ぼくはSummer of 85を観る
ぼくは『Summer of 85』を観る。先々月、ぼくは『苦い涙』というフランスの映画(一部ドイツ語)を彼女に内緒で観に行って、だいぶかなり楽しんだ。その時のことは「ぼくは苦い涙を観に行く」という記事に書いた。
それで、ここからが初めて書く話なんだけど、ぼくは『苦い涙』の監督であるフランソワ・オゾンというひとの監督作品をもっと観たいと思って、2020年公開の『Summer of 85』という映画をU-NEXTで観た。『苦い涙』と同じで、やっぱり男性の同性愛の映画だ。しかしこの映画、ただの男性の同性愛の映画ではない。美しい少年同士の同性愛の映画である。はっきりいってぼく好みである。ぼくのようなゲイ(ガッチリ兄貴系ではなく爽やかイケメン系が好きなゲイ)にとっては非常にありがたい。
ただ、ぼくはただのゲイじゃなくて、大学の放送サークルで音声ドラマを作っているゲイだったりもするので、この映画を勉強の対象というか批評の対象として観たりもする。観ながら「ぼくだったらこうするのにな」とか「なるほど。ここは上手く作ってますね」とか、上から目線で思ったりする。まあ、この映画は小説が原作らしいので、物語の展開についてはどうしようもない制約があるわけだけど。
さて、ここから下はネタバレです。これからこの映画を観るつもりで中身を知りたくないひとは読まないでください。ぼくがこのnoteに以前書いた「ぼくは彼女の弟さんに恋をする」あたりでも読んでおいてください。……ぼく、ちゃんと注意しましたからね! ここから先はネタバレだって注意しましたからね!
『Summer of 85』はアレックス(16歳)とダヴィド(18歳)のひと夏の恋を描く物語で、アレックスがナレーターを務めている。ダヴィドが初登場するシーンではアレックスが「ダヴィド登場。このあと死体になるひとだ」とナレーションするんだけど、ぼくは最初、アレックスがそうやってネタばらししてしまうのはいかがなものかと思った。それと、「ダヴィドが生きていた頃」のエピソードと「ダヴィドが死んだあと」のエピソードを交互に描くのも下手な構成なんじゃないかと思った。物語を時系列通りに進めていったほうが、「……えっ! ダヴィド死んじゃった……!」と観客にショックを与えて物語をドラマチックにできると思ったのだ。ヒッチコックの『サイコ』じゃないけどさ(別作品のネタバレすみません)。
でも、映画を観ていくうちに、ぼくのその考えは浅知恵にすぎないと理解した。というか反省した。この映画は「アレックスとダヴィドのラブストーリー」ではなく、「アレックスの人生ストーリー」なんだ。「人生ストーリー」って意味不明な呼称だし、自分でも初めて使う言葉だけど(ちなみにぼくはここではあえて「成長物語」という言い方はしない)。
実際、そのことは、映画の冒頭にアレックスが「第四の壁」を破って、つまりカメラ目線で「これはきみの物語じゃない(=ぼくの物語だ)」とはっきり宣言していることからも分かる。この映画は「理想の親友」(実際には恋人と呼ぶべき存在)との別れを乗り越えていく一人の男の子の自分語りなのだ。そこのところを勘違いして、この映画を二人の恋物語だと思って観ると、たぶんこの映画の正体を見誤る。「ラブストーリーのくせにカップルが別れるまでの過程を描けていない。だからラストに説得力がない」なんて次元が低い評論をする羽目になる。
まさにラスト。そう、ラスト。ダヴィドを失ったアレックスが新しい男子と出会って、笑顔で航海を楽しみながら、「人生で大切なことは過去を乗り越えて新しい物語を始めることなんだ」とナレーションするあのラストは、ある意味、この映画の中で最も衝撃的な部分だと思う。だって、ダヴィドの死にはアレックスが関係していないわけではない。っていうか、がっつり関係している。ダヴィドの母親は息子を失った悲しみで狼狽し、女友達のケイトはダヴィドの死の原因を自分のせいにされたと感じて腹を立てている(この映画はそこをきちんと映し出す)。そういった問題を放置して、「人生で大切なことは過去を乗り越えることだ」と爽やかにナレーションして締めるって、アレックスはちょっと無責任だ。いや、だいぶ身勝手だ。
