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Raining

その夜の雨ったらなかった。もし空が一つの大きな器だとしたら、それをひっくり返して中に入った水を全部ぶちまけたような、そんなひどい雨。

今日のためにと新調した真っ白のワンピースも、バーゲンで買ったブランド物のバッグも、わざわざ美容院に行って整えた髪の毛も。私を纏うすべてのものが一緒に泣いているのではないかと思うくらい、その濡れ方は凄まじかった。

ガックリと肩を落とし、全く止む気配のない豪雨の中を傘もささずにトボトボ歩く。明日になって、昨日の夜、恵比寿で幽霊見たんだと言う人がいたら、いやそれ幽霊じゃなくて私です、と教えてあげよう。

「会議が長引いて」「上司に引き止められて」「あと少しで着くから」「ごめん具合が悪くなった」

こんなありふれた言葉に振り回されている間、どうして店に入らず、コンビニで傘を買わず、ずっと外で待ち続けていたのだろう。ようやく夢から醒めた私は自分のバカさ加減に、くふふふと笑いをこらえきれずにいた。幸いどれだけ声を出しても雨がかき消してくれる。もう涙も出ない。

今日32歳になった。心のどこかで、今日こそはプロポーズされるかもしれない、そんな淡い期待があった。付き合って5年目の誕生日。でもきっと私たちは今日で終わった。いや今日じゃない。本当は、もうずっと前から終わっていたのだ。きっと今頃彼は、楽しく飲んでいる。

六本木まで歩いて入ったナイトクラブで、真っ先に化粧室へと向かった。鏡に映ったその姿は誰がどう見てもひどく、酔っぱらいだけの店内でも、明らかに浮いていた。バッグからハンカチを取り出し、濡れた髪の毛と洋服、バッグを拭く。いつかのホワイトデーにと彼からもらったものだ。大切に使い続けてきた。

今までありがとう。そう声をかけ、隣にあった傷だらけのゴミ箱にあげた。今日ここに来た人が手を拭いただけで、こんなにも積み上がるだろうかと不思議に思うほどそのゴミ箱は湿った紙で溢れ、今にも外に飛び出しそうになっている。その頂にまるで正義の旗を掲げるように、ハンカチを置いた。

昨日の私がその光景を見たら、必死に止めただろう。明日の私が見たら、よくやったと褒めてくれるに違いない。

別に踊りたかったわけじゃない。誰かに慰められたかったわけでもない。ただ、今日はこんなボロボロの自分を静かな場所に置いておく勇気がなかった。家に帰れば、母は期待の眼差しを向けて今晩の感想を聞いてくるだろう。とてもじゃないけれど、そんなものに耐えられる余裕はない。

なんとなく思い立って、学生以来初めて足を踏み入れたナイトクラブはやっぱり馴染めなくて、化粧室を出たらコロナを買って早いところ酔っ払ってしまおうと計画を立てた。

化粧室の外では、着飾った女の子たちが大声で笑ったり、足をソワソワさせたりしながら、列を作っていた。全員が私に冷たい視線を送っている気がする。気づかないフリをして真っ直ぐバーカウンターに向かった。

我先にと注文を待つ人たちに負けないよう声を張り上げ、計画通りコロナを買った。それから近くにあったソファに腰掛けた。隣では、学生っぽい男の子が必死にお姉さんを口説いている。心のなかで、「君じゃ無理かも」と毒づいていると、その奥にいる友人らしき男の子と目が合った。ニコっと微笑みかけてみる。彼はあからさまに顔をひきつらせ、何事もなかったようにそっと席を立ちどこかへ消えた。

そりゃそーだ。こんなボロボロの人に微笑まれたら、そんなの恐怖でしかない。

隣のお姉さんと男の子の攻防はまだ続いている。なんだかんだでお姉さんも、その状況を楽しんでいるように見える。年齢は私と同じくらいか、ちょっと上だろうか。明らかに若作りのためのボブスタイルに、胸を強調した赤のワンピースがアンバランスで、なぜだかこちらが虚しくなった。きっとさっきの男の子も私に同じ「必死さ」を感じ取ったに違いない。

