコップに入った緑茶を持ってきてくれた。おそるおそるゴクゴク。ぼくとお父さんが「でも一人では帰れないと思います」「このあたりは道が入り組んでるからね」といった何の生産性もない会話を交わしていると、人間が階段を降りてくる音が聞こえてきた。リビングに入ってきた由梨がぼくに向かって「たぁくん連れてきたよ!」と告げる。由梨の背後から現れたのは、長袖シャツ姿の美少年だった。写真の孝彦くんもかわいかったが、実物はもっとかわいい。でも実物は写真版よりちょっと成長していて、青年っぽさが強まっている気がする。孝彦くんはぼくのことを目を潤ませながら見ている。少し怒っているようでもある。ぼくと孝彦くんはしばらく見つめ合う。ぼくは「たぁ……孝彦くん、こんばんは」と上ずった声で挨拶する。孝彦くんは小声で「こんばんは」と言うと、洗面所に手を洗いに行った。……やべえ。たぁくんと会話しちまった!
由梨はキッチンのほうへ料理を手伝いに行く。リビングは相変わらず、由梨のお父さんとぼくの二人だけだ。その間も由梨のお母さんは時々チラチラとこちらを見て微笑んでくる。監視されているようで怖い。ぼくが由梨のお父さんと気まずい会話を重ねていると、手を洗い終わった孝彦くんがリビングにやってきた。はあ、かわいい。マジで尊い。ぼくはハァハァ言いそうになるのを我慢する。孝彦くんがキッチンの由梨に「まだご飯できてないじゃん」と冷たい口調で抗議しているのが聞こえた。ハァ……孝彦くんの生声やば……孝彦くんの「ご飯(go-han)」の発音やば……。由梨が「もうすぐできるから(ぼくの下の名前)くんと話してて」と孝彦くんに命令した。孝彦くんがいかにもしょうがないといった感じでテーブルに近付いてくる。ぼくが孝彦くんに見惚れていると、孝彦くんもぼくの視線に気付いたようで一瞬目が合ったが、孝彦くんはすぐに目を逸らした。
ぼくは孝彦くんに「……あっ、いまぼくここに座っちゃってるけど、孝彦くんは普段どこの席に座ってますか?」と尋ねる(半敬語)。その日、小手家のダイニングテーブルはいわゆる「お誕生日席」を設けて5人仕様にされていたが、小手家は4人家族なので、いつもだったらぼくが座っている席に家族の誰かが座っているはずなのだ。つまり、ぼくは誰かのレギュラー席を奪っていることになる。くそっ、「お誕生日席」が設けられているのを見た時点で気付くべきだった。ぼくは本当ならこの席に座ってはいけない存在だったのだ。孝彦くんがぼくの質問に答えかけていると、いまの話が聞こえたのか聞こえていないのか、キッチンから由梨がやってきて、「たぁくんはここ」と言って孝彦くんに「お誕生日席」に座るよう命じた。
ぼくは由梨の顔と孝彦くんの顔を交互に見ながら「……いいの? 孝彦くん、席交換する? 大丈夫?」と確認する。孝彦くんはぼくの服を見ながら「大丈夫ですよ」と答えると、「お誕生日席」の椅子を引いて座った。不機嫌にさせちゃったかな。ぼくが動揺していると、由梨のお父さんがぼくに向かって「この子(孝彦くん)も来年受験でね。(ぼくの名字)さんみたいに立派な大学に入れるといいんですけど」と言ってきた。ぼくの大学が立派な大学かどうかはともかく、由梨のお父さんがそう切り出してくれたおかげで、ぼくは孝彦くんに自分の大学と学部学科と学年と名前(とついでに所属サークル)を自己紹介することができた。由梨のお父さんからは「推薦入試と一般入試のどちらがいいか」という話題を振られたが、ぼくは一般入試しか知らないので参考になるようなことは答えられなかった。ただ、「自分が行きたい大学があるんだったらそこを目指すべきだと思います」ということは話した。これはぼく自身の経験から思うことだ。ぼくは自分の大学が絶対的第一志望で、「この大学に行きたい」という具体的な目標が定まっていたので、大晦日の夜に受験勉強するのも苦にならなかった。自分に直結する話題だからか、孝彦くんはこの話題に興味があるようで、ぼくの顔を見ながら話に耳を傾けてくれていた。
孝彦くんの学科選びの話になったところで、由梨がキッチンから「(ぼくの下の名前)くん、運ぶの手伝ってー!」と声をかけてきた。おそらくぼくと孝彦くんが仲良くなりつつあるのを嫉妬し、ぼくらの仲を割こうとしているのだろう(違う)。由梨のお母さんが由梨に向かって「手伝わせたら悪いでしょ!」と叱り、ぼくに向かって「(ぼくの下の名前)さんは座っててください」と気遣う中、ぼくは「いえいえ手伝わせてください」と下手に出て食器類の運搬係を担った。孝彦くんとお父さんもあとからキッチンにやってきて、結局、全員で全員分の料理を運ぶ流れになる。健全な状況ではあるのだがカオスな展開である。
さて、ここから小手家の人間+ぼく、合計5名の晩餐会が幕を開けるわけだが、ここまででまさかの6,000字超えを達成してしまっているので、今回はこの辺で失礼いたします。細かい部分が記憶に残っているうちに書いちゃおうと思うので、近いうちに書き上げるつもりではおります。まあ、そもそもこの話を書くことに何の意味があるのかって話ではあるんですけどね、たぶんぼくは文章を書くのが嫌いじゃないのです。