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「アンブローシア・レシピ」第26話

1914年10月6日(4) ロンドン

 診療所の午前の診療時間が終わるのに合わせて昼食を用意していたミリセントは、二階の食堂に姿を見せたのがバートランドとエムズワースだけだったので首を傾げた。
「キャスパーさんは?」
 昨日はキャスパーが昼食用のサンドイッチを持参していたので、ミリセントは紅茶だけ彼の分も用意したところ喜んでくれた。それで、今日も休憩時間は食堂に現れるだろうと思っていたのだ。
「しばらく前に出かけたまま戻って来ていない」
 椅子に座るなり煙草に火を点けたバートランドが、灰皿を手元に引き寄せながら答える。
「そうなんですよ。いくら患者さんがいないからって、勝手に出かけられるのは困るんですよね。まったく、いくら患者さんがひとりもこないからってねぇ」
 エムズワースが自分の肩を揉みながらぼやく。
「患者がこないのは俺のせいみたいな言い方だな? 誰も怪我した奴がいないってことなんだから、そこまで患者がいないことを強調しなくてもいいだろ」
 バートランドが煙を吐きながら悪態を吐く。
 エムズワースはそんな彼の反応に慣れているらしく、平然と話を続ける。
「キャスパーさんも、いくら暇だからって仕事を抜け出すのはよくないと思うんですよねぇ」
 外科の患者が来ないことについて、ミリセントは口を挟むのはやめておいた。ウェインの治療費は請求されていないので、現在のところ一ペニーも払っていない。
 エムズワースも治療費についてなにも言わない。
「俺はちゃんと診察室で座ってたぞ」
「昼寝してましたよね?」
 エムズワースが指摘すると、バートランドは目をそらして煙草を吸う。
「はいはい。今日の昼食はライスプディング山盛りですっ」
 ミリセントは皿に盛ったライスプディングをバートランドの前に出す。エムズワースはすでに持参したパンにかぶりついている。
「自信作よ」
「いやー、美味そうだな」
「それはもちろん美味しいに決まって……」
 返事をしている途中で、ミリセントはバートランドが自分の料理を褒めたことなどこれまで一度もなかったことを思い出した。
 そして、褒めた声がバートランドよりも老けていることに気づくと、ぱっと振り返る。
「先生!」
 声がした方に視線を向けると、旅行鞄を手に外套を羽織ったままのダニエル・プリーストが立っていた。初老のプリーストは中肉中背の体型で、どこにでもいるような容貌の男だ。人の良さが顔ににじみ出ているが、眼鏡の奥の目の鋭さだけは彼がただのお人好しではないことを語っている。
「おかえりなさい!」
 ミリセントは声を弾ませる。
 直接会うのはほぼ2年ぶりだ。
「ただいま。嬢ちゃんは元気そうだな」
 にこにこと笑みを浮かべてプリーストが答える。
「元気ですよ。怪我をしたのはわたしではなくウェインですから。でも、ウェインもかなり回復してきました」
「そうかそうか。嬢ちゃんが元気なら安心だ。兄さんの傷はそのうち治るさ。あいつはとにかく丈夫だからな」
 特にウェインを心配する様子を見せずにプリーストは告げる。彼は鞄を部屋の隅に置くと、帽子と外套を脱いでエムズワースの隣の空いている椅子に座った。今日は白髪交じりの灰色の髪を後ろになでつけているが、ミリセントが知るプリーストの頭は櫛でとかさずぼさぼさのままであることがほとんどだ。
「儂にも昼食をもらえるかな?」
「はい、もちろん! たくさん作ってありますよ」
 機嫌よくミリセントが答える。
「……あたし、前々から思っていたんですけど、所長ってミリセントさんの父親代わりを自称してますけど、お父さんって言うよりはお祖父さん代わりですよね」
「ウェインが、兄というよりもほぼ父親代わりだからな」
 エムズワースとバートランドがぼそぼそと顔を見合わせながら会話をする。
