ぼくは彼女の実家への手土産を買う
この前書いた「ぼくは彼女の弟さんへのプレゼントを買う」の続きのような、続きじゃないような話である。正式に交際を始めてから1年4か月、ぼくはずっと断り続けてきたのに、彼女の実家にとうとう行くことになった(行かされることになった)。由梨からうちに来て両親に会ってほしいと言われる度に、ぼくは「蒲田(ぼくの居住地)の空気で由梨の家を汚したくない」とか「もう少し髪の毛が伸びてから考えたい」などと言って誤魔化していたのだが、さすがにもう誘いを断り切れなかったのである。
由梨の実家に行くことをぼくは先月末の段階でサークルの一部の人間に打ち明けた。放課後に何人かで飲みに行った時、恋愛事情の話になって、「今度彼女の実家に行くことになったんだよね……」という話をしたのだ。てっきり「それは大変だね」という反応が返ってくるかと思ったら、「へえ。よかったじゃん」(宮田)、「それだけ彼女に認められたってことだよ」(河村)という見当外れのコメントが寄せられた。岩下なんて「(ぼくの下の名前)さんと会わされるなんて彼女さんの親かわいそう」などと言ってきた。
かわいそうと言うなら、岩下と会わされる多田野(岩下の彼女)の親御さんのほうがかわいそうである。ぼくがもし多田野の親で、自分の娘が実家に連れてきたのが岩下だったら、最初は「好青年だな」と騙されるかもしれないが、話しているうちに「ロクなやつじゃねえな。面倒くさそうな男だ」と幻滅すると思う。多田野もそれを自覚しているからこそ、岩下をいまだに実家に連れて行こうとしないのだ(実際は多田野の実家が地方にあるから面会が物理的に難しいというだけの話だろうが)。
後日。4限後に部室へ寄ると、同期の浅野がウェブラジオの収録を終えたところで、宮田や梶と雑談していた。浅野はうちのサークルの渉外部長、ぼくは渉外副部長だが、仲が悪いわけではないけど良いわけでもなく、性別の壁があるにしても私的な交流はない。今度の週末は寒くなりそうだという話になって、その場にいた宮田が「そういえば、(ぼくの下の名前)は週末に彼女の実家に行くんだっけ?」と言った。ぼくが彼女の実家に行く件は機密情報ってわけではないが、オープン情報ってわけでもないので、ぼくは宮田にバラされて恥ずかしい気持ちになる。
「……今週じゃなくて来週。どっちかが体調不良になったら中止だけどね」。ぼくがそう言うと、話を聞いていた浅野は「そんな縁起でもないことを……」と引きつったような表情で言った。浅野充希は明るいがまじめな性格で、だからサークルのみんなから好かれているのだが、ぼくとしてはこの「悪い冗談」が通じない感じが苦手だったりする。だいたい、「体調不良になったら中止」というのは冗談というよりも当然の注意事項である。浅野の前でわざわざそんなことを口走ったぼくがいけないのかもしれないが、浅野もそんなところにいちいち引っかからないでいただきたい。
ぼくが「いや……」と口ごもっていると、浅野はぼくに「手土産はもう用意したの?」と聞いてきた。ぼくは普段、他大学の発表会に行く時は菓子折りを持っていくことが多いタイプの人間で、当然、由梨の実家を訪問するに際しても菓子折りを持っていくつもりでいた。ただ、由梨からは「そんなのいらないよ。持ってこなくていい」と言われていたので、持っていかないことに決めていた。
ぼくが浅野に「いや、持っていかないよ。向こうも『持ってこないでいい』って言ってたし」と答えると、浅野はまじめな顔になって「(ぼくの下の名前)、彼女さんは(ぼくの下の名前)に遠慮してそう言ってるんだよ。お付き合いしているひとのお宅にお邪魔するんだから手土産を持っていくのが礼儀」と言い返してきた。ぼくは由梨が言った「持ってこなくていい」が遠慮ではなく本心であることを理解しているし、それを言うなら浅野は他大学の発表会に行く時に何も持っていってねえじゃねえかと思ったが、ぼくの形勢不利は明らかだったので、ぼくは「うーん……やっぱり持っていったほうがいいのかなあ」と言葉を濁して場を流そうとする。浅野がぼくの目を見つめ、まじめな顔で「持っていくべき」と念押ししてきた。ぼくは「……分かった。ところでこの前行ったN大学の番発(番組発表会)でさあ……」と話題を変える。
翌日。大学に向かう電車の中で、ぼくは浅野の「手土産を持っていくのが礼儀」という言葉をふと思い出した。その晩、由梨からのおやすみLINEが届いた時にもそれを思い出し、由梨に「由梨の実家に伺う時、本当にお菓子持っていかなくていいの?」と尋ねた。由梨からは「いらないよ!」と返ってきたが、品行方正優等生のぼくとしては浅野が言った「礼儀」という言葉がやはり気になる。由梨の意向はともかくとして、由梨のご両親から「この男は礼儀知らずだな」と認定されるのはいやだ。やっぱり何か持っていったほうがいいのかもしれない。
数日後。由梨に会った時に、ぼくは「本当はお菓子持っていったほうがいいよね?」と改めて尋ねる。由梨からは「いい加減しつこいよ? (ぼくの下の名前)くん、今月お金に困ってるでしょ? たぁくん(由梨の弟さん)へのプレゼント(注:淡水魚の下敷き)もさっき買ったんだしもういらないよ」と言い返された。そうか、由梨はぼくが金欠なのを心配して「持ってこなくていい」と言っていたのか。ぼくは「……じゃあ、ぼくが激安のお菓子を見つけて買って、賞味期限が近いけど食べ切れそうにないから由梨の実家に持っていったとしても、由梨は怒らない……?」とおそるおそる聞く。由梨は笑いながら「わたしが(ぼくの下の名前)くんに怒ったことなんてないでしょ」と言ったあと(たしかに叱られることはあるが怒られたことはない)、「持ってきたいなら持ってきていいよ。でも、無理して買うのはやめてね? それはわたしはうれしくないからね」と消極的GOサインを出した。
