「アンブローシア・レシピ」第12話
1914年10月4日(2) ロンドン
オニールに食事を運んだ後、ミリセントはウェインの部屋へリンゴと紅茶を届けに行った。
彼はベッドの上で仰向けに横たわっていたが、新聞を頭からかぶっている。どうやら読みかけのまま畳むのが面倒になったようだ。
兄は妹のことに関してはまめだが、自身のこととなると途端に雑になることをミリセントは承知していた。彼は自分が風邪を引いても「頑丈だから平気」と言って薬を飲まないこともよくあった。咳がひどかったときはさすがにプリーストから「ミリセントに伝染るといけない」と注意されて薬を飲んだが、医者の不養生とはまさにこれだと言わんばかりだった。
「ウェイン、リンゴと紅茶を持ってきたわよ」
扉をノックしてミリセントが声をかけると、眠っていたわけではないらしくウェインは自分で新聞を目元までずらして顔を出した。
「バートランドが後で診察に来るって」
「そう。わかった。ありがとう」
ウェインが手を出したので、ミリセントは持ってきたリンゴを彼の手の上に置いた。もうひとつは脇机の上に盆ごと置く。切り分けるよりも丸ごとかじったほうが食べやすい小ぶりのリンゴだ。
「オニールさんの様子は?」
「二、三日はベッドで寝ているしかないって診察したバートランドが言っていたわ。オニールさんの代わりにわたしが家事をするから、別にウェインたちが困ることにはならないはずよ」
兄の顔にかかっている新聞を取って畳みながらミリセントは答える。
彼の枕元には、昨夜ミリセントが渡したお守りの祈祷書が置かれていた。
「そうだね。ミリィが帰ってきてくれて助かったよ」
リンゴをかじりながらウェインは頷いた。どうやらそれなりに食欲はあるらしい。
「ミリィ。あとで時間が空いたときで構わないから、所長に電話をしておいてくれないか。そこの机の上に置いてある手帳に、所長が滞在しているエジンバラのホテルの名前と電話番号が書いてあるから」
ウェインは部屋の隅にある机を視線で示す。
振り返ったミリセントは、医学書が三冊ほど並んだ机の上にぽつんと置かれた黒革の小さな手帳を取ると、兄に渡した。
「ミリィがしばらくオニールさんの代わりに家事をすることを伝えておくといいよ。所長のことだから、君にいくらかの給料は支払ってくれるはずだよ」
手帳を開いたウェインは「ここがそのホテル」と書き込んだ文字を指で示して、そのままミリセントに差し出す。
「僕が刺されたことは詳しく話す必要はないけれど、内科を今週いっぱいは休診にすることは伝えておいてくれないかな。まぁ、所長のことだから、患者が困るだろうと思って早々に戻ってくることはないだろうけどね」
「学会って何日もやるものなの?」
「明日と明後日の予定だけど、所長は学会が終わったからといってすみやかに帰ってくるような人ではないからね」
「まぁ、そうでしょうけどね」
プリーストは学会に出席するだの研修会に参加するだのと言って出かけたものの、二週間ほど帰ってこないことがよくあるのだ。
「あと、その手帳の最後のページに書いてある数字は、ミリィ名義の銀行口座だ。たいした金額ではないけれど、なにか困ったことがあったらそこから引き出して使ってくれていいよ」
「え? わたし、ちゃんと貯蓄はしているわよ? 失業したけど、これまで働いたお金はほとんど貯めてあるし、次の仕事が見つかるまではここにしばらくは居候させてもらうつもりでいるから、お金の心配はいまのところしていないわ。すぐに次の仕事が見つかるかどうかはわからないけれど」
ミリセントは手帳を掴んだまま兄を凝視した。
「いまは必要なくても、いずれ必要になるときがくるかもしれないだろう?」
「それって……ウェインになにかあったときってこと? でも、ウェインは死んだりしないでしょう?」
戸惑った様子でミリセントは尋ねた。
