ぼくは彼女の実家を去る
ぼくは先月、誘われてもずっと断り続けていたけどとうとう彼女の実家に行って、彼女のご両親とお会いして、彼女の弟さん(高校2年生)とお会いして、晩ご飯をいただいて、彼女の部屋と彼女の弟さんの部屋に上がった。という話を、ここ何回かにわたって書いた。今回はそのエピローグ的なやつをどうぞ。ぼくが彼女のご両親に別れを告げ、彼女の実家を退却するだけの記録(+後日談)です。
由梨の弟の孝彦くんが自分の部屋に帰っていって、由梨の部屋にいるのはまたぼくら二人だけになった。部屋のドアは半開きの状態だった。由梨がベッドの上にぼくを座らせていちゃつこうとしてきたので……って書くとまるで由梨が性欲に支配された肉食系女子みたいだが、別にここでの「いちゃつこうとしてきた」というのはそれほど大した意味じゃない。いつもみたいに体をぶつけてきた程度である。
ただ、由梨はぼくのリアクションを待っている感じだったし、ぼくも孝彦くん(かわいい)(大好き)と交流できたことに興奮して気分が高まっていたので、一旦立ち上がって廊下にひとが誰もいないことを確認した上で、由梨のおでこにキスをした。なんだか妙に生温かくて、気持ち悪いとまでは言わなくても違和感の残る感じで、これならふつうに唇にキスをすればよかったと後悔した。どうせ誰も見ていなかったんだし。
時間を確認したらもう20時を過ぎていた。ぼくが「本当に帰らないと」と言うと、由梨からは「もう? まだいいんじゃない?」と言われたが、これ以上由梨の部屋にいたら、1階にいる由梨のご両親から「娘の彼氏は娘の部屋で娘に卑猥な行為をしているんじゃないか」と本格的に疑われかねない。ぼくは「でも……また明日会うんだし……ね?」と由梨を説得する(ぼくは良識的な彼氏だ)。由梨は「じゃあ駅まで送っていく」と言って立ち上がると、ブルゾンみたいなコートを羽織って、「行こう!」とぼくをけしかけた。由梨はこうと決めたら行動が早い。切り替えが早いっていうか。付き合い始めた当初、ぼくはこの由梨の切り替えの早さを「怒り」や「不機嫌」の表れなんじゃないかと思っていたが、そういうわけじゃない。由梨は本当に切り替えが早いのだ。
ぼくが由梨に小声で「たぁくんにご挨拶したい」とささやくと、由梨は隣の部屋のドアをノックして「たぁくん! (ぼくの下の名前)くんが帰るって! 開けていい?」と声をかけた。中から孝彦くんが「勝手に開けるな」と言いながら自分でドアを開けて出てきた。ぼくと目が合う。「あっ、たぁ……孝彦くん、じゃあ帰るね。今日はありがとう……楽しかったです」(半敬語)と告げると、孝彦くんは小さく頭を下げながら「こちらこそ。お気を付けて」と返してきた。なんて礼儀正しい男の子なんでしょう。「お気を付けて」なんてなかなか高校生が言える台詞じゃない。これで孝彦くんが笑顔だったら完璧だったんだけどな。最後までよそよそしさが残ったのは残念だが、まあ、初対面だしこれでよしとしよう。
2階のトイレを借りたあと、由梨と一緒に1階に下りる。由梨がリビングにいたご両親に「(ぼくの下の名前)くん帰るから駅まで送っていくね!」と声をかける。そうしたら、由梨のご両親はわざわざぼくを玄関まで見送りに来てくれた。ぼくは「今日はごちそうさまでした。香織さん(由梨のお母さん)のお料理、本当に美味しかったです」と告げる。その時のぼくの言い方がなぜか若干ホスト風になってしまい、色目を使ったみたいになってしまった。帰り際、由梨のお母さんが「ぜひまた来てくださいね」と言ってきたのに対し、由梨のお父さんが「遅いから気を付けて帰ってね」としか言ってこなかったところを見ると、おそらく由梨のお父さんはぼくに二度とこの家に来てほしくないのだろう(ネガティブ思考)。
大人たちにペコペコと頭を下げながら小手邸を退却。すっかり外は暗くなっている。玄関先に停めてある自転車が視界に入った。数時間前、ぼくを駅まで迎えに来た時に由梨が乗っていた自転車だ。ぼくは「自転車持っていったほうがいいんじゃない? 帰りに乗る用で」と声をかける。暗い夜道を一人で歩いて帰るのは寂しいだろうし、時短のためにも自転車を持っていったほうがいいと思ったのだ(ぼくは気遣いができる彼氏だ)。由梨は「あ、そうだね」と言うと邸内に自転車の鍵を取りに行き、すぐに戻ってきた。
自転車の前のカゴにぼくのリュックサックを置かせてもらう代わりに、ぼくが由梨の自転車を押して歩く。ぼくの自転車と比べてハンドルの位置が低いので押して歩きにくい! でも由梨の自転車はぼくの自転車より新しくてきれいでおしゃれで、この自転車をまるで自分の自転車のように押して歩いてる自分がなんだか誇らしかった。ぼくもそろそろ自転車を買い替えようかな(そのためにはまず金を貯めろ)。
