ぼくは内定式へ行く

 10月1日はぼくの就職先の企業の内定式だった。前の日は緊張してなかなか眠れず、「どうせ午前中で終わるらしいんだからパッと行ってパッと帰ればいいんだ。もし問題が起きたら就職するのやめればいいだけなんだし」とまで自分に言い聞かせたところで、ようやく眠りに就くことができた。ぼくはいつもそうだ。何か新しいステージに進む時はとても緊張する。

 眠りに就くことができた……とはいっても、結局、その晩は3時間ぐらいしか眠れなかった。ベッドから体を起こし、顔を洗い、髭を剃り、スーツを着て家を出る。久しぶりのスーツである。電車に乗って、自分と同じように内定式に向かっている(と思しき)同年代のスーツの男子を見かけた時、「ああ、本当に自分は社会人になっちゃうんだな」と切なくなった。ぼくは会社員になりたくない。本当は劇作家になりたい。プロの劇作家兼演出家になりたい。放送サークルの仲間と一緒に劇団を立ち上げて、ぼくが書いた脚本を自分で演出して他人に演じさせることで生計を立てるひとになりたい。大学の放送サークルに所属し、面白いと評されるような音声ドラマを制作し、放送サークル界隈でそれなりに名を馳せてきたぼくが一会社員になってしまうなんて、日本演劇界における今後60年の大損失である。

 「じゃあ、なればいいじゃねえか。劇作家に。演出家に。なるのに免許がいるわけでもねえんだろ?」と言われそうだが、いや、本当にそうなのである。ぼくがなぜプロの劇作家になる道を選択していないのかというと、「勇気がないから」。その一言に尽きる。去年の冬に放送研究会を引退したあと、親しい連中と新しくインカレの放送サークルを立ち上げて、みんなで一緒に番組発表会を開く。そこまではできた。そこまではできたけど、サークルの連中に向かって「卒業後もプロとして一緒にやっていこうぜ」と呼びかける勇気がない。それは、誘ったところで断られるのが分かり切っているからでもあるし、断られたあとに「……いや、いまのは冗談!」と取り繕う自分自身の惨めさに耐えられなさそうだからでもある。

 はい、ウジウジしたこと言ってないで内定式へGO。会場に入り、まずはトイレへ向かう。ぼくは緊張した時にお腹が痛くなるタイプではないが、じっとしているのが苦しくなってしまうタイプではある。ただ、じっとしていられないからといって、廊下をウロウロしていたら明らかに怪しい。周りのひとから「どうかしましたか?」と声をかけられても厄介だ。だから、緊張してじっとしていられない時はトイレへ行くに限る。「トイレへ行く」という大義名分があれば、「自分が本来いるべき場所」と「トイレ」を往復していたところで「廊下をウロウロしている」とはみなされない(本当か?)

 内定式の始まる5分前。「これは『内定式に行ってみた』というロールプレイングゲームだと思えばいいんだ」「noteのネタ探しだと思えばいいんだ」「Z世代のリテラシーの低さ舐めんな」と自分に言い聞かせて着席。内定者同士ですでに会話しているひとたちもいるが、ぼくの右隣(男子)と左隣(女子)は喋りかけやすい感じのひとに思えなかったし、話しかける内容が思い浮かばなかったし(「はいどうもー! 今日は雨が降るかもしれないみたいっスねー!」とか言えばいいのか?)、そもそもぼくはコミュ障なので無言で開会を待つことにする。

 いざ開会。司会の社員のひとが偽善者っぽくてうんざりする。大学4年生のことをガキ扱いしているのが透けて見えるっていうか。はああ、社会人なりたくねええ。内定者代表の挨拶、会社の人事のひとの挨拶、会社との繋がりがよく分からない来賓の講演(これが無駄に長かったし、ぼく的にはあまり参考にしたくない話だった)のあと、内定者同士のディスカッションへ。ここでようやくぼくは両隣のひとと「……あ、はじめまして……」と挨拶を交わした。左隣の女子がさっきまで黙っていたのが嘘のように妙に明るい態度で喋り出したので、ぼくとしては「無理しないでいいよ……」と言いたくなったが、ここでそれを口に出して言うほどぼくはデリカシーのないやつではない。ただ、右隣の男子(遠藤くん)とは意外とテンションが合って、ぼくも自然体で会話することができた。このひと、どことなく顔が上川(ぼくが中学時代に仲良くしていた後輩)に似ているしな。いや、似てるといっても「瓜二つ」とか「まるで双子」とかいうレベルではないですけど。