さて、問題はどこでどんなお菓子を買うかだ。「激安」「賞味期限が近い」という条件を自分の側から出した以上、商品選びは慎重に行わなければならない(もっとも、経済的事情によりぼくはそもそも安い商品しか買えないのだが)。最初は普段行くグランデュオ蒲田か東急ストア蒲田店のお店で買おうかと思ったが、それだと「激安」という条件をクリアできない。由梨の家族は由梨を含めて4人家族(由梨・お父さん・お母さん・弟さん)なので、4人分のお菓子セットとなると1,000円はしてしまうと思うのだ。学校帰り、グランデュオ蒲田1階のコージーコーナーの前を、陳列棚をチラ見しながら通過する。やっぱり1,000円以上するよなあ。第一、ここで綺麗な箱入りのお菓子を買って持っていったら、ぼくは由梨に嘘をついたことになってしまう。「それはわたしはうれしくないからね」と言った時の由梨の真顔を思い出して身震いする。
帰宅して湯船に浸かっている時、ぼくは自宅の近所に個人経営の和菓子屋があるのを思い出した。どら焼きや栗まんじゅうが主力商品だが、このお店はシベリアも有名で、ぼくが子どもだった頃にぼくの母親はここのシベリアを買ってきたことがある。ぼく自身も、大学に入ってから、他大学の発表会への差し入れを蒲田で買いそびれた時にこのお店で商品を買ったことがある(その時に買ったのはどら焼きの詰め合わせだったが)。うん、あのお店のお菓子はいいかもしれない。特にシベリアはグッドチョイスかもしれない。
「シベリア」が何なのか知らないひとのために念のため説明しておくと、シベリアとは、あんこをカステラに挟んだ洋風の和菓子である。名前はロシア菓子っぽいが日本生まれのお菓子だ。宮崎駿監督のスタジオジブリ作品『風立ちぬ』にも出てきた。ふつうは三角形だが、ぼくの自宅の近所の個人経営の和菓子屋で売られているシベリアは丸い形をしている。次の日、ぼくは学校帰りにその和菓子屋に寄り、シベリアを1個だけ買った。180円也。これが120円か130円(できれば110円)だったらもっと買いやすいのになと思いつつ、コンビニの夜勤のバイトに行く前に口に入れる。ふむ、美味しい。とても美味しい。これなら差し入れとして大合格だ。ビニールできちんと個包装されてはいるが、高級商品っぽく見えないところもいい。ぼくはこのシベリアを由梨の実家に持っていくことに決めた。
由梨の実家に行く前の日。ぼくは改めてその和菓子屋に行き、シベリア4個を手に取った。だが待てよ、とぼくは思い立つ。1人1個は少ないんじゃないだろうか。もらった側としても「1人1個かよ。ケチくせえな」と思うんじゃないだろうか。由梨の弟の孝彦くん(かわいい)(大好き)に嫌われたくないよう……。シベリアの陳列枠の横を見ると、オレンジ味のシベリア(1個180円)といちご味のシベリア(1個200円)も置いてある。ふむ。フルーツ味のシベリアを買うのは結構な賭けだが、ここは「違う種類で1人2個」作戦でいこう。ぼくはオレンジ味2個といちご味2個を追加で手に取り、合計3種8個のシベリアを購入した。しめて1,480円也。……全然激安じゃねえじゃねえか! むしろ高すぎじゃねえか! 想定以上の高額になってしまい、ぼくが青ざめた顔で1,500円を支払ったことは言うまでもない(お釣りの20円を財布に入れる手は後悔のあまり震えていた)。
もしかしたら由梨は、ぼくがこういう事態を引き起こすのを見越して、「お菓子は持ってこないでいい」と事前に言っていたのかもしれない。やはりぼくは由梨の忠告に従うべきだったのか。とはいえ、これはこれでよかったのである。というのも、ネタバレになってしまうが、その翌日に由梨の実家に持っていったシベリアは小手家のみなさまに大好評だったからだ。夕食後にぼくを含めたみんなで食べたのだが、由梨のお母さんはシベリアのカステラ部分がふわふわしていることを特に喜び、由梨のお父さんはぼくが地元のお菓子を持っていったことを特に評価していた。由梨の弟の孝彦くんもいちご味を食べながら小声で「うまい」とつぶやいていた。孝彦くんの小声の「うまい」。これを聴けただけでぼくは1,480円払った甲斐がある。
由梨のお母さんから「(ぼくの下の名前)さんも一緒に食べよう?」と言われた時、ぼくが食べると「1人2個」作戦が崩れてしまうのでぼくは一度は拒否したが、由梨が「じゃあこれ半分にしよう」と言ってきたのでオレンジ味のやつをぼくと由梨で分けて食べた。初めて食べるオレンジ味のシベリアは美味しかった。たぶん世界でいちばん美味しいオレンジ味のシベリアなんじゃないだろうか。オレンジ味のシベリアを作っているお店が他にあるのか知らないけど。もちろん由梨からは「これいくらしたの?」と真っ先に聞かれたが、ぼくは「1個20円。いちご味は30円」と誤魔化しておいた。「どんなに美しい真実も優しい嘘にはかなわないだろう」(トルクァート・タッソ)。ぼくなりの優しい嘘である。まあ、帰りに二人きりになった時に「本当は? いくらしたの?」と問い詰められ、結局ぼくは真実を告げる羽目になったわけですが……(こっぴどく叱られました)