7-3 出かけていいんですよ
産後鬱の妻を必死に支えていたつもりなのに、なぜか離婚を切り出された、今思えば誠気の毒な旦那氏は、「このままではいけない」と自治体の育児相談室に私を連れ出してくれた。定期的に開かれている育児相談は、他の人も来るため、私は行きたくなかった。もう、誰か他人と話すことが億劫でたまらなくて、本当は役所の人とも話したくなかった。「どうせ誰も分かってくれない」という屈折した想いもあった。
「僕も一緒に行って、僕が話すから」と旦那は必死に私を誘ってくれ、個人面談的な感じで育児相談を予約してくれた。
私たちは3人で市の施設に赴いた。娘は生後半年ほどだった。向こうは2人の女性が対応してくれた。
正直、何を話したのかよく覚えていない。恐らく、旦那が色々と説明してくれたと思う。私は旦那と娘と離れて、とにかく一人になりたかったため、いっそ入院したいとすら思っていた。しかし、授乳をしていたため、病院は勧められなかったことは覚えている。
そのかわり勧められたのは、「児童館などの施設へ出かけること」だった。
「生後六か月ですし、そろそろお出かけしやすくなりますよ」と言われ、その施設から近い商業ビルの中にある、第三セクター的なところが運営している無料の子供広場を紹介された。そこは児童館を更に低年齢化した施設で、未就園児をターゲットにしていた。そのため、まだハイハイもできない乳児を連れても遊びに行きやすい場所だった。
こことの出会いで、私の産後鬱スパイラルは止まったように思う。
すぐ近くだったので、育児相談の後、そのままその子供広場に行ってみたら、スタッフの人が大歓迎してくれた。さすがにハイハイもできない月齢の赤ちゃんは多くなかったが、私はそこで初めて、「あぁ、私、赤ちゃん連れて出かけてもいいんだ」と気づいた。思い込みが一つ外れた瞬間だった。
私はそれから、夢中になるようにそこへ通った。正直、娘はまだそこまで遊べる感じではなかった。寝がえりするくらいで、ずりばいもしていなかったから。それでも、娘をマットに転がして、適当におもちゃを渡すと、適当に振ったりして遊んでいた。いい気晴らしだった。
しかし、そこに行って母親として何より嬉しかったのが、一人で娘と向かい合って呆然としていると、スタッフの人がさりげなく声をかけてくれることだった。今思えば、「子供を遊ばせる施設」という表の顔に対して、あそこには「暗く沈んだ母親をサルベージする」という裏ミッションがあったように思う。私は見事にサルベージしてもらった。
私は旦那(と、たまに行っていた実家の家族)以外の大人と、かなり久しぶりにまともな会話をしていた。話す内容は、取るに足らないことばかりだった。「赤ちゃんが寝ない」「離乳食が面倒くさい」「お出かけ先でうんちが漏れて大変だった」とか、そういう愚痴ばかりだったが、先輩ママでもあったスタッフの人は「そうよねー。大変よねー」と笑顔で話を聞いてくれた。別にお悩みに対して解決策を提示してもらったわけではない。それでも、私の心は一時的とは言えすっきりし、不思議と帰るころには私も笑顔になれていた。
内容に関わらず、(日本語で)まともな会話ができるって、人としてこんなに大事なことなんだ…と私は痛感した。逆に言うと、まともな話し相手のいない密室育児が、どれだけ危険なことか。
どうでもいいが、その子供広場は、おむつ替えや授乳はもちろん気軽にしやすく、清潔だったし、お昼ご飯時にはテーブルを出してもらえて、ご飯も食べさせやすかった。屋内で冷暖房完備。子供がどこかに飛び出していく心配もない。親がお手洗いに行く時、短時間であればスタッフの人がちょっと見ていてくれた(うちの娘は、短時間でも私から離れることが無理で、預けられなかったが)。何より嬉しかったのは、駐車場が立体で、屋根付きの渡り廊下を渡れば、赤ちゃんを連れても傘無しで濡れることなくビルの中に入れたことだ。更に、一階が食品売り場になっており、子供と遊んだ後、買い物をして帰るのも楽々だった。お弁当を作ってくる余裕のない時には、ここでお弁当を買って、子供広場内で食べていた。産後鬱を抜けた今でも、かなり母親的にポイントの高い施設である。
出かける楽しさ、話し相手のいる喜びに目覚めた私は、娘がもう少し大きくなってきたら、児童館にも通うようになった。子供広場は少し距離があったし、15時までしかやっていなかったので、家に娘と二人きりでいたくなかった私には、少し短かったのだ。