 内定式は事前の案内通りに午前中いっぱいで終わった。業務内容とか給与形態とか福利厚生の具体的な説明がないなんて拍子抜けである。こちらは念のため無印良品のルーズリーフ(新品)とメモパッド(新品)を用意して持ってきているというのに……。先輩社員によるレクチャーとか本社周辺飲食店ガイドとかもない。これじゃあ本当にただの儀式にすぎねえじゃねえか。幼稚園の入園式だってこれよりは充実した内容な気がするぞ。はあ、なんだか緊張して損したな。懇親会や合同ランチといったプログラムもないので、内定者同志諸君とは本当にここでお別れとなる。では、来年春の入社式でまた会おう(ぼくが入社式に行くという保証はないがな!)。

 さっきの右隣の男子(遠藤くん)と「これならオンライン内定式でよかったね」などと雑談しながら会場を退出。そうしたら、会場を出た瞬間に遠藤くんから「一緒にお昼食べない?」と誘われた。ぼくはこのあとの予定までまだ時間があるし(実はこのあと午後に彼女と東京都写真美術館へ行くことにしていた)、実際どこかでお昼ご飯を食べるつもりでいたので、もちろん「いいよ」と即答する。信号を渡ったところにすき家の看板があるのを二人同時に見つけ、「すき家だ」「すき家でいいか」ということで入店。……いや、ここで言う「すき家でいいか」というのは「すき家という素敵な選択肢があって助かったぜ!」というポジティブな意味なので、すき家関係者のみなさん、むしろ誇りに思ってください。

 平日のお昼時だったが、すき家の店内は意外と空いていた。ぼくはすき家を滅多に利用することがないので知らなかったけど、すき家の店内の混み具合ってどこもこんなもんなのかなあ。さて、注文します。ぼくはランチセットってやつでいいかなと思ったけど、遠藤くんがキムチ牛丼を選択したのを見てぼくも普通の味じゃない牛丼(?)を食べたくなって、わさび山かけ牛丼を注文する。遠藤くんも実はすき家には普段あまり行かないらしく、「わさび山かけ牛丼なんてあるんだ(笑)」とさっそくイジッてきたが、まあたしかに、初見でわさび山かけ牛丼を迷いなく注文したあの日のぼくはいささか異常だったかもしれない。

 遠藤くんが「味噌汁も飲みたい」と言って味噌汁とおしんこのセットを追加注文したので、ぼくも相手に合わせて追加注文する(+150円程度で高くなかったし)。料理が運ばれてくるまでのあいだ、遠藤くんが「LINE交換する?」と言ってきたので連絡先を交換。料理が来てからは、それぞれに牛丼を食べながら、お互いが大学でどんなことを学んできたのかとか、どのあたりに住んでいるのかとか、どうしてこの企業に就職したいと思ったのかとかを一通り自己紹介し合った。これじゃあまるで面接の再現である。

 ぼくが「これじゃあまるで面接の再現だね」と言ったのを合図に(?)、そこからはもう、お互いの趣味のことやハマっていることだとかを気を遣わずに語り合った。遠藤くんは大学で最初は剣道部に入っていたけど途中で辞めて(辞めた理由は聞かないでおいた)、3年生の時に写真研究会に入ったらしい。「都会の中のオアシス」的な写真を撮るのが好きらしく、最近は野鳥の写真を撮るのにもハマっているらしい。ぼくも去年の夏にスタジオジブリの『君たちはどう生きるか』を観てから急に鳥類を好きになったクチなので、「鳥好き」というだけでかなり好感が持てる。

