「アンブローシア・レシピ」第24話
1914年10月6日(2) ロンドン
二階の食堂へジョン・スミスを通すと、ミリセントは客人に紅茶を出した。
「ありがとうございます。いただきます」
名刺を出してふたりに再度挨拶をしたジョン・スミスは遠慮することなく紅茶を飲んだ。
「ジョン・スミスというのは本名ですか?」
ウェインは受け取った名刺を眺めながら尋ねた。
「初対面の人にはよく聞かれるんですけど、本名です。父もジョン・スミス、祖父もジョン・スミスなので、僕は家族や親しい友人からは三世って呼ばれているんですけどね」
「三世?」
ウェインとミリセントが同時に首をかしげる。
「はい。祖父が一世、父が二世です。僕は、いつか結婚して息子が生まれたらジョンって名前を付けるように祖父や父から言われています。僕自身は子供の頃は平凡すぎるジョン・スミスって名前が嫌いだったので、自分の子供にはチャールズとかクリストファーとかそういう名前を付けようって思っていたんですけど、記者になってからジョン・スミスって名前が意外と話のきっかけになるので、いまは結構気に入っています」
ひとりでよく喋る人だな、とミリセントは呆れた。
それはウェインも同じだったらしく、気怠そうに椅子に座りながら相づちを打つことなく黙って紅茶を飲んでいる。
「普段は文化面の記事を書いているという話でしたけど、僕の事件の記事をあなたが担当することになったのはなぜですか?」
ジョン・スミスの言葉が途切れたところでウェインが質問する。
「それは、僕が偶然グレイ先生が襲われるところを目撃したからです」
「目撃した!?」
またしてもウェインとミリセントが声を揃える。
「はい。実はあの日、僕はグレイ先生が襲われた現場のそばにある教会で開かれるバザーの取材に向かっていたんです。教会のそばでバスを降りて歩いている途中で事件に遭遇したので、そのまま運ばれていくグレイ先生を追いかけました。それで、社に戻って上司に事件を報告したら記事も書かせてもらえたんです。バザーの取材はすっぽかしてしまったので、バザーの主催者である婦人会の方からはお叱りの電話をいただきましたが」
ははっと悪びれた様子なくジョン・スミスが答える。
「たまたまあなたはあの場に居合わせたってことですか」
ウェインは喋ると腹に力が入って疲れるのか、小さな声で尋ねた。
ミリセントはウェインが襲われた現場の近くに教会があったことを思い出す。
確かに事件現場はそれなりに人通りのある場所だった。事件を目撃した人は何人もいたはずだから、その中に新聞記者がひとり紛れ込んでいたとしてもおかしくはない。事件を目撃したら、犯人か被害者のどちらかを追いかけて取材するのは職業病のようなものだろう。
「そうなんです」
「なんで兄を追いかけてきたんですか? 犯人を追いかけなかったんですか?」
ミリセントが質問すると、ジョン・スミスは恥ずかしげに指で頬を掻く。
「いやぁ、僕が目の前で起きた事件に驚いている間に、犯人はどこかに逃げてしまっていたんですよ。上司にも、犯人はどうしたんだって聞かれて、被害者が倒れているのを見ているうちにいなくなったって言ったら、そういうときは先に犯人を追いかけろって叱責されました」
警察官と新聞記者なら犯人を追うべきだろう、とミリセントは心の中で思った。
「僕としては、目撃者が十人はくだらないからすぐに犯人が捕まるだろうって思っていたのに、いくら警察に事件の捜査状況を確認しても犯人はまだ捕まっていないって答えしか返ってこないんです。これは真面目に捜査していないなって思って、もう一度グレイ先生のことを記事にしようって考えたんです。警察はグレイ先生の事件を放置するつもりなのかもしれませんが、もし通り魔の犯行だとして、このまま警察の怠慢を許していたら同じような被害に遭う人が二人、三人と増えるかもしれないじゃないですか。それは新聞記者として許せないんです」
どうやらジョン・スミスがウェインを取材するのは、単に自分が目撃した事件の続報を記事にしたいからではないらしい。
「もう一度記事にするって言っても、どういう記事にするんですか? 事件後、兄の怪我は順調に回復しているって記事にするんですか? 犯人が捕まっていないって書いても、多分読者の誰も興味を持たないと思いますよ?」
ミリセントの指摘に、ジョン・スミスはへらへらと笑った。
「えぇ。それはもちろんわかっています。なので、すこし事件を自分で調べてみようと思うんです」
「調べるって独自にってことですか」
ミリセントが尋ねると、ジョン・スミスは頷いた。
「はい。グレイ先生の事件について、警察は僕や他の目撃者にほとんど状況を聞いたりしていないんです。だから、僕が目撃者に取材して、事件の続報を記事にして、そして新聞記者は事件に関してこんな情報を持っているけれど、警察はこんなことも調べられていないし犯人も捕まえられていないって批判するような内容にする予定です」
「警察批判の記事に利用されるのは、ごめんですね」