歩きながら、ぼくらは今日の感想を言い合う。「ハンバーグもクリームシチューも美味しかった」とか「いつもより緊張してたね」とか「由梨の部屋はいい匂いがした」とか「たぁくんに下敷き渡せてよかったね」とか。由梨は手ぶらなのをいいことにぼくに体をぶつけてくる。おいやめろ、ぼくは自転車を押して歩いてるんだぞ。ぼくが「危ないからやめて」と注意すると、由梨は「ごめん」と言ってすぐにぼくから体を離した。沈黙の時間が訪れる。由梨が自分の行動を心から反省しているようなので、ぼくはキツく注意しすぎたかなと逆に反省させられて、「別にそこまでは離れなくても大丈夫だよ」と補足する羽目になった。
由梨の実家の最寄駅の出口前に到着。ぼくはここから階段を下りて横浜市営地下鉄ブルーラインに乗って帰宅するのだ。由梨が「改札まで送るよ」と言ってきたが、ぼくはそれを「ここで大丈夫」と断った。自転車の路上駐車はよくないと思ったからでもあるが、ぼくを見送って一人で階段を上っていく時に由梨が寂しい気持ちになるんじゃないかと思ったからでもある(ぼくは優しい彼氏だ)。
「じゃあね。たぁくんによろしく」と言って別れたあと、階段を下りて改札を通過して、ホームで5分ぐらい待って、帰りの電車に乗りながら、ぼくは孤独感に襲われていた。由梨の実家に行ったら由梨のことをもっと近い存在に感じるんじゃないかと最初は思っていたけど、いざ実際に行ってみたら、逆に「部外者には入り込めない小手家の絆」みたいなものを感じてしまって、ああ、ぼくは由梨にとって赤の他人にすぎないんだなと自覚してしまったのだ。それは特別な発見ではない。ただの当然の事実だ。ぼくと由梨は付き合ってそろそろ一年半経つといっても、小手家の人々と由梨がともに過ごしてきた時間と比べれば微々たる月日にすぎない。ぼくと由梨は付き合ってそろそろ一年半経つといっても、一緒に暮らしていないどころか、毎日顔を合わしているわけですらない。ぼくは由梨の家族じゃない。小手家の人間とぼくとのあいだには越えられない壁があるのだ。
翌日。学校帰りに待ち合わせて由梨と一緒に晩ご飯を食べる。毎週ではないが月曜はそうなることが多い。その日はぼくの大学の近くのスパゲッティ屋さんで一緒に食べた。由梨の話によると、ぼくが帰ったあと、由梨のお父さんはぼくのことを「好青年だった」と評し、お母さんは「まじめなひとだった」と評していたそうだ。「まじめなひと」。「好青年」は初めて言われたが、「まじめ」のほうはぼくが子どもの頃から大人たちによく言われてきたやつだ。自慢じゃないがぼくは全然まじめじゃない。どれぐらいまじめじゃないかというと、付き合ってそろそろ一年半経つ彼女がいるのにサークルの後輩の男子に片想いし、彼女の弟さんにも性的に興奮し、そのことをnoteで全世界に向けて発信するぐらいまじめじゃない。ぼくの人生において唯一「まじめ」に近いエピソードがあるとすれば、それは小学生の時にKUMONの教室にサボらず通っていたことぐらいである。由梨のご両親は娘の彼氏の本性を見抜けていない。小手家の大人たちの目は節穴だ。
一方、由梨の話によると、この日の朝に一緒に朝食を食べた時、孝彦くんはぼくのことを「変なひとだった」と評していたそうだ。親しくなりたい年下男子から陰でそう言われたのかと思うと複雑な気分だが、ただまあ、孝彦くんには人間を見る目がある。ぼくは子どもの頃から大人たちからは「まじめ」と言われてきたが、ぼくの友人や仲間からは「変人」と言われてきた。ぼくのことをよく知る連中が口を揃えてぼくのことを「変人」扱いしているのだから、きっとぼくは本当に「変人」なのだろう。初対面でそれを見抜いた孝彦くんはさすがだと言わざるを得ない。
スパゲッティ屋さんでスパゲッティを食べながら(スパゲッティ屋さんなんだから当然だ)(いや生ハムサラダだけ注文する場合もあるかもしれない)、ぼくは由梨に「たぁくんはよく見抜いたね、ぼくが『まじめなひと』じゃなくて『変なひと』だって」と言った。由梨は「うん」と最初は言ったが、そのあとに「でも、昨日の(ぼくの下の名前)くんはまじめだったよ」と付け加えた。ぼくは由梨もそっち側(ぼくを「まじめ」と評す大人たち側)の人間なのかと思ってがっかりしたが、いま冷静に考えたら、由梨は自分の両親の見解を否定されたと思ってフォローしたのかもしれない。だとしたらぼくは由梨に対して無神経なこと言っちゃったな。
お会計を済ませてスパゲッティ屋さんを出て、駅へ向かって並んで歩いている時、由梨がぼくの顔を見ずに「昨日はありがとう」と言った。おそらく由梨は、ぼくが本当は由梨の実家に行きたくなかったことを知っている。実家に行くのを断り続けた本当の理由も分かっている。だけど、そういうところはあえて追及せず、「昨日はありがとう」の一言に想いを集約したのだろう。こういう時、ぼくは由梨のことを大人だなあと感じる。まあ、そのあとに「お母さんが『また来てほしい』って言ってたよ。今度いつ来る?」と言ってきたところを見ると何にも分かっていない可能性もあるけど。以上がぼくが彼女の実家に初めて行った時の話。ぼくにとっての一大事でした。