 遠藤くんが「『君たちはどう生きるか』ってどういう話なの?」と聞いてきたので、ぼくはコンパクトに紹介してやって、あとはまあ、残酷な話だが「鶏の唐揚げって美味しいよね」「焼き鳥の種類は何が好き?」という話で盛り上がった。ぼくが「『鳥を愛する』の下部カテゴリに『鳥の写真を撮る』と『鳥を食べる』があるんだよ」という話をしたら、なぜかそれが遠藤くんの笑いのツボにハマったようで、遠藤くんはキムチ牛丼を食べながら「ゴホッゴホッ!」とむせてしまい、ぼくはあとで遠藤くんから「変なこと言わないでよ(笑)」と叱られる羽目になった。別にぼくそんな変なこと言ったつもりはないんですけど……遠藤くんの笑いのツボはおかしい。

 でも、ぼくは、遠藤くんがぼくの同僚として一緒に働いてくれるなら安心だなと思った。このひととなら仲良くなれる(というかもう仲良くなっている)。ぼくが遠藤くんに「内定式に来る前はどんなひとが同期なんだろうと不安だったけど、遠藤くんがいるなら心強いわ。4月からよろしく」と言ったら、遠藤くんは「こちらこそよろしくね」と言いつつ、急にシリアスな顔つきになって「……でも、同じ部署に配属されるとは限らないけどね。条件的には違う部署になる確率のほうが高いと思う」と言ってきた。ああ、そっか。すっかり忘れていた。同じ会社に入ったとしても同じ部署に配属されるってわけじゃないんだよな。それが会社員になるってことなのか。会社員になることの第一歩ってことなのか。

 ぼくのテンションが下がったことに気付いたからか、遠藤くんは「でも、同じ部署になる可能性もあるよ。そこはまだ決まってないはずだし」と励ましてくれた。ああ、気を遣わせてしまった。遠藤に借り+1。もっとも、そのあとにぼくが「……こんなこと言っておいてそもそも来年の4月に入社してなかったらごめん」とボケたら、遠藤くんも「あー、あり得る(笑)」と返してきたりして、その場は和やかな雰囲気のままでしたけどね。

 そのあとはお会計を済ませてすき家を出て、駅まで一緒に歩いた。ぼくが「この街並みは写真に撮らなくていいの?」とイジったら、遠藤くんは「今日はカメラ持ってきてないから……あ、でも携帯で撮っておこう」と言って後ろを振り返って、ぼくらがいま歩いてきた道路をスマホのカメラでパシャッと撮った。カメラが趣味っていうぐらいだからもっと構図とかにこだわるのかと思っていたら、本当にサクッとパシャッと撮っただけだったので予想外だったが、写真愛好家の撮影術って案外こんなもんなのかもしれないな。ちなみに、この時に遠藤くんはなぜかぼくの顔もパシャッと撮ってきた。ぼくがびっくりして「えっ? 急に撮るなよ」と言うと、遠藤くんは「うん、次からは事前に言うようにする」と返してきたけど、ぼくとしては今後も遠藤くんはぼくの写真を撮るつもりなのかよと逆に怖くなりました。

 ぼくは内定式へ行く。内定式自体というより、内定式で隣の席だった子とすき家に行ったっていう話がメインになっちゃったけど、これは空っぽな内定式を開いた会社のせいなのでご理解ください。駅で別れ際、遠藤くんから「入社前にまた会おう。普通にちょくちょく会おうよ」と言われたので、まあ、ちょくちょくは会わないと思いますけど、近いうちに遠藤くんとは会うことになりそうです。なお、遠藤くんはお酒が飲めないとのこと。ぼくと仲良くなるひとって意外とそういうひとが多いよな。ぼく自身はお酒が好きなのに。仕方ないので、遠藤くんと次に会う時はまたすき家に行きますか。また変なこと言って食事中の彼をむせさせてやろう……

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