 グレイ兄妹とプリーストのような長く付き合いがあるわけではないふたりには、プリーストは孫に甘い祖父にしか見えなかった。
「そういえば先生。昨日わたし、先生が泊まってるホテルに電話したら、先生は日曜日に出て行ったってフロントで言われたんですよ。でも、昨日は夜になっても先生は帰ってこないし、どこに行ったんだろうってウェインと心配していたところだったんですよ?」
「嬢ちゃんは心配してくれていたのか。相変わらず優しいな。嬢ちゃんの兄さんはどうせ、儂が戻らなかったら書斎の物を全部片付けて捨ててやろうくらいのことを考えていたんだろう?」
「当たりです! さすが先生!」
「嬢ちゃんの兄さんが考えそうなことだ。実は儂は、モーガンの見舞いに行くために学会に出るのをやめてロンドンに帰ってきたんだ。一昨日の夜、なんとか病院に行って見舞うことはできたんだが、結局そのまま看取ることになってしまったんだよ」
「そうだったんですか……」
 プリーストのために紅茶を淹れながらミリセントは肩を落とす。
「昨日と今日は夫人が葬儀をケンブリッジで執り行うというので、棺をケンブリッジまで送る手配の手伝いをしていたらようやくいま帰ってこれたところなんだよ。連絡できておらず心配をかけて悪かったね。モーガンの葬儀は明後日だから儂は出席するつもりだが、嬢ちゃんも一緒に行くかね?」
「はい。ご一緒します」
 ミリセントは紅茶のカップをプリーストの前に出しながら頷いた。元雇用主の死は悲しいことではあるが、涙は出なかった。知人がひとり死んだからといってくよくよしている暇はない。兄のウェインに死なれること以外は、ミリセントにとっては些末なことだった。
「じゃあ、そうしよう。さて、湿っぽい話はここまでとして、嬢ちゃんの兄さんが暴漢に襲われた話を聞きたいな」
「……なんでそんなに楽しそうな顔をしているんですか、所長?」
 エムズワースは野次馬のように事件の話を聞きたがるプリーストを睨む。
「いつも飄々としている兄さんが刺されてどんな顔をしていたのか気になるじゃないか。嬢ちゃんから電話で話を聞いたときは、エジンバラに出発するのをぎりぎり日曜日にしておけば良かったと悔やんだものだよ」
 プリーストの態度からは、ウェインを心配しているのかしていないのかよくわからなかった。
「あ、ウェインとオニールさんにも先生が帰ってきたことを知らせてきますね。あと、ふたりにお昼を届けてきます」
 ミリセントはライスプディングを皿に盛るとプリーストの前に置きながら告げる。プリーストがウェインを心配していないことは、いつものことだからと気にしていなかった。
「これだけ騒いでいれば、ふたりの耳にも届いていると思うけどな」
 ライスプディングをスプーンですくいながらバートランドが呟く。味についてはなにも言わないが、空腹だったのか勢いよく食べている。
「先生。すぐ戻るので、待っていてくださいね」
 盆に二人分の食事を載せると、ミリセントは急いで食堂から出て行く。
 プリーストはひらひらと手を振り、そしてスプーンを手に取ってライスプディングを口に運んだ。
「所長がまともに食堂で食事をしている姿を見るのは何年ぶりでしょうねぇ」
 エムズワースは珍獣でも見るような目つきで上司を睨む。いつもは書斎に籠もって食事もろくに摂らないのだから、食堂で紅茶を飲んでいるだけでも見慣れない光景だった。
「ミリセントさんの前では、一応常識人の顔をするんですね」
「非常識な大人は嬢ちゃんの情操教育に悪いとうるさい奴がいるんでな」
 勢いよくライスプディングを食べながらプリーストは答える。
「グレイ先生って、本当にお兄さんというよりはお父さんですねぇ。年が離れた兄と妹だとあんな風になるものなんでしょうかねぇ」
 しみじみとエムズワースが呟く。
 バートランドも黙って同意を示した。

「ウェイン! 先生が帰ってきたわよ!」
 ミリセントは兄の部屋の扉をノックせずにいきなり開くと、脇机の上に食事を置きながら報告した。
