いけずうずうしく生きる
今年の春に「Cirque du printemps 」という自身のエッセイ本を出版した。
昔から本を読むのは好きだったが、書く側になろうとは考えも及ばなかった。ノウハウも経験も何一つない私が本を書く、と言い出した時に周りは笑ったものだ。私だって「おこがましい」と思ったのだから、当然である。
ところが、私の心の奥深くを突き破って「書きたいなら書けばいいんじゃない?」と主が何度も言った。可笑しかろうが、失敗しようが、そんなものはいっときの恥である。海に流してしまえばいいではないか。
私は重い腰をあげたーーーーー。
然れども、そう簡単な話ではない。
構想から出版まで一年。いや、二年はかかったように思う。
先ず、日本語を学び直さねばならないという壁にぶち当たった。というのも、今まで自分が話してきた言葉は言葉にあらず、というような悲惨な状況であったからだ。
説明するとこうである。
「Aさんが○○した」という文章を書きたいとする。
これくらいシンプルなフレーズならどうってことないのだが、それだけじゃつまらないので様々な要素を付け加えることになる。
たとえば・・
・Aさんが○○したのは、こういう理由からである
・その時まわりでこんな音や香りがした
・そこへBさんが登場してXXした
このような飾りをつけていくと、私の場合
「○○するとBさんはXXだった」という風に主語であるAさんがいつの間にか消滅して、文章がちぐはぐになってしまうのだ。
試しにご自分の会話や文章を他人に見せてみるといい。主語と述語がセットになっていない場合が結構ある、かもしれない。誰が主語(主)なんですか?何を言いたいんですか?というようなチンプンカンプンな文章や会話になってしまっているのだ。脳の構造なのか、この現象は女性に多く見られるように思う。
海外では主語、述語、時制をきっちり使うのがコミュニケーションのやり方である。ところが、日本語は主語を使わない場合が多い。婉曲表現や尻すぼみの文章を多用し「空気を読む(読んでもらう)」というある種、霊能力のようなものを使って相手とコミュニケーションを取っているのだ。これはこれで他国には真似できない凄い力なのだが、自分の考えを筋道たてず、なんでもかんでも相手に汲み取ってもらおう、という癖がついてしまうので大変でもある。自己肯定感や自分のやりたいことが分からないという問題にまで発展することがあるからだ。
とまぁ、話がずいぶん脱線してしまったが。本を書くという経験は私の宝になった。
プロの作家なら「どれだけ多くのお客さまに喜んでもらえたか」だとか
「ちゃんと表現できたか」ということが重要かもしれないが、私はただ本を書きたかった。私という人間がどういう人生を送ってきたか、いかにちゃらんぽらんな人間であるか、を公言してみたくなったのである。
何を記そう?そう思った時、まっさきに頭に浮かんだのがParisでの留学経験だった。
私の玉響の人生の中、一番ドラマティックな経験をしたParis。
それしかない!と思った。
書籍のエピソードに登場する相手の名前や国籍、シチュエーションは少々脚色させてもらったが、私が身体ひとつで体験した偽りのない世界である。ただ、自分に最も近しい相手の話は本書で殆ど触れていない。容易く触れられなかった。私がもう少し大人の女になった折、ひりひりする程に芳しい作品として世に出すのかもしれないが。
執筆している間中、私は現在と過去を同時に生きている感覚の中に没入していた。魂が震えるような良き思い出のパリ、いま現在を力強く俯瞰して生きている現実の日本。この二カ所を行ったり来たりする遊びを長いこと続けていたように思う。
私の文章力が足りないため「フランスを持ち上げ、日本を虚仮にしている」という解釈を読者に植え付けてしまったかもしれないが、そうではない。どちらの国にも短所と長所がある。どちらが上、という話ではないのだ。日本人はもっと自由になっていいんだよ、ということを本を通して言いたかったのだが、一体何人の方に伝わっただろうか。
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Cirque du printepms
春のサーカス
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