ぼくと彼女は喧嘩する

 ぼくは彼女と喧嘩する。来年の話をすると鬼が笑うというが、去年の話をすると仏が泣いたりするのだろうか。2024年が始まって一週間が経ち、大学の冬休みもすでに明けたというタイミングだが、今日のぼくは2023年の話をしたい。結論から言うと、ぼくが彼女を怒らせてしまったという話だ。

 ぼくには交際一年半の彼女がいる。彼女とは一昨年の春、首都圏の大学の放送サークルの懇親会で知り合った。あの頃のぼくらはまだ二年生になったばかりだった。月日が経つのは早いものだ。彼女からの誘いでデートを重ねて、4回目のデートでぼくから告白した。この記事を書いている日の時点で、それからもう一年半と半月が経った。ぼくがゲイであること、ゲイであることを彼女に隠していることを考えれば、この一年半+半月という交際期間は驚異的な数字と言える。

 ぼくらがなぜいまだに別れていないのかというと、「お互いに別れたくないから」という一言に尽きる。セックスが関係する時や、由梨が恋愛モードになってしまっている時を除けば、ぼくは由梨と一緒にいるとだいたいいつも楽しい。由梨のおかげで美術館や博物館の魅力も分かるようになったし、他人と映画を観に行くことも苦痛じゃなくなったしね。相手と一緒にいるのが楽しいのは由梨のほうも同じだと思う(自惚れ)

 ぼくらがそういう関係でいられるのは、やっぱり、感情的な衝突をしてこなかったからだっていうのが大きい。ぼくと由梨はほとんど喧嘩をしたことがない。ぼくは誰かと喧嘩をしたり、それによって人間関係が変化したりすることを恐れる人間なので、もし喧嘩ばっかりしているカップルだったら、ぼくは由梨との関係をここまで続けてこれなかったと思う。

 ぼくらのあいだで唯一喧嘩が勃発しかけたのは、付き合ってまだ数か月しか経っていない日のデートの帰り、ガラガラの中央線の車内で、「ドッキリ番組」の話をした時だ。ぼくはドッキリ番組は結構好きだが、由梨は嫌いだと言って、顔をしかめて露骨に嫌悪感を示した。その頃、ぼくはうちの放送研究会の仲が良い先輩が作ったドッキリ番組を見たばかりだったから、その先輩のことまで非難されたような気持ちになって、由梨に対して不快感というか敵対心を覚えた。由梨がドッキリ番組の悪い点を挙げる中、ぼくは「なんで? いいじゃん」と反発して、それに由梨も反論してきて、ぼくらは軽く口論になった。いま考えると実にくだらない口論である。これ以上くだらない口論なんて、この世には「『きのこの山』派か『たけのこの里』派か」論争しかない。いよいよぼくらの関係に亀裂が走るというタイミングで、ぼくと由梨はなぜか両方とも言い争う気がなくなって、「まあ、価値観はひとそれぞれだよね……」という結論に落ち着いた。その後数十秒間は気まずさが残ったが、乗り換えのため一緒に神田駅で降りる頃には、ぼくらのあいだの空気は完全に元に戻っていた。以上がぼくと由梨のあいだに存在する唯一の喧嘩(未遂)エピソードである。

 ところが、である。昨年11月、ぼくと由梨のあいだに新たな喧嘩エピソードが加わった。ぼくらはついに本格的に喧嘩してしまったのだ。

 2023年の12月24日は日曜日だった。ぼくはそのことを知らないわけではなかったが、前の年に引き続き、今年の12月24日も放送研究会の有志に声をかけてクリスマスパーティーを開くことにした。会場は河村が一人暮らししているマンションだ。二年の藤沢がかなり早い時期から「今年はやらないんですか?」と乗り気だったこともあって、11月下旬の時点で開催が決定した。とりあえず、当日は夕方ぐらいに集合して、河村のマンションの近くのスーパーマーケットへ買い出しに行こうというアウトラインが決まった。