「うん。ここまで声が聞こえてきていた。どうやら屋根裏部屋をミリィの部屋にするという計画は延期になりそうだね」
「うん、そうね。でも、別にいいわよ」
「しかし、隣の部屋は狭いだろ。屋根裏の方が天井は低いけれど広いから落ち着いて眠れると思うんだ」
「わたし、新しい住み込みの仕事を見つけたら出て行くつもりよ?」
「別に無理してよそでの住み込みの仕事を探す必要はないよ。それにどうやらオニールさんは僕よりも重症のようだから、彼女が家政婦として復帰するのは難しそうだ」
「それはそうなんだけど……ま、先にこの食事をオニールさんに届けてくるわ。オニールさんにも先生が帰ってきたことを教えなきゃ」
「充分聞こえていると思うけどね」
 ミリセントの高い声は食堂にいてもウェインの部屋まではっきりと聞こえている。部屋の壁が薄いので、廊下を歩く足音も響くくらいだ。
「それでもちゃんと言葉で伝えなきゃ」
 ミリセントが盆を持ち上げようとしたとき、オニールの部屋の方から呻き声のようなものが聞こえてきた。
「あら? オニールさん?」
 プリーストが帰ってきたことを知ってベッドから起き上がろうとして失敗したのだろうか、とミリセントはのんきに思ったが、ウェインは表情を曇らせた。
「様子がおかしい。呻き声が尋常じゃない。あれは、腰が痛いときの悲鳴じゃないよ」
 ウェインがベッドから出ようとしたので、ミリセントは慌てて制止する。
「わたしが見てくるわ!」
 盆を置くと、ミリセントはすぐに駆け出す。
「オニールさん、大丈夫で……」
 扉をノックして返事を待たずに開けたミリセントは、途中で言葉を詰まらせた。
 ベッドから落ちかけているオニールが、首や胸をかきむしるようにしながらもがいていたのだ。
「先生! バートランド! エムズワースさん! オニールさんの様子が変です!」
 廊下に顔を出すと、ミリセントは大声で叫んだ。
 すぐに部屋の中に視線を戻すが、顔を苦しげに歪めたオニールの肌は土気色になっている。
 なにが起きているのか判断がつかず、体調不良で倒れた人を無闇に揺さぶってはいけないと教えられていたミリセントはひたすらオニールに呼びかける。
「ミリィ? オニールさんがどうしたんだい?」
 ウェインが壁を伝いながらゆっくりとした動作で部屋から出てくる。
 食堂にいたプリーストたちも慌てて駆けつけた。
「オニールさんが……オニールさんが……」
 ミリセントは顔をゆがめて泣きそうになりながら繰り返した。
 痙攣しながら床に倒れ落ちたオニールは泡を吹いている。
「オニールさん!? どうしたのかね!?」
 すぐにプリーストとバートランドが駆け寄ってオニールの診察を始める。
「な、なんか呻き声がしたから、また起き上がろうとして腰が痛くなったのかと思ったら、ウェインが違うって言って、それで……」
 ミリセントが震えながら説明すると、エムズワースが急いで一階の診療所まで診察用の器具を取りに向かい、バートランドはミリセントを廊下に押し出した。
「な、なんで……オニールさんが……」
 がたがたと震えるミリセントをウェインが頭を撫でてなだめる。
「大丈夫だ。所長が診るからすぐに良くなる」
 プリーストは普段の不真面目さが嘘のように、てきぱきとオニールを診察していく。
 オニールの吐瀉物を確認し瞼をこじ開けて瞳孔の状態を調べると、プリーストは表情を曇らせた。
「こりゃあ薬物中毒だな。オニールさん、あんたなにを飲んだんだい? あんたは心臓の病気があるから、勝手に他の薬を飲んではいけないとあれほど忠告しておいただろうが」
 オニールは返事ができる状態ではないため、プリーストの問いかけはただのぼやきになった。
 プリーストは手早くオニールの身体の向きを変え、バートランドに手伝ってもらいながらオニールの気道を確保しつつ飲んだものをすべて吐かせようとする。
「誰だね、オニールさんに妙な薬を渡したのは?」