フロアで踊る人たちを眺めていると、一人の女性に目が止まった。白いタンクトップに黒い皮のミニスカート。二本の枝のように細い足がピッタリ収まった黒のニーハイブーツ。真っ赤な髪の毛は短く切りそろえられ、耳にはピアスがジャラジャラと付いている。その印象的な風貌に、独特なリズムの取り方がよく合っていて、気付けば私は彼女から一瞬も目を離せなくなっていた。

まるで彼女にだけ専用の舞台が用意され、スポットライトが当てられているようだ。無数に人がいるこのフロアで、彼女だけが光り輝いて見えた。

10分ほど経った頃だろうか。じっと見続けていると、突然彼女が踊りをやめ、こちらに向かって歩いてきた。疲れて休みたいのかしら。私は緊張しながら、右に腰をずらしスペースを作った。

うつむきながら待っていると、視界に彼女のニーハイブーツが入った。来た。恐る恐る顔を上げる。さっきの彼女が目の前に突っ立って笑っていた。

思ったよりもずっと幼い印象だった。濃い化粧の下にあどけなさが残る。20歳くらいと見た。

「私のダンスどうだった?」

威圧的な雰囲気のせいか、見下ろされているからか、私は少し怖さを感じ、思わず声が裏返った。

「す、素敵でした」

「素敵? 何それ、ありきたりな言葉は好きじゃない」

彼女の返事に戸惑い、何も返せずにいると今度は、「おかわりは?」と聞いてきた。

「え?」私は何のことか分からず、素っ頓狂な声を出した。

「お・さ・け」顔に苛立ちを浮かべながら、彼女がコロナの瓶を指差している。「いるの? いらないの?」

「い、いります」彼女は明らかにうんと年下なのに、なぜかこちらが敬語を使っていた。

「あまり気に入らない表現だったけど、褒めてくれたことには代わりないから、奢ってあげるよ」彼女は意外にも気を良くしたのか、そう言うと私の手から空き瓶を奪い、スタスタとバーカウンターの方へ歩いて行った。

後ろ姿も絵になるな……。またも私は彼女を目で追っていた。

そのまま見つめていると、突然彼女が振り返ったので、慌てて目を逸らした。数秒たってからもう一度彼女の方を向く。相変わらずこちらを見て、口元に笑いを浮かべていた。

私は明らかに自分の心臓が高鳴っているのを感じた。少し冷静になろうと大きく深呼吸をすると、隣でさっきの男女がようやく交渉成立となったのか、キスを始めたことに気付いた。若い男の子らしく展開は早く、ワンピースの下に手を潜りこませようとしている。

女は、「ふふふ、もうやーだ。隣に人いるし、やめてよ」と笑いながら、チラチラと私に勝ち誇った目線を送っている。何があってもそちらは見ないんだからと、必死に反対側を向いていたら、突然、頬に冷たい感触があった。

「ぎゃっ」驚きのあまり声が出る。隣の若い男の子が、ギロッとこちらを睨んでいるのが分かった。

その間に割って入るように、彼女が座る。指元も髪の毛と同じ、真っ赤なネイルがしてあった。

「ありがとう」手渡されたコロナを受け取りお礼を言うと、私の言葉をさえぎるように彼女は、「悪くないのにね、今日の格好」と言った。

またも意表を突かれ返事に困っていると、彼女は立ち上がり、私の唇にキスをし、またフロアへと戻っていった。

あまりに想像していなかった展開に、私は完全に固まり、言葉を失った。そしてその後姿を見ながら、自分の唇に手を当て、今起こったことをゆっくり反芻した。思い返せば返すほど、体が火照っていくのを感じる。

今まで味わったことのない柔らかな唇と、優しい口づけ。彼女は相変わらず独特のリズムで体を動かしていて、でもさっきとはまるで違う人物に見えた。

私はフラフラと席を立ち、ナイトクラブを後にした。雨はすっかり上がり、人通りも増えている。見慣れたはずのその場所が、私の目には全く違う景色に映った。




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