夏の終わり
歳を重ねただけ、思い出の数は増える。
楽しい思い出もあれば、なかには、許しがたい思い出も。
先日読んでいた記事に、「許せない気持ちを持っている人は病気になる」とあった。真偽のほどはさておき、病は気から。確かに昔から言われている。
でも本当に許しがたい出来事に遭遇した時、どうしたら良いのだろう。病も覚悟の上で、憎むか耐えるかを続けるしかないのだろうか。
日曜日の昼下がり。ヨーコはベランダで、氷が溶け切り汗をかいたアイスコーヒー片手にぼんやりとそんなことを考えていた。テーブルの上に放り出されたケータイを持ち上げてみる。約束の時間はとうに過ぎているというのに、着信どころかメールの一通すらない。
いつものことだと気持ちを落ち着かせてみても、やはりあれやこれやと頭の中を嫌な想像が駆け巡る。
どこからともなく、「ンーニャー」と独特の鳴き声で、近所の野良猫がやって来た。白と黒のぶちが牛みたいで、勝手にミルクと名付けて可愛がっている。
「ミルクおいで」
ミルクはヨーコに懐いている。何の疑問もなくヨーコの膝の上に腰を落ち着けたミルクを抱きしめ、そのフワフワの毛に顔を埋めてみた。日向ぼっこをしていたのだろう。日光と土の入り混じった独特な匂いがする。
「君はいいね、何も悩みがなくて」
ミルクに向かってつぶやくと、「そんなことはないぞ」と言わんばかりに、ヨーコの方を振り返った。心なしか顔が怒っているように見える。
「そうかそうか、あなたにもちゃんと悩み事があるのね。失礼しました」
謝りながら頭をなでてやると、満足そうに目を細め、スヤスヤと眠ってしまった。
その幸せそうな顔を見ながら、あの人も今頃こうして誰かの膝に頭を乗っけて、幸せに浸っているのだろうかと、いつもの想像にたどり着いた。喉に魚の骨が刺さったような、イヤな感じがする。こうした気持ちに陥る時は、不思議とヨーコの勘は当たる。
テーブルに置きっぱなしのアイスコーヒーを飲み干すと、グラスから水滴が垂れたのか、ミルクが勢い良く顔を上げた。
「あ、ごめん」ミルクのおでこについた水滴を指で拭ってあげる。少しだけ毛がぺっとりとした。
ミルクは怒ったのか、それとも満足したのか、膝の上から軽やかに飛び降りると、そのまましっぽをぴーんと立てたまま歩いていった。
帰るべきところに戻る。
その自信に溢れたうしろ姿を見送りながら、ヨーコは決めた。そうだ、イヤなら自分で飛び降りればいい。ただそれだけのことだ。
ケータイを手に取り、短い一文だけのメールを書くと、読み返すことなく送信した。そしてすぐに宛先を電話帳から消した。
顔を上げると、キラキラと美しい西日がヨーコを照らしていた。大きく伸びをする。風はひんやりしてきて、ノースリーブのワンピースでは少し寒すぎる。
テーブルに残った水滴を綺麗に拭き取り、部屋に戻った。
ああ、ここは温かい。大丈夫。口に出して自分に言い聞かせ、ホットコーヒーを淹れ直した。