でもね、ぼくはこのラストがあるからこそ、『Summer of 85』はユニークな価値を有していると思う。しょせん人間は、過去を棚上げしないと現在をまともに生きていけない動物なんだ。死んだひとや別れたひと、会わなくなったひとや傷付けたひとのことなんか一時的にせよ半永久的にせよ意識の外に置いて、棚上げして、目の前の人間と付き合って目先の出来事に対処していく。それが、人間が現実を生きていくということの実態なのだ。生き延びるためのコツなのだ。
ぼく自身がそうだ。高校生の時に同級生の須川くんのことを途方もなく好きだったことを忘れ、高校生の時に駅前の駐輪場の係員のおじさんに自転車をぶつけてしまって痛がらせたことを棚上げし、いまの環境といま周りにいるひとのことだけを意識して生きている。それはつまり、過去から現在への自分の変化に無自覚だということである。過去の自分と現在の自分を比較していないということである。ぼくには自分自身が「成長」した実感がない。取り組んでいる事柄はその時その時で変わっているけど、自分が過去の自分から「変化」したと思ったことはない。
『Summer of 85』もそういう物語なんじゃないかな。あの映画の中で、アレックスはずっとアレックスだ。ダヴィドと幸せな時間を過ごしていた時のアレックスと、映画の冒頭で「第四の壁」を破って「これはきみの物語じゃない」と言ったアレックスと、映画の終わりに「人生で大切なのは過去を乗り越えることなんだ」と言ったアレックスと、ぼくにはどれも同じアレックスに見える。その時その時で向き合っていることは違うしテンションも違うけど、成長もしていなければ変化もしていないように思う。過去も現在もアレックスはアレックスだ。だからこそこの映画、アレックスの自分語りでしかないこの映画では、あえて時系列通りにストーリーを展開せずに過去と現在をごちゃまぜにしているのではないだろうか。人間は過去に無自覚で現在を生きる動物なのだと明らかにするために。そのことを念押しするかのごとく、ラストには身勝手にすら思えるナレーションを添えて。
その証拠にと言ったらおかしいかもしれないし、ぼくの穿ちすぎかもしれないけど、アレックスがラストで遊びに誘う新しい男子はダヴィドと面立ちが少し似ている。「人生で大切なことは過去を乗り越えて新しい物語を始めることだ」とかナレーションしておいて、アレックスは過去と同じようなことを繰り返すことしかできないんじゃないか。そんな皮肉なことを思ってしまう。それでこれはぼくの勝手な想像なのだが、フランソワ・オゾンは、そういう映像表現ならではのトリックを本編にさりげなく落とし込む映画作家なのではないかと思うのだ。
……ヤバいっすね。微妙に映画評論みたいなことしちゃった。本当はこんな話をするつもりはなかったのに。ぼくとしては、俳優のヌードシーンの撮り方に「フェチ」を感じてフランソワ・オゾンはやっぱり公私混同型監督だなと思ったとか、アレックスが裸になるシーンでズボンを脱ぐ描写を省略しなかったのはありがたいと思ったとか(ぼくはゲイビデオで男子がズボンを脱ぐ場面に興奮するタイプなので)、アレックスが朝勃ちしているシーンはリアリティがあっていいなと思ったとか(ぼくは映画の青少年起床シーンに朝勃ち描写がないのは不自然だと考える人間なので)、本日はそういう話をするつもりだったのだ。まあ、結局したけど。
そういうわけでぼくは『Summer of 85』をすっかり好きになり、手元に円盤も持っておきたいと思って、豪華版Blu-ray(ポストカード付き)を買ってしまった。本来なら7000円以上するのだが、楽天ブックスでなぜか2000円で安売りされていたのだ。ぼくの口座残高はさすがに2000円以下ではないけどさあ……でも、こういう細かい出費が重なったせいで今月のぼくの財政は相当ピンチである。そもそも買ったはいいけどまだ再生してないし。ぼくは過去を意識するとか乗り越えるとか以前に、現在の楽天ブックスの誘惑にすらまともに対処できていない。とんだ「Summer of 23」である(上手いこと言ったつもりか!)。