#26【書評】 客観性の落とし穴
最近は、『論破』という言葉が社会の中で一般的になってきている。
この言葉の定義は「議論して相手を言い負かすこと」と言えるが、この論破が行われるときに大切なのは、「客観的なエビデンス」である。
エビデンスというのは日本語でいう「証拠」のことで、「それってあなたの感想ですよね?」に代表されるような主観的感想ではない、数学的・科学的理由があることだと言える。
今回紹介する本は、この「客観性」について検討する一冊である。
そもそも客観性とはなんなのか?
客観性について検討するにあたってまずやらなければならないのは、
そもそも「客観的」というのはどういうことなのか?ということである。
我々は日常の中で何も意識せずに「それって客観的ではないよね?」とか言っているが、じゃあ客観性ってなんなの?と言われるとなかなか答えられない。それは実のところ我々が客観性というものの正体をよくわかっていないということである。
ということで、まずは客観性という概念がいつ誕生したのかを見てみる。
本書によると、客観性という言葉が社会に普及したのは19世紀ごろだという。それまでも「客観性」という言葉自体は存在したものの、その意味は今で言うところの「主観的」な意味だったらしい。
ここから今の客観性の概念にどう近づいていったかといえば、そこには「写真」の発明がある。それまで人間が見たものを表現するには絵を描くしか方法がなかった。しかし絵というのは書いた人の見え方に影響してくる。
しかし、カメラというのは機械的に取られる「画像」であり、そこに人為的な調整は入らない。ここから「客観性」というものが人間の経験から切り離されて「機械によって測定されたもの」になっていく。
つまり、現在我々が思っている客観性というのは、人間が記録したものではなくて、「機械が記録したもの」という認識に支えられているのである。
データ化することの危険性
現代では客観的であること=機械的に記録できるもの認識されているわけだが、そうすると客観的であるためにはどうしても「データ」が必要になってきてしまう。
機械というのは種々のデータを扱っているものであるため、機械による記録が客観的であるということならば、その記録というのはすなわちデータだ。
ただ、我々もわかるとおりデータにならない問題というのはたくさんある。
これだけさまざまな技術が発達した今でさえ、データにできるものとできないものを比較したらまだまだできないものの方が多いだろう。
また、データというのはその性質上非連続的なものであるため、どうしても抜けが出てきてしまう。こぼれ落ちてしまう情報があるのだ。
また筆者は本書でこのデータに関して興味深い考察をしている
そう、データにするということは我々の作った指標から見て、それが多数派なのか少数派なのかを判断してしまうのだ。
そして、少数派にされた方は「それは普通ではない」というレッテルを貼られるようになる。データにはこのような危険性があるのである。
データには映らないもの
データを扱うというのは、木をみずに森をみるようなことだと思う。
個別具体的な一つには目を向けずに大量の事例の中にどんな傾向があるのかを見出すということだ。
これにはもちろんちゃんと意味があるし、その有効性は確かに存在する。
ただ、そうなってくると一つ一つの事象への関心は薄くなっていってしまう。一つの事象が「たくさんある中のうちの一つ」に変化する。
しかし、この一つの事象の中には、データに現れないリアリティがある。たとえば、日本の貧困について調べていたときに、世帯年収が200万円という家庭のデータがあったとしよう。
この場合、この金額だけを見てもその家庭がどんな状況なのか、どれだけ大変な思いをしているのかは全く見えてこない。実際にそのリアルを知るには、その家族が一体どんな生活なのか、どんな状況なのかを調べる必要がある。
ただ、この「一つの家庭の状況」と言うのは決して客観的なものだと言えるものではない。むしろごくごく主観的な内容になる。
ただ、我々が貧困を理解するにあたって、この「主観」というのは極めて重要であることは言うまでもない。データからは見えないリアルを知ることで初めて我々の関心や認識が変わるのである。
ここまで見て貰えばわかるとおり、本書を読むことで「データにはならない情報を大切にする」と言うことを知ることができる。
ただ勘違いしてほしくないのは、データや客観性が重要ではないということではない。
本当に大切なのは、データや客観性の重要性というのは前提とした上でデータ以外にも目を向けることだ。
そうすることでより広い視点から一つの事象について考えることができるようになるのではないだろうか。
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