 その翌日か翌々日。由梨とコレットマーレ(桜木町駅前の商業ビル)のDucky Duck キッチン(洋食屋さん)で晩ご飯を食べている時、ぼくは由梨に「24日の夜、今年もサークルの連中とクリスマスパーティーをやることになった。由梨と会えるとしたら夕方ぐらいまでなんだけど、どうする?」と尋ねた。というのも、毎週日曜はぼくと由梨のレギュラーデート日だからだ。毎週日曜、ぼくと由梨は他に特別な用事がない限り、デートをすることになっている。文書で契約を交わしたわけではないが、気付いたらそういう文化が出来上がっている。だから、ぼくとしてはできるだけ早めに由梨に12月24日(日)のぼくの予定を伝えておかなくちゃと思って、まだクリスマスパーティーの集合時間とかは未定の段階だったが、「会えるとしたら夕方ぐらいまでだよ」と早めに伝えたのだ。

 ぼくとしては「早めに教えてくれてありがとう」と言われるぐらいの心構えでいたのだが、実際の由梨は「……えっ?」と驚いたあと、「どうして勝手に決めたの?」とぼくに不快感をぶつけてきた。冗談っぽく由梨が不機嫌な顔をしてみせることはたまにあるが、由梨が本気でぼくに苛立ちをぶつけてきたのはその時が初めてだった。

 話を聞くと、2023年の12月24日はちょうど日曜日なので、由梨としては「今年のイブは(ぼくの下の名前)くんと一緒に過ごせる」と思っていたのだそうだ。ぼくはまったく記憶にないのだが、由梨が「今年のイブは一緒に過ごせるね」的なことを言って、ぼくが「うん」と答えたこともあったのだそうだ。だが、ぼくとしては12月24日に絶対会うという約束をした覚えはないし、由梨がそこまでクリスマスイブに重大な意味を見出していたなんて知らなかった。実際、去年もぼくは放送研究会の連中とクリスマスパーティーをやったけど、その時は由梨は特に何も言ってこなかったし。

 ぼくは釈然としない気持ちを抱えながらも、気まずい空気になるのを恐れて、とりあえず「……ごめんね?」と謝った。「クリスマスパーティーは夕方からだからそれまでは一緒にいられるよ?」ということも伝えた。そうしたら由梨は「本心から謝ってない」とか「会えないことに怒ってるんじゃなくて勝手に他の予定を入れたことに怒ってる」とか言い出して、それにはさすがにぼくもカチンときた。だって、これまでだって日曜日に他の予定が入ることはふつうにあったじゃん。由梨だって「今度の日曜はゼミのフィールドワークがある」とか「中高の同級生に会う」とか言ってきたことあったじゃん。……いや、それは由梨的には「事後報告」じゃなくて「事前報告」だから問題ないってことなんだろうが、ただ、ぼくにはそもそも「12月24日に会おうね」という約束を交わした記憶がない。だいたい、「本心から謝ってない」ってなんだよ。ぼくはそもそも悪いことしてないだろ! まあ、本心から謝ってないっていうのは事実その通りだけどな!

 「もっと約束を覚えてくれているひとだと思ってた」とか「じゃあ由梨にはぼくは向いてないのかもね」とか超ローテンションで言い合ったあと、ぼくと由梨はDucky Duck キッチンを出た。超険悪ムードである。普段ならぼくは横浜市営地下鉄ブルーライン桜木町駅の改札前まで由梨をお見送りするのだが、この日のぼくはJR桜木町駅の改札前で「じゃあね!」と言い放ってSuicaをピッとやり、構内の階段を上って横浜線に乗り込んだ。

 横浜駅で京浜東北線(大宮方面)に乗り換えた時、ぼくは早くも後悔の念に苛まれていた。ぼくらがいまやったのって喧嘩だよな。この喧嘩のせいでぼくらの関係は破綻したりするのだろうか。いやだ。由梨と別れたくない。それに、ぼくはなんて大人げないことをしてしまったんだろう。ブルーライン桜木町駅の改札前まで由梨をお見送りしなかった自分は最低だ。たとえどんなにひどい喧嘩をしてもお見送りはすべきだった。それとこれとは話が別だもの。これではぼくは感情に支配された獣とおんなじだ。

