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#14【書評】夜と霧

今日紹介する本は、ヴィクトール・フランクル著『夜と霧』である。

この本は、もう紹介することもないくらい有名な本だ。第二次世界大戦においてかの有名な「アウシュビッツ強制収容所」を生き延びた著者が、心理学者の立場からその当時の状況を考察していく。

本書について一言で表すならばそれは「希望の書」である。それも表面的な希望ではなくもっと深い、真の意味で希望を持つことの大切さを教えてくれる。

こうして書評を書いていてこんなことを言うのは申し訳ないが、正直これは読んでみないとわからない。少なくとも現状の私にこの本から滲み出る希望を表現する力がない。

だからこそもしこの書評を見てくれたのなら絶対に一回は読み通してほしい。ありがたいことに文の量も特別多いわけでもないし、真剣に読めば1日で読み切れる量だ。

ただ、だからと言ってこれでこの書評を終わってしまうのは流石に手抜きすぎるので、自分ができる範囲で紹介しようと思う。

生きる意味を見失わないために

突然だが、本書の中で私が1番好きな一節を紹介する

行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部ならば、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

ヴィクトール・フランクル 「夜と霧」

少し長くなったが、この文章の重みをぜひ感じてほしい。

筆者は収容所で地獄のような生活(もはや地獄以上だっただろう)を送っていた。おおよそ生きる意味など何も感じない、それどころか死んだ方がよっぽど楽だったであろう環境において生き延びた人が、それを振り返って一体「生きるとはいかような意味を持つのか?」ということを考えてこの結論に辿り着いたのだ。

生きる意味。ふとしたときに私も考える時がある。しかしながら、我々のような平和な世の中に生きている人間が果たしてこの結論ができるだろうか?

現代は「好きなことを仕事にする」に代表されるようにできる限り自分の好きなことをすることが幸せ、それでこそ生きる意味があるという風潮がある。しかし、生きる意味は「幸せ」ではなかったとしても存在するものである。

「生きる」ということは決して幸せのみで構成されるものではない。時には辛いことがあったり、死にたくなることがある。そういうことがあってはじめて「生きている」と言えるのだ。

「そうは言っても」と思う人もいることは重々承知している。嫌なことよりは好きなことが多い人生であってほしいと思う。

しかし、本質はそこではない。この話の中で大切なのは「自分の嫌なことが起こった時、いかにそこから意味を見出そうと思えるか」ということである。

嫌なことをただ嫌だなと思ってやり過ごすのではなく、何かしら自分の中で意味を見出そうとするその姿勢こそが重要なのだ。

その結果、特に何も見出せなかったとしてもそれはそれでいいと思う。意味を見出せたかどうかではなく「自分で何かしら意味を見出そうとしたのか」というその姿勢こそが最も大切なのではないだろうか。

実際、著者を含む強制収容所を生き残った人々というのは極限状態の中でも自分の中で生きる意味を見出し続けることができた人たちである。

そうやって自らで自らの生きる意味を紡ぐことの大切さを自らの体験を通して教えてくれる名著であった。

ぜひ実際に読んでみてほしい。


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