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#16 【書評】 愛するということ
「愛する」とはなんだろうか?
愛するとは人の中でも最も価値のあるものである。第二次世界大戦時の収容所を生き延びた精神科医が自らの体験を心理学的側面から考察した一冊、ヴィクトール・フランクル「夜と霧」にもこんな一節がある。
そのとき、ある想いが私を貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がいたい上げた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実
そう、愛とは人という生き物にとって最も重要な概念であると言える。しかし、そうであるにもかかわらず「では愛とはいかなるものであるのか?」と言われるとびっくりするほど答えられない。
今日紹介する一冊は愛というものがいったいなんであるかに一つの答えを出してくれるものだろう。
さて、前置きが長くなったが今日紹介するのは
エーリッヒ・フロム著『愛するということ』である。
題名の通り、人にとって愛するということがどんなことであるのか、また愛するにはどうするべきなのか、ということが述べられた一冊である。内容はものすごく深いが、読みやすくなるほどと思わせられる。
愛することも技術である
まず本書の中にある興味深い主張の一つが、「愛するということは技術である」という考え方である。
一般的にみて、我々は愛とは生まれ持ったもので誰でも容易に人を愛することができると思っている。しかしフロムの主張はそうではない。人を真の意味で愛するにはそれ相応のやり方が必要であるというのだ。
まず前提として、我々が愛と呼んでいるものの中には実はそれは愛ではないものが紛れ込んでいるということだ。
少し考えてみるとわかると思うが、「歪んだ愛」という形容の仕方がされるように、ある人にとっては愛であっても他の人からしたらそれは全くそうではないということは往々にして起こる。
そして、このような愛とは呼べない愛が、時に恐ろしい結末をもたらすということも我々は知っているし、それは決して我々を幸せにし得ないものであることもまた我々は知っている。
噛み締めてほしい文章
これからすることは一応書評をしている身分として最低であると言える。しかし、書評をしている自分と本の真の魅力を皆さんに伝える目的を天秤にかけた時、これをやった方が伝わると考えた。
これから本書の中にある一節をいくつか紹介する。これには私の解釈などは一切書かないのでどうか皆さんの中で消化してほしい。
共棲的結合とはおよそ対照的に、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。
(ここでいう共棲的結合とは簡単に言えば現代的な恋愛における依存関係のようなものであり、そこには暗黙的に支配や服従の関係が見られる)
より深く相手を知ることができれば、つまり相手の人格が無限であるのを知ることができれば、他人がそんなに身近になるはずがない
自分の人生に意味を見出せない人は代わりに子供の人生に意味を見出そうとする。だがそれでは自分の人生にも失敗するし、それだけでなく、子供にも誤った人生を遅らせることになる。
以上三つを紹介したが、どう思うだろうか?それぞれの感想は自分でよく反芻してそこから自分の考えに深めていってほしい。
(本来ならまだまだ紹介したいところだが、それは実際に読んで自分で見つけてほしい)
人を真に愛するには?
では、人を真に愛するにはどうすればいいのだろうか?
いくつか必要な要素を挙げられているが、その中で私が1番大切だと思ったことを紹介する。
それは「信じること」である。信じることができることが望ましいのではなくて、愛には信じることが必要条件なのである。
ただし、この信じることもなんでもいいわけでは決してない。本書ではこう書かれている。
理にかなった信念とは、自分の思考や感情の経験にもとずいた確信である。それは、何かをやみくもに信じることではなく、私たちが確信を抱くときに生まれる、確かさと手応えのことだ。新年は、人格全体に影響を及ぼす正確的特性であり、ある特定の信条のことではない。
そう、つまり何でもかんでも信じればいいわけではなく、あくまでそこには思考や感情が必要であるということだ。
もっとわかりやすく言えば、信じる時にも根拠が必要であるということだ。とりあえず信じるべきだから信じるというのは盲目と同じである。
相手との関係において、土台を持った信頼が生まれてきた時それは本当の意味で愛と呼べるようになるのではないだろうか。
また、相手を信じることができるようになれば自分自身が幸せになれるということは言うまでもない。
嫉妬や不安に駆られる愛情というのは、この信頼が抜け落ちた愛情である。人間として信頼していればこのような不安に支配されることもないだろう。
しかし、現実はそう単純に行かないのもまた愛の難しいところである。理屈では分かっていてもそうはならないところに妙味があると言える。
その微妙なバランスをとりながらも、最終的に真に人を愛することができるようになれば、それは幸せなのではないだろうか。