一章 傷跡 七月
序章
マガジン:グッド・ドクター✕ブラック・ジャック【医者の資質】
夕暮れ時。定時に職場を出た湊は家路についていた。灰色のリュックを背負い、顎を引き、やや背中を丸めるようにして、まばらな雑踏の中をてくてく歩く。
「ちょっといいか」
人気のない場所に出たところで、声を掛けられる。振り向くと、黒いコートをマントのように羽織り、コートと同じ色のスーツの襟元にリボンタイをした男が立っていた。
濃い眉に鋭い眼光、顔の横半分を覆うほど長く、右のもみあげから半分が白髪になっている前髪。額から左の顎にかけて縫合痕があり、その境目から左側は褐色の肌をしている。右の耳の下から頰にかけても縫合痕があった。
男を前にして、湊はじっと立つ。
その様子に男はふ、と表情を緩めた。
「そう身構えなくてもいい。俺はただ、お前さんと話がしたいだけだ」
「……僕とですか?」
「ああ。お前さんはこの前、歩道で事故に遭った男の子の応急処置をしただろう? 俺もたまたまあの現場に居合わせていてね。お前さんの手技を見学させてもらった。……実に見事だったよ。過去の症例をもとにした処置もそうだが、緊張性気胸をすぐに見抜くというのは、お前さんの若さじゃそうそうできることじゃない。もしや研修医かと思って調べてみたら本当にそうだったから、驚いたよ。ニュースにもなっていたしな」
湊は笑顔を見せ、うなずく。
「はい。僕はあの時、小児外科の研修医として、初めて東郷記念病院に行く途中でした」
「なるほどね……」
「あなたもお医者さんですか?」
「ああ。俺はブラック・ジャック、外科医だ」
数秒の沈黙。やがて、湊が口を開いた。
「ブラックジャック。トランプを使うゲームのひとつで、ディーラーと一対一で勝負します。カジノではポーカーやバカラと並んで人気があります。別名をpontoon(ポントゥーン)や21(twenty-one)といい、イギリスにも同じ名前のゲームがありますが、ルールは全く別で、クレイジーエイトの変種のひとつ……」
「わ、わかった。もういい」
滔々とした知識の羅列に、ブラック・ジャックは慌てて言う。
「まあ、俺の名前はそれとは関係ないんだが……お前さんは? 何て名前なんだ?」
「新堂湊、二十六歳です」
「二十六だって? ……想像以上の若さだな。医学部を卒業してまだ二年目か」
それであの技術は大したものだ、とブラック・ジャックは舌を巻く。
「立ち話も何だ。この近くに美味い店があるから、呑みに行かないか。おごってやるぜ」
湊はうなずき、翻るコートを追いかける。
なじみの居酒屋へ連れていき、ブラック・ジャックは湊と共にカウンターに座った。目の前には網から昇る串焼きの煙が見えた。
「食べたいものがあったら言え」
そう言いながら、ブラック・ジャックはメニューの冊子を差し出す。受け取った冊子を広げると、湊はすぐに口を開いた。
「おにぎりください」
「え?」
「ふたつください」
「いきなりか? 焼き鳥とかからじゃないのか」
「はい。僕はおにぎりが大好きです。僕の一番好きな食べ物です」
「わかった――オヤジさん、おにぎりふたつ頼む」
少しして、焼きおにぎりが運ばれてくる。湊は湯気の立つそのうちのひとつを手に取ると、息を吹きかけ始めた。
「すぐに食べてもいいんじゃないか?」
ブラック・ジャックが言う。
「だめです。まだ適温じゃありません」
「おにぎりに適温があるのか?」
「はい。あります」
おにぎりを冷ます湊を見ながら、ブラック・ジャックは熱燗と串焼きを注文した。
「できました。適温です」
そう言うと、湊はおにぎりにかぶりつく。
「――とても美味しいです!」
満面の笑みを浮かべる湊を見遣り、ブラック・ジャックは尋ねる。
「お前さん、何でそんなにおにぎりが好きなんだ?」
「三角形なのが面白いです。山の頂上をかじってるみたいです」
ブラック・ジャックは小さく噴き出す。
「山の頂上か。そいつはまた斬新な発想だな。俺もオペをやり終えた後は、登頂不可能な山を征服したように、満足感と快感で軽い眩暈を感じるもんだが……」
「山登りではありません。手術は病気の人を治すために、患部を切除したりすることです」
「ものの例えだよ」
苦笑し、ブラック・ジャックは猪口の燗酒を飲み干した。
「お前さんはどうして医者になったんだ?」
ブラック・ジャックが尋ねる。
湊は一言、「お兄ちゃんです」と答えた。
「え?」
「お兄ちゃんは、大人になれませんでした。大人になれない子どもをなくしたいです。みんなみんな大人にしたいです」
ブラック・ジャックはうなずく。
「……なるほど」
「ブラック・ジャック先生は、どうしてお医者さんになったんですか?」
「俺か?」
「はい」
数秒の沈黙。やがて、ブラック・ジャックが語り出した。
「俺は子どもの頃、事故で体がバラバラになったことがあってね。俺の顔を見たらわかるだろうが、皮膚の色が一部違うだろう?」
そう言うと、褐色の肌を指差す。
「これは友達がくれた皮膚を移植したんだ。その子は混血――今で言うハーフで、肌の色が他の子よりも濃かったんだ。だからこういう顔になったのさ」
おもむろに、ブラック・ジャックは左袖をまくり上げた。途端、湊はその腕を食い入るように見つめる。
肩の付け根、二の腕、肘から下――そういった箇所を、顔にあるのと同じような縫合痕が、いくつも走っていた。
ブラック・ジャックは二の腕を指差す。
「ここのところは皮膚だけじゃなく、骨も別の人からもらった。左膝から上の皮膚もだ。他にも全身、あちこちにこんな傷跡がある。何しろ十八箇所もバラバラだったんでな。マトモなら当然死んでもおかしくなかったんだ。だが、助けられた。それが医者になったきっかけさ」
袖を元に戻す。湊は顔を上げ、眼を輝かせた。
「すごいです。先生を助けてくれた人は、とてもすごいお医者さんですね」
「ああ。俺が一番尊敬している人だよ。それ以来、俺はその先生に近付くために、腕を磨き続けてきたんだ」
「その先生は今、どうしてますか?」
「あ……もう、この世にはいないんだ。お前さんの兄さんと同じでな」
沈黙が流れる。やがて、湊が口を開いた。
「ブラック・ジャック先生は、今はその先生に近付けたと思いますか?」
「うーん、どうだろうなあ」
白黒の髪をくしゃりと掻く。
「私ァ自分の腕は世界でも指折りだと思っているが、世の中にはまだまだ知られていない奇病やら、治療法が見つかっていない難病やら、いろいろあるからな。ひとつ治療法を見つけても、また新しい病気が見つかることもあるから……まあ、昔よりはまだマシといったところかな」
ブラック・ジャックは酒を注ぎ、猪口を差し出す。
「こうやって会えたのも何かの縁だ。お近付きの印に一杯どうだ」
それから、あ、と思い出したように付け加える。
「病院では俺の名前は出さないでくれるか。こう言っちゃなんだが、俺は評判のいい医者じゃない。いやむしろ、俺のことを毛嫌いしている人間も少なくないんだ。だから名前を出されると、困ったことになるかもしれん」
「わかりました」
湊はうなずき、猪口を受け取る。ひとくち飲むと、僅かに顔をしかめた。
「とても苦いです!」
ブラック・ジャックは苦笑いを浮かべる。
「お前さん、下戸だったのかい。こいつは悪いことをしたな」