ウェインが声を荒らげることなく告げると、ジョン・スミスは顔を引き締めた。
「グレイ先生の事件を警察が放置しているのは事実です。僕は犯人を見ました。グレイ先生は犯人に見覚えはなかったのでしょうし、襲われて死にそうな目に遭ったのでこれ以上思い出したくないのかもしれませんが、同じような事件が次々と起きるのを防ぐためには先生の事件を記事にして人々に警鐘を鳴らす必要があるんです。この事件はこれで終わりではない、警察が犯人を捕まえないなら、新たな被害者が出るかもしれない、と」
「そうやって新聞が大衆を煽って権力批判をするときは、ろくなことになりませんよ? 戦争だって、新聞が読者の愛国心に火を点けたりするものだから、若者が次々と軍に志願しているじゃないですか」
やんわりとした口調でウェインは言ったが、ジョン・スミスはあまり理解していない様子だった。
「戦争はともかくとして、先生の事件はロンドンで暮らす人々の日常に影響するものです。それに、先生を襲った犯人はあの場で他の誰でもなく先生を狙っていました。通り魔ならもっと襲いやすい女性や老人を狙ったでしょうに、あの犯人はまっすぐ先生に向かって行ってます」
「それは、あなたが犯人の行動を最初から最後まで見ていたということでしょうか?」
「見ていました」
ウェインの質問に対して、ジョン・スミスは大きく首を縦に振った。
「すぐそばで、二人組の男が話しているのを聞いたんです。ひとりはなにかを指示して、もうひとりはその指示通りに動いてあなたを襲いました。僕は、二人組の気配がなにかおかしいとは思いましたが、残念ながら犯人が先生を襲うまではなにがおかしいのかがわかりませんでした」
「二人組の男?」
ミリセントは目を丸くしながらジョン・スミスを見つめた。
「そうです。犯人は二人組です。実行犯はひとりですが、もうひとりは標的を指示しているように見えました。つまり、最初からグレイ先生が狙われていたんです」
「じゃあ、通り魔ではなかったということ?」
みるみるうちにミリセントの表情が険しくなる。
「ただの通り魔ではないことは確かです。指示を出していた男は『実験だ』と言っていました。なにが実験なのかはわかりませんが、グレイ先生の襲撃が実験ならば、次も同じようなことがあると考えられるでしょう?」
「実験?」
ウェインが言葉を噛みしめるようにゆっくりと繰り返す。
「妙な二人組だったんです。ひとりは紳士風で、もうひとりは労働者のような格好でした。もしかしたら変装をしていたのかもしれませんが、ちぐはぐなふたりだなと僕の目にとまったので、結果として事件を最初から最後まで目撃することになりました。でも、先生が指された後、実行犯の男が逃げたときにはもうひとりの男の姿もありませんでした」
「そうですか」
ジョン・スミスの説明に、ウェインはため息をつく。どうやら話が長くなったので疲れてきたようだ。
「教会のバザーの取材は昨日改めて行きましたが、司祭様もグレイ先生のことを心配されていました」
どうやらバザーの取材は昨日でも間に合うものだったらしい。
「教会には、僕自身がいずれお礼に伺うつもりです。まだしばらくはおとなしく療養するようにとの主治医の指示がありますから、ここから出られない状況ですがね」
椅子の背もたれに寄りかかりながらウェインは答えた。
「スミスさんは犯人の顔をしっかり見ていたってことですか」
ミリセントはテーブルの上に身を乗り出すようにして相手に尋ねる。
「しっかり見ていたというか、それなりに見ていたというか、もう一度犯人の顔を見る機会があれば『あいつだ』って言えるかもしれませんが、どんな顔だったかいますぐ説明しろって聞かれると記憶が曖昧なんです。大勢の人がいたので、記憶の中で顔が混ざってしまっているというか。そんなに特徴的な顔ではなかったからかもしれませんが」
「新聞記者の方って、顔と名前を一瞬で記憶できるものじゃないんですか?」
ミリセントが皮肉交じりに尋ねるが、ジョン・スミスには通じなかったらしい。
「いやぁ。そんな器用な真似ができる人は少ないですよ」
「紳士と、労働者――」
ウェインが考え込むように呟く。
「服装をぱっと見たときの印象ですけどね。どうしても人は服装で瞬間的に判断してしまうものじゃないですか?」
ジョン・スミスの説明に、ミリセントは大きく頷いた。
「ところで、スミスさんはご自身のご家族以外のジョン・スミスさんをご存じですか?」
唐突にミリセントが話題を変えると、今度はジョン・スミスが目を丸くした。
「いいえ。僕は祖父と父以外のジョン・スミスには会ったことがないんです。案外ジョン・スミスという人物は少ないのかもしれません」
「そうですか」
ミリセントは先日モーガン邸に現れた客人のことを考えていた。
あのときのジョン・スミスは、いま目の前にいるジョン・スミスよりも声の年齢は高いように聞こえた。もちろん、ジョン・スミスと名乗ったからといって、それが本名だとは限らない。
「この国に、どれくらいジョン・スミスさんがいるか、スミスさんはご存じですか?」