私は娘と二人きりになることがひどく怖かった。「面倒くさい」とかそういうレベルではない。「恐怖」なのだ。その時は、なぜ「あうあう」しか言わない力の弱い赤ちゃんの娘に対して、そこまで怯えてしまうのか理由が分からなかったが(今は怖くありません)、とにかく、二人になりたくなかった。そのため、毎朝、旦那が仕事に行く時間になると、私は過呼吸を起こすなど、プチパニック状態に陥っていた。それでも、旦那に働いてもらわねば食べていけないので、旦那は仕事に行ったが、とにかく苦痛で苦痛でたまらなかった。
だから、一旦密室育児から抜け出した私は、逆に「二度と密室に戻るものか」と言わんばかりの勢いで、児童館をはしごした。一日同じ場所にいると、さすがに私も娘も飽きるし、お昼寝の時間も必要だったので、大抵、午前中はA児童館、帰ってきてお昼ご飯食べてお昼寝して、目が覚めたら夕方までB児童館、そして、旦那が帰ってくるまで公園で時間を潰すというライフスタイルになっていった。公園以外は、雨が降っても行った。槍が降っても行ってたかもしれない(台風の時も実は行った)。
周りの人に、「よくそんなにお出かけできますね」と感心されることも多かったが、確かに体力的にきつい時もあったが、基本移動は車だし、家で娘と二人きりでいるより遥かにましだった。
ところで、それだけ児童館などに通っていたら、さぞかしママ友もできたでしょうと思われるかもしれないが、そちらはさっぱりだった。顔なじみにはなるし、挨拶をして世間話程度までできる人はいたが、それ以上の仲になることはなかった。私の従来の、「波長の合う、狭いドストライクゾーンに当てはまる人としか、一歩踏み込んだ仲になれない」というコミュニケーション能力の低さが、ここでも露呈してしまった。最も、児童館によっては、もうその地元出身のママさんたちで、お互いを下の名前に「ちゃん」付けで呼び合うグループができてしまっていたので、その中に新参者が潜り込むことは、私でなくても相当難しかったと思われるが。
子供たちそっちのけで楽しそうにおしゃべりに花を咲かせる他のお母さんたちを背に、私は娘とおままごとで遊んだ。その人たちと私の間には、見えないけれど、とてつもなく大きい壁があるような感じがして、とても孤独だった。「私も誰かと気兼ねなく話したい」と思い、涙が出そうになることもあったが、それでも、娘と二人で家にいるよりましで、私は児童館に通い続けた。でも、他のもっと人の多い児童館では、ママグループ同士で対立が起こり、とても他の人は遊びに行ける雰囲気ではない場所もあると噂に聞いたので、近所の児童館が遊びに行きやすい雰囲気だっただけでも良かったかもしれない。女ってオソロシイ。
他にも、私は定期的に開かれる市の育児相談室も渡り歩いたりした(最初はあんなに嫌がってたのに)。2~3か所の地域に顔を出していたように思う。どの場所でも、「娘が寝ない」「よく泣く」「好き嫌いが激しい」などいつも相談することは同じで、回答も大体同じで発展性はなかったが、その場しのぎの気晴らしには十分なった。別に「その場しのぎの気晴らし」が悪いものだとは全然思わない。そうして、その場その時を繋いでいかなかったら、私は今ここにいないだろうから。そうして、なんとか持ちこたえ、根本解決への糸口を探していけばいい。
こうして私の産後鬱は、徐々に上向きになっていった。ただ、出かけ先から帰ると、全てが元の木阿弥で、家の中では相変わらずヒステリックに怒鳴ってばかりいた。苦しくてたまらず、暗い鬼のような顔をし、泣き叫ぶ娘に背を向け、どこかにこの問題の答えはないかと、必死にネットや本を見ていた。娘の顔を見ずに。
そう、根本解決にはなっていなかったのだ。
私はなぜ、産後鬱でこんなに苦しんだのか。「実母を亡くした直後だった」「話し相手がいなかった」などは、所詮、表の事情でしかなかった。もっと言えば、鬱の原因は、育児でも娘でもなかった。育児や娘は、本当の問題に気づかぬ私に、本当の問題を突き付けて「そのままでは駄目だよ」と言ってくれていたにすぎない。育児も娘も、全く悪くないのだ(いや、育児が大変なのは事実ですよ。寝れないとか、そういうのは鬱抜きにして辛いですよ)。
根本的な原因は、思わぬところにあったのだ。そして、それに気づかせてくれたのも、元理系を称する私には、思わぬものだった。