 あと、由梨が「今年のイブは一緒に過ごせるね」と言ってぼくが「うん」と答えたらしい件にしても、どうやら本当にそういうことがあったんじゃないかという気がしてきた。由梨がぼくに嘘をつくわけないし。そんなに重要な約束だったならきちんと書面に残しておいてくれとは思うが。

 スマホを取り出し、LINEの画面を開いて、由梨に「さっきはごめん」と送る。「いまどこ?」「いまから話せる?」と送る。しばらくスマホの画面を凝視したが、既読はつかない。蒲田駅に到着。駅前駐輪場に停めてある自転車に乗る前、もう一度スマホを確認したが、やはり既読はついていない。もしかしてブロックされたのだろうか。いやだ。こんなことでお別れなんていやだ。ぼくは泣きそうになりながら自転車を漕いで自宅へ向かう。

 帰宅してスマホを確認すると、由梨から「もう帰ったよ。通話したいなら大丈夫だよ」と返信が来ていた。なんか上から目線っぽいのが若干引っかかったが、ぼくは自分の部屋のドアを閉め、由梨にLINE通話する。「……あっ……無事に帰れた……?」「……うん……いま、家……?」というぎこちない第一声のあと、ぼくらはお互いに謝って仲直りした。由梨から「ちゃんと確認しないまま『会える』と決めつけていてごめん」と言われたので、ぼくも「(ぼくは覚えてないけど)思わせぶりなこと言っていたらしくてごめん」と言った。そして、由梨からは「別にイブの日に会うことを重視しているわけじゃない」「イブの日に会わないならわたしも友達のクリスマス会に参加できるから逆によかった」ということを言われた。うん、それはぼくもよかった。まあ結局、ぼくらは24日には会わない代わりに、25日はお昼頃から会おうという話になったけど。

 そろそろ話も終わりという頃、電話口の向こうから鼻をすする音が聞こえたので、ぼくは「由梨、泣いてるの?」と尋ねた。由梨は「ううん、寒いから少し鼻がムズムズしているだけ」と言っていたけど、本当は由梨はちょっと涙を流していたんじゃないかとぼくは睨んでいる。というのも、ぼくは仲直りしたことにホッとして涙が出そうだったからだ。ぼくでさえそうだったんだから、由梨もきっと安心していたんじゃないかなあ。

 ぼくは由梨に「今後また喧嘩することがあっても、ぼくらはその度に仲直りしようね」と伝えた。そうしたら由梨が「うん……さっきのは喧嘩じゃないと思うけどね」と返してきた。いや、コレットマーレ6階 Ducky Duck キッチンでの言い争いはどう考えても「喧嘩」だろう。ぼくらは「さっきのが喧嘩に入るかどうか」をめぐってまた口論になりかけたが、由梨が「ねえ、これが逆に喧嘩になる」と苦笑した感じで言ってきたので、ぼくらのやり取りは口論に発展せずに済んだ。

 そうなんだよな。喧嘩というものは同じレベルの人間同士でしか発生しない(とよく言われる)。そう考えると、なんか色々思い出したんだけど、これまでぼくらが喧嘩をしてこなかったのは、いつも由梨が大人の対応をしてきたからだったように思う。今回ぼくらが喧嘩したのは由梨の「譲れない一線」をぼくが踏みつけちゃったからで、その「一線」とは「約束したことは守れ」「約束を変更したい時は事前に言え」ということなのだろう(ぼくがよく一年の木村に対して思っていることだ!)。まあ、こういうことされたら由梨も怒るんだなということをピンポイントで知れたという意味では、今回の喧嘩はぼくには有益だった。できればもう二度と喧嘩はしたくないですけどね。だってぼく、もう由梨を泣かせたくないもん!(とか言って本当は自分が泣きたくないだけ)

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