「いやぁ、さすがにそれは知らないですね。今度調べてみようかな。それでいずれは英国中のジョン・スミスで集まる催しをしてみるのも面白いかもしれません。うちは祖父と父が死んでしまったので、僕しかジョン・スミスはいませんが、案外父と息子がジョン・スミスって親子は他にもいるかもしれませんしね」
手帳にメモをしながらジョン・スミスは楽しそうに言った。
「スミスさん。あなたは文化面の記者を続けた方が良さそうですよ」
冷め始めた紅茶を飲みながら、ウェインは柔らかい口調で忠告した。
「え? そうですか?」
「こちらから話を聞き出すというよりは、スミスさん自身がたくさん喋っています」
「うわ……確かにそうだ……」
頭を抱えてジョン・スミスは呻いた。
「えーっと。グレイ先生は、僕の目撃した紳士と労働者の二人組の男になにか心当たりがありますか」
慌ててジョン・スミスは取材を再開した。
「ないですね」
即座にウェインは断言する。
「そ、そうですか」
他の質問は用意していなかったのか、そこでジョン・スミスの取材は終わった。
プリースト診療所を出たジョン・スミスが腕時計で時刻を確認すると、まだ午前11時だった。
朝から曇り空のせいか、周囲が薄暗く見える。
歩きながら手帳に追加でメモをしたり、線を引いて文字を消したりと取材内容を整理しつつ、彼はいったん新聞社に戻ることにした。今日は特に予定している取材先はないので、記事となる素材がないか適当にあちらこちらをぶらつきながら歩くことにする。
つらつらと記事をどのようにまとめようかと考えながら歩いていたジョン・スミスは、気づくとテムズ川の河岸まで辿り着いていた。すぐそばにはロンドン橋が見える。
河岸では数名の制服を着た警察官が集まっている。どうやらテムズ川に浮かんでいた死体を引き上げたようだ。
この川に死体が浮かんでいることは珍しいことではない。
「またか」
ジョン・スミスは警察の仕事を遠目で見ながら思わず声に出して呟いた。
死体らしきものにはすでに布がかけられている。靴先だけがかろうじて布からはみ出していたが、片方だけ履いている靴は遠目には男物のように見えた。
「どうせ、引き上げられた後は氏名不詳者として埋葬されるんだろうな」
警察は身元がわかる所持品を死体が持っていなければ、氏名不詳者としてジョン・スミスまたはジェーン・ドゥという名を付ける。
生きている間は違う名前を持っていたはずなのに、死ぬとジョン・スミスという名に変えられてしまった者を彼は何人も知っている。自分と同じジョン・スミスという名が墓石に刻まれるが、彼らにとってそれは愛着のある名前ではない。
「やはり、現在の警察がどれほど仕事を怠っているかを世間に知らしめなければならないな。これ以上、ジョン・スミスを増やさないためにも」
新たな決意を言葉にしたジョン・スミスがロンドン橋へ向かおうとしたときだった。
「ジョン・スミスさん」
背後から、男の声が彼を呼んだ。
「はい?」
立ち止まり、ジョン・スミスは振り返る。
そこには、痩せたひとりの男が黒っぽい外套を羽織って立っていた。
「あなた、先日ウェイン・グレイ襲撃事件の記事を新聞に書き、それだけでは飽き足らずさらに事件を調査している新聞記者ですね」
帽子をかぶり丸眼鏡をかけた男が、ジョン・スミスに話しかける。
「あんた――」
見覚えのある顔だ、とジョン・スミスは心の中で叫んだ。
「とても迷惑なんで、止めてもらえます?」
淡々とした口調で告げた男はジョン・スミスの目の前に立つと、そのまま彼を通りの路地に押し込むと壁際まで追い詰める。そして男は右手に持ったナイフを躊躇なく彼の心臓に突き立てた。
「実験の邪魔をされると、困るんですよ。もうまもなく霊薬が完成するというのに」
男はジョン・スミスの胸からナイフを抜くと、一歩下がった。
「あんた、が、グレイ先生、を、おそわ、せた……の、か」
ジョン・スミスは必死に声を絞り出す。全身から力が抜け、壁に背中を預けていなければ地面に崩れ落ちていたところだ。
「あれは、ようやく成功した事例なんです。霊薬は誰にでも効く薬ではないんです。だから、できるだけたくさんの臨床試験をして、薬の効果が上がるように改良しなければならないんです。ようやく本物の処方箋も手に入れたんですから」
ジョン・スミスが荒い呼吸を繰り返すたび、ひゅーひゅーと妙な音が喉の奥から響く。相手の話は、すでに彼の耳には届いていなかった。
「いつまでも彼女を待たせるわけにはいきません。早く彼女に霊薬を飲んでもらって元気を取り戻してもらわなければならないんです」
壁に背中を預けた格好でジョン・スミスはずるずると地面に座り込む。傷口からは鮮血があふれ出ている。
男はジョン・スミスの瞳から徐々に光が失われていくところを確認しながら告げた。
「仕事を抜け出してきたところなので、これで失礼しますよ。では、さようなら」
男は軽く帽子を持ち上げて礼儀正しく挨拶をすると、路地を出てジョン・スミスの胸を貫いたナイフをテムズ川に思いっきり放り投げた。