「アンブローシア・レシピ」第16話
1914年10月5日(1) ロンドン
ロンドンの下町の月曜日は、朝からやたらと騒々しい。
ミリセントは仕事柄、日の出前から起きることに慣れていたが、ケンブリッジの住宅街で二年間働いていたせいか、ロンドンとケンブリッジでは朝の光景がまったく違うことを忘れていた。
昨日は日曜日だったので比較的診療所周辺は静かだったが、月曜日の今日は通りを走る自動車、馬車の音、物売りのかけ声、仕事や学校へ向かう人々の声が途切れることなく響き渡っている。
昨夜は、オニールが寝ているばかりでは退屈だと不満を漏らしたため、ミリセントとバートランドがオニールの部屋で深夜までポーカーをすることになった。最初はウェインも誘おうとしたが、バートランドに叱られたのでやめた。結局、ポーカーはミリセントの大勝ちで、掛け金は少額だったが積もり積もって最後はオニールとバートランドからそれぞれ一ポンドずつせしめた。
深夜2時を回ったところでお開きとなり、ミリセントは眠っていたウェインに二ポンド手に入れたことを報告してから自分の部屋に戻った。
そして3時間後、ミリセントは気持ちのよい朝を迎えた。
台所で朝食を作っていると、寝間着姿のまま不機嫌そうにバートランドが食堂へ入ってきたが、ミリセントは元気よく挨拶をして彼の分のベーコンをフライパンに乗せる。
「ミリセント。お前、ポーカー強すぎだろ」
「ふふん。子供の頃、先生が勝ち方を丁寧に教えてくれたのよ。ウェインにも負けたことがないんだからね」
「所長、子供のお前にろくなことを教えてないんだな」
「先生はわたしの人生の師匠よ?」
鍋のポリッジをかき混ぜながらミリセントは答える。
「本当に所長はろくな大人じゃないな!」
「ウェインもあなたと似たようなことをよく言ってるわ」
「ま、当然だろう。お前が賭け事にのめり込んで真面目に働かなくなったら、所長のせいだな」
「そもそも人生なんて賭け事みたいなものだ、って先生はいつも言ってたわ」
「所長の迷言を真に受けるな」
「はい、ベーコンが焼けたわよ。どうぞ召し上がれ」
ミリセントは焼きたてのベーコンを皿に載せると、パンとバターを一緒に並べてバートランドの前に出した。ポリッジもスープ皿に注いで出す。
「そういえばウェインが、内科休診の張り紙をエムズワースさんに頼んでおいて欲しいって言っていたわ。昨日先生に電話したら、今週いっぱい内科をお休みしていいって」
「今週いっぱいってことは、所長は今週中はロンドンに帰ってくる気がないってことだな?」
パンをちぎりながらバートランドは目を吊り上げた。
「一応、傷が回復していないウェインが無理して仕事復帰することがないよう、早く帰ってきてくださいと先生に釘を刺しておいたけど」
「所長は、流浪の民みたいな人だからな。とにかく自由すぎる」
煙草にマッチで火をつけながらバートランドはぼやいた。
「ところで、ウェインの傷ってどれくらいで治るの?」
オニールの分のベーコンを焼きながらミリセントは尋ねる。
「後でまた診察して具合をみるが、昨日見た限りでは傷は順調に塞がってきているから、明日か明後日には抜糸できそうだ。運び込まれてきたときは出血が酷かったし、かなり深くまで刺されているように見えたが、臓器は傷ついていないようだし、かなり運が良かったように見える。傷が化膿している様子はいまのところないから、全治一カ月ってところだな」
「一カ月って、そんなにかかるの?」
「あの傷で全治一カ月ってのは、かなり治りが早い方だぞ? ただ、無理に身体を動かすと傷口が開く可能性もあるから、仕事復帰は早くて再来週だな。もし所長がしばらく帰ってこなかったら、再来週までは内科は休みだな」
