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「アンブローシア・レシピ」第5話

1914年10月3日(1) ロンドン

(あぁ、もう、納得できないことだらけだわ!)
 深くかぶった帽子で癖のある赤毛を隠し、着古した黒茶色の外套を身に纏い旅行鞄を両手に提げたミリセントは、険しい表情を浮かべたまま正午過ぎにキングスクロス駅に到着した列車から降りた。
(なんでわたしがいきなり解雇されるの? しかも、紹介状も書いてもらえないなんて理不尽だわ!)
 様々な階級の人々で溢れる騒々しいプラットホームを足早に歩き、人波を掻き分けながら改札口へと向かう。そのまま脇目も振らずに駅の出口へと進んだ。
(まったく、信じられない事態だわ。このわたしが……失業しただなんて!)
 駅舎から出たミリセントは煤煙で汚れた空を仰ぎ深呼吸をすると、大声で喚き散らしたい衝動をなんとか抑えた。
 視線を元に戻すと、駅の壁に貼られた兵士を募集するポスターが目に入った。
 戦争の終わりが見えなくなった現在、政府は国民に対して軍隊に志願することを推奨している。
 戦争の影響で、国内は少しずつ人手不足になっていた。特に大都市ロンドンでは、不況とはいえ仕事さえ選り好みしなければ、なんらかの職に就くことはできると思われた。
(できれば次の仕事も食事と住居が保証されるメイドの仕事がいいけど、紹介状がなくても使用人登録所で新しい仕事先を紹介してくれるものかしら?)
 志願兵や従軍医師、看護婦はいくらでも募集していたが、ミリセントは戦場へ行く者の気が知れなかった。
(わたしに看護の心得があったとしても、戦地に行くなんて真っ平御免だわ)
 電柱に貼られたポスターをミリセントははしばみ色の大きな瞳で睨み付ける。
(多少給料が安くても、メイドの仕事をしている方がずっといいわ。まぁ、わたしだってそれなりに給料は欲しいけれど)
 十八歳のミリセントにとって、メイドは重労働だが安定した収入が得られる悪くない仕事だ。とはいえ、前の雇い主が紹介状を書いてくれなかった事情を尋ねられると、上手く説明できる自信はない。
 ミリセントは今朝になって唐突に、雇い主であるモーガン家の夫人から暇を出された。「すぐに荷物をまとめて出て行くように」と冷たく言い放たれ、昨日までの10月分の給金と退職金を合わせて五ポンドを渡され、追い立てられるように屋敷を出る羽目になったのだ。
 従僕のサイモンはミリセントに同情しつつ見送ってくれたが、彼はモーガン家に新しいメイドが来るまでは自分がメイドの仕事も合わせてやらなければならないのだと不満を漏らした。
 モーガン家に住み込みで働いていたミリセントは、失業すると当然ながら住むところがなくなる。それで仕方なく、兄ウェインが暮らすロンドンへ二年ぶりに戻ってきた。
 キングスクロス駅前からバスに乗り込みオルドゲートへと向かう。大通りの車道には様々な形の馬車と黒光りする自動車、真っ赤なバス、それに野菜や家畜を載せた荷馬車がひしめき合うようにして走っていた。通りを歩く人々の姿は一様に疲れ切っているように見える。
 オルドゲートのマイター街でバスを下りたミリセントは、通りの一角にあるプリースト診療所へと向かった。
 間口が狭い木造三階建ての一階にあるこの診療所は、所長ダニエル・プリーストの他に内科医と外科医がひとりずつ勤務している。
 ミリセントの十四歳年上の兄ウェインは、この診療所の内科医だ。
 プリースト診療所は診療所の規模そのものは小さいが、診療費が良心的とあって患者は多い。
 ミリセントが診療所の扉をそっと覗き込むように開けると、病院特有の薬品の臭いが隙間から漂ってくる。
 明日が日曜日で休診ということもあってか、昼を少し過ぎた時間だというのに待合室は診察待ちの患者で椅子が埋まっていた。
 診療所の中に入ったミリセントは帽子を脱ぎながら辺りを見回したが、廊下には兄の姿がなかった。
「こんにちは、エムズワースさん」
 受付で忙しくカルテの整理をしている顔見知りの看護婦に、ミリセントはすこし高めの声で挨拶をする。
「あら? ミリセントさん? まぁ、まぁ! 久しぶりねぇ。突然どうしたの? グレイ先生はあなたが帰ってくるなんておっしゃってなかったけど」
 手元のカルテから顔を上げたマーガレット・エムズワースは、茶色い目を丸くしつつも笑みを浮かべて迎えてくれた。四十歳を少し過ぎたばかりの灰色の髪をひっつめに結んだこの看護婦は、ミリセントを姪のように気にかけてくれている。