「俺じゃないですよ。腰の痛み用に湿布は渡しましたけど、あとは安静に寝ているようにって言っただけです」
 バートランドが焦った様子で答える。外科が専門とはいえ、内科が忙しいときは内科の手伝いもするため、手際は悪くない。
「オニールさんに薬を渡したのは、キャスパーだろうね」
 ウェインの言葉に、ミリセントは兄を見上げる。
「え?」
「今朝、キャスパーとオニールさんが話している声が僕の部屋まで聞こえたんだ。ただ、そこまで大声で話していたわけではないから、なにを喋っているのか詳しくは聞こえなかったんだが、バートランドが薬を渡していないとなるとキャスパーしかいないだろう」
「キャスパーさんが薬を間違えて渡してしまったってこと?」
「間違えたわけじゃない。多分……わざと、おかしな薬を渡したんじゃないかな」
 ウェインは曖昧に告げた。
「わざと? でも、なんで?」
「そこはわからないが……」
 困惑した様子でウェインは首をひねる。
 ひとまず手伝えることがなくなったバートランドが、廊下に出てきた。
 あとでオニールの治療が終わったら、ベッドに運ぶ手伝いをするつもりらしい。
「オニールさんの様子を見ると、飲んだのは劇薬だぞ」
 傷の治療であればいくらでもできるバートランドだが、薬物中毒となると吐かせるくらいしか思いつかないようだ。
 プリーストは「胃の洗浄をしよう」と言って、一階から戻ってきたエムズワースにオニールの胃の内容物を吐かせる手伝いをさせている。
「オニールさん……助かる?」
「所長が手を尽くしているんだから、なんとかなるだろう。一応は医者を名乗っているんだからね」
「おまえさん、都合の良いときだけ儂を過大評価するんじゃない。あと、それだけべらべらと喋っている元気があるなら、手伝え。傷はほとんど治っているんだろう?」
「今朝バートランドに抜糸してもらったばかりだし、立っているのがやっとだから無理ですよ」
 汗をかきながら治療をするプリーストに対して、ウェインが即座に拒否する。
「なんか……旦那様のときもこんな感じだったわ」
 オニールの様子を廊下から覗きながらミリセントは呟く。
「え? モーガン教授と似た症状ってことかい?」
 ウェインが眉をひそめて尋ねる。
「えぇ、そう」
「どういうことだ?」
 バートランドが聞き返す。
「よくわかんないけど……こんな風に倒れていたの」
 プリーストの処置をぼんやりと見つめながら、ミリセントは床に転がっている薬瓶に視線を向けた。
「モーガン教授が飲んだ薬と、キャスパーがオニールさんに渡した薬が同じってことはありえるんだろうか? それとも、偶然の一致?」
 考え込んだウェインがぶつぶつと呟く。
「キャスパーが、モーガン教授と繋がりがある? 所長ではなく?」
「儂は、モーガンとはここ半年くらいは会っていないぞ」
 オニールから視線を外さずにプリーストが告げる。
「モーガンは、ちょくちょくロンドンこっちに来ていたようだがな。どういう用事かは知らん」
「……なるほど」
 気だるそうに壁に寄りかかった格好で、ウェインはじっとオニールの様子を眺める。
「キャスパーさんがケンブリッジに来たことはないと思うけど」
 ミリセントは兄の隣に立ったまま告げる。
「教授の家ではなく、大学の方に顔を出していればミリィがキャスパーに会うことはないよ。キャスパーはミリィがモーガン教授の家で働いていることを知っているから、なにか後ろめたいことがあるならミリィに気づかれないためにも大学の方に行って会うだろうね」
「キャスパーの出身大学は?」
「ポーツマスの学校を卒業したような話を聞いたことがありますよ」
 エムズワースが床を雑巾で拭きながら答える。
 プリーストはオニールの脈を確認しながら「うん、まぁ、生きてる」と呟く。
 それを聞いたミリセントは、雑巾を洗うためのバケツの準備に向かった。


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