「それだと、内科を受診したい患者さんが困るんじゃないかしら? あ、バートランドが外科と一緒に内科も診れば良いんじゃないの? どうせ外科は暇なんでしょう? それに、外科が専門って言っても、内科の勉強だって大学でしているでしょう?」
「は? お前は自分が包丁で誤って指を切ったとき、所長やウェインに傷口を縫ってもらう覚悟があるのか?」
「え? うーん……ウェインって、わたし以上に裁縫が苦手なの。眼鏡をかけているのに、手元はよく見えてないんじゃないかって疑いたくなるくらい、雑巾を縫うときの縫い目がとっても雑なの。包帯を巻くのも苦手って言っていたから、よく医学部を卒業できたなっていまでも思うくらいよ。先生も、傷口は軟膏を塗って包帯を巻いておけば治るって思ってる人だし、ふたりとも外科向きじゃないのよね」
「お前が高熱のときに俺が医学書片手に診察しても良いって言うなら、内科もやってやろうじゃないか」
ミリセントは慌てて勢いよく首を横に振る。
「よし。じゃ、内科は再開時期未定ってことでエムズワースさんに張り紙を作ってもらおう」
最初からバートランドは自分の専門外の内科を受け持つ気はなかったらしい。
「内科が休診ってなったら、診療所は暇だろうけどな」
「そうなの?」
「この辺りに住んでいる連中は、軽い怪我ていどでは医者にかかったりしないからな」
「それもそうね」
下町の診療所とはいえ、病院の診察費は無料ではないのだ。軽い風邪ならば市販の薬も飲まず、寝ていれば治ると考える者も多い。栄養ある食事をして十分な睡眠を取って体力を回復すれば治ることもあるが、放置しているうちに病状が悪化して肺炎になる場合もある。
ミリセントはウェインとロンドンで暮らすようになってからは、常に医師のプリーストがそばにいたので咳が出ただけでも診察してもらっていたが、労働者階級では市販の薬を買うだけでもかなりの出費だ。
まして怪我の場合は、出血が酷かったり骨が折れていたりしない限りは、病院にかかることはほとんどしない。
「ウェインくらいの怪我じゃないと、病院には来ないものかしら」
「あんな瀕死の怪我人ばっかり一日何人も来られても困るけどな。傷口を縫うだけでもかなり集中力が必要だし、途中で失血死しないかひやひやしたし、とにかく最後まで物凄く神経が磨り減ったんだぞ?」
「あ、そういえばウェインの治療費はまだ払ってないけれど、実費だけにしてくれる?」
「昨夜のポーカーの負けを全部返してくれるなら実費だけにしてもいい。どうせしばらく所長は帰ってこないだろうし、治療費はエムズワースさんが適当に処理してるだろ」
「ポーカーと治療費は別」
「昨夜大負けしたから、次の給料日までの煙草代がないんだ」
プリースト診療所の給料日は毎月1日だ。
まかない付きで下宿しているバートランドは財布が空でも食事の心配は必要ないが、煙草は手に入れられない。
「禁煙すればいいじゃないの」
「無理だ」
バートランドは即座に断言した。
「あとで煙草を買いに行くから、一ポンド返してくれ」
バートランドは空いている左手を出す。
「返すんじゃなくて、貸し、ね」
ミリセントはエプロンのポケットから財布を取り出しながら告げた。
午前8時から受付が開始されるプリースト診療所の前には、『当分の間内科休診 再開時期未定』と手書きの張り紙が貼られている。
それをしばらく眺めては肩を落として去って行く人々を、通りの向かい側からレスターは観察していた。
午前7時半頃に、三十歳くらいの男が中から出てきて、10分ほどで戻ってくると入ったまま出てこなくなった。多分、診療所の職員だろう。
午前7時45分頃に四十代くらいのくすんだ灰色の外套を纏った婦人が中に入り、五分ほどで張り紙を片手に出てくると、扉に張り紙を貼ってまた中に入っていった。彼女もこの診療所の職員のようだ。看護婦だろうと思われる。
しばらくプリースト診療所の前で見張っていたレスターは、自分が襲ったウェイン・グレイがここにいるとは限らないことに気づいた。