「実は、ちょっと事情があって失業してしまったんです。ウェイン、いますか?」
 ミリセントが言葉を濁して苦笑いを浮かべると、エムズワースは心得たような表情を浮かべてそれ以上は追及しなかった。
「先生はいま往診に行かれているの。でも、もうすぐ戻ってくるはずよ」
 早々に戻ってきてくれなければ困る、といった顔でエムズワースは待合室を見回した。
 軽い咳を繰り返したり、青い顔で長椅子に凭れ掛かって座っている患者たちは、どうやらウェインが往診から帰ってくるのを待っている内科の受診者らしい。
「プリースト先生はいらっしゃいますか?」
 所長のプリーストは、家政学校を卒業したミリセントの就職先を探してくれるなど、なにかと世話をしてくれた恩人だ。
「それが、所長はエジンバラで開かれる学会に一昨日から行ってるのよ。でも、ファラディ先生なら診察室にいらっしゃるわ。いまちょうど外科の患者さんは途切れているところだから、入っても大丈夫よ」
「いえ、いいです」
 外科医のバートランド・ファラディはミリセントがもっとも苦手とする人物だ。自分より九つ年上で、兄とは対照的な彼の軽薄さが気に障って仕方がない。
「兄の部屋で待たせてもらっても良いですか」
 ウェインはこの診療所の二階の住居部分の一部屋で下宿している。部屋は、数日間ならミリセントが居候できるだけの広さがある。この建物は一階が診療所、二階は住居、三階は屋根裏部屋という構造だ。
「どうぞ。オニールさんが台所にいると思うから、お茶でももらうといいわ」
 プリースト家の家政婦であるヘザー・オニールは五十代半ばの恰幅の良い体格の婦人だ。住み込みで働いており、プリーストだけでなく下宿人のウェインとバートランドの世話も請け負っている。
「そうします」
 二年ぶりだというのにプリースト診療所はまったく変わっていないことに、ミリセントは安堵した。二十世紀になり世の中は急速に変わりつつあるというのに、ここだけは待合室の椅子の位置から磨き込まれた木の床、壁に掛かった振子時計、受付に置かれた古びた真鍮の呼び鈴まですべてが同じだ。廊下に漂う消毒薬の独特の臭いすら、懐かしさを感じる。
 二階に上がるには、診察室の奥にある階段を上がらなければならない。
 旅行鞄を抱えて歩く度に軋む廊下を進み出したミリセントは、突然ガチャッと乱暴な音を立てて開いた診察室の扉にぶつからないよう、慌てて反対の壁に貼り付くようにして飛び退いた。
「あ、すまない……って、ミリセントか。お前、いつ戻ってきたんだ?」
 皺のついた白衣を羽織り、煙草をくわえた姿で現れたのはバートランドだった。
 六フィート近くある長身の彼は、癖のある狐色の髪を掻き上げながら青銅色の瞳でミリセントを見下ろす。喋り方がつっけんどんなのは二年前とまったく変わっていなかった。
「――さっき」
 ぶつかりそうになった扉を睨みながらミリセントはぼそぼそと答える。
「休暇、ではないな」
 ミリセントの両手の鞄を一瞥し、バートランドは断言する。
「さては勤め先でなにかやらかして、クビになったな」
 にやっと意地の悪い笑みを浮かべ、バートランドはわざわざ言葉にして指摘する。
「あなたには関係ないでしょうが!」
 目を吊り上げてミリセントが声を荒らげた瞬間、受付の電話のけたたましいベルの音が鳴り響いた。
 すぐさま電話に出たエムズワースが手際よく対応する声が聞こえてくる。
「まさか急患じゃないだろうな。患者が途切れたから煙草を買いに出ようと思ったんだが」
 面倒臭そうに顔をしかめてバートランドがため息をつく。
 彼の仕事に対するこのいい加減な態度が、ミリセントは特に嫌いだった。
「お前、ちょっと角の雑貨屋に行って煙草を買ってきてくれないか。釣りはやるから」
 白衣のポケットから一シリング銀貨を取り出し、バートランドがミリセントの前に突き出す。
「なんでわたしが……」
 相手を睨み付けてミリセントが断ろうとしたときだった。
「ファラディ先生! ミリセントさん!」
 受話器を手にしたエムズワースが受付室から顔だけを出して切羽詰まった声で叫ぶ。
「グレイ先生が暴漢に刺されたって!」
「え?」
 まばたきをしたミリセントは、エムズワースの言葉を頭の中で繰り返したが、意味を理解するまでに数秒かかった。


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