新聞には『プリースト診療所の医師ウェイン・グレイ』と書いてあったが、彼がどこの病院で治療を受けたのか、入院しているのか退院したのか、それとも死んだのかといった詳細は書かれていなかった。記事の内容は、襲われたという事実のみだった。
(よく考えたら、このままここで見張っていてもウェイン・グレイに会えるわけじゃないよな。あれだけ深く刺したんだから、死んでなかったとしたらどこかの病院に入院してるよな)
深く考えずにマイター街まで来てしまったが、レスターが負わせた傷は二日や三日で仕事に復帰できるようなものではない。
(どうする? 誰かから入院先を聞いてみるか? でも、もし兄貴と同姓同名の別人だったら、わざわざ入院先の病院を訪ねてどうするんだ? 新聞で事件を知って、兄貴かと思って見舞いに来たなんて言えるわけがないし、万が一でもウェイン・グレイが刺した俺の顔を見ていたら警察に通報されるかもしれない)
被害者に顔は見られていないはずだが、それはあくまでもレスターの希望的観測でしかない。
(それに、もしウェイン・グレイが本当に兄貴だったとしたら、俺が刺したって気づいた途端に俺を殴り殺そうとするかもしれない。親父に似て兄貴はすぐ手が出る乱暴者だったからな)
どうするべきかと自分の行動を決めかねていたレスターは、プリースト診療所の前にやってきて扉を開けようとするひとりの男の姿に息をのんだ。
「あいつ――なんでこんなところにいるんだ?」
思わず声が漏れる。
それは、一昨日レスターに声をかけてきて、ある人物を刺して欲しいと依頼してきた男だった。
似たような背格好の男かもしれないと目を凝らしてみたが、見間違いではなかった。濃い灰色の外套に同色の帽子も先日と同じだ。
今日は外科のみの診察だが、レスターが見た限りでは男は怪我をしている風ではない。診察の受付が開始される前に勝手知ったる様子で扉を開けて中に入っていくところからすると、診療所の職員のようだ。
「まさか、自分の職場の医師を刺すように俺に頼んできたのか?」
他に考えられることはなく、レスターは喉を鳴らして笑いそうになった。
(面白い――。ウェイン・グレイがどこにいるかはわからないが、会えなくても問題なさそうな気がしてきたぞ。あの男に声をかければ、追加で小遣いが手に入りそうだ)
朝の寒さに身を縮めるように背中を丸めて診療所の中に消えていった男の容貌を、レスターは瞼に焼き付ける。
あの様子だと、男はこの診療所には通いで来ているようだ。となれば、診療所の診察が終わった午後6時過ぎか、昼食時か、どちらにしてもここであの男が出てくるのを待つしかない。
(ウェイン・グレイの件で強請れば、追加で五ポンドくらい手に入るかもしれない)
もし今日は持ち合わせがないと言うのであれば、自宅まで追いかけて行くだけだ。
あの男は警察に助けを求めることはしないだろう。いくら彼がレスターに殺人を依頼した証拠がないとはいえ、レスターが自分の罪を告白すると同時に依頼人を告発しないとも限らないからだ。実際、レスターはもし自分が逮捕されることがあれば、自分が依頼されて人を刺しただけであることをしっかりと主張するつもりでいた。見ず知らずのウェイン・グレイを刺したのは頼まれたからであり、特にウェイン・グレイに対して恨みもなにも感じていないことを強調しなければならない。その場合、ウェイン・グレイは赤の他人である方が都合が良い。もしウェイン・グレイがレスターの実兄であれば、医師になって衣食住に困らない生活を送っている兄を羨んだ弟の妬みが高じた結果の衝動的犯行、と警察が決めつける恐れもある。
(とりあえず、今日はいくらでも時間があるんだから、ここで待つことにするか)
レスターは狭い路地に身を隠すと、さきほどの男が診療所から出てくるまで潜んでいることにした。