「すぐに死ぬつもりはないけれど、九死に一生を得るようなことが僕の人生で二度も起きたんだ。三度目が起きて、僕が無事で済むとは限らないだろう? それに、僕が常にミリィのそばにいて、君が困っているときにすぐに助けられるとも限らないからね。そんなときに頼りになるのはやっぱり金だよ」
「それはまぁ、確かにそうだけど」
ミリセントは、モーガン家にメイドとして就職した時点で兄から自立したつもりでいたが、ウェインからみればまだまだ妹は援助が必要だということらしい。
「でも、ウェインだってそのうちお金が必要になることがあるかもしれないじゃないの。いずれ結婚するかもしれないし」
「…………うーん。どうかな」
リンゴをかじりながらウェインが言葉を濁したので、ミリセントはため息をついた。
今年で三十二歳になるウェインは、ミリセントが知る限り恋人がいたことはない。以前は、幼い妹の世話で手一杯のため女性と付き合う暇がないのだろうと思っていたが、ミリセントが十四、五歳になって兄の手を煩わせなくなっても、変化はなかった。
上司であるダニエル・プリーストも独身のため、ウェインに結婚を勧める大人が彼の周囲にはいなかった。
本人も特に結婚願望はないらしく、ミリセントが兄に結婚するつもりはないのかと尋ねてもはぐらかすばかりだ。
兄の周囲を見てみれば、バートランドは特定の恋人こそいないものの友人以上の付き合いをしている女性はいるようだし、キャスパーも結婚の予定はまだないようだが恋人と同棲している。
自分がウェインのそばにいるとどうしても兄は自分のことよりも妹のことを優先してしまう癖が抜けきらないのかもしれない、とミリセントはあえてロンドン以外の職場を求めてケンブリッジにあるモーガン家で住み込みのメイドとして働くことにしたが、ミリセントが兄から離れていた二年間で彼女が期待するような報告は一切なかった。
「そういえば、キャスパーは帰ったのかい? まだいるなら、見舞いは要らないと一応断っておいてくれないかな」
ミリセントが渋い顔で黙り込んだため、ウェインはわざと話題を変えた。
「さっきまで食堂で一緒に話をしていたけど、ウェインやオニールさんのお見舞いをしようという様子はなかった気がするわ。あとでまだいるか食堂を覗いてみるわね。多分、新聞記事を読んでウェインの怪我の状態を聞きに来ただけのように見えたけど」
怪我人相手に結婚云々はいまするべき話ではないと自分に言い聞かせてから、ミリセントは答える。
「そういえば、先生ご自慢の不老不死の薬の話をキャスパーさんにしたんだけどね。キャスパーさんって『アンブローシア』のことを知らなかったのね。わたし、話をしてしまって問題なかったのかしら」
不安げにミリセントが告げると、ウェインは一瞬だけ考え込んだ。
「『アンブローシア』? あぁ、所長が持っている中でも一番胡散臭い、神のみが飲める霊薬ってやつの作り方を書いてある処方箋かな」
「え? あれってそういう意味なの? 人が飲むものではないの?」
「人間が飲める物ではないと思うよ。確か、硫黄だの水銀だのを混ぜてどうのこうのって書いてあった記憶があるから、そんなものが微量でも混ざっている物を飲んで平気なのは人間じゃないよ」
「なるほど。だから、神様の食べ物で、ただのおまじないなのね」
得心がいった表情でミリセントは手を叩いた。
「古代エジプトだかバビロニアだか中国だかの遺跡から発掘した古文書の中に書かれていた、神への供物の作り方を書き写した物じゃなかったかな? 所長はそういう風に言わなかったかい?」
どうやらウェインの中でも処方箋に関する時代の情報が混ざってしまっているようだ。
「いつも適当にしか聞いていなかったから、その辺りの説明は詳しくは覚えていないわ」
悪びれずにミリセントが答えると「ま、興味がなければそうだよね」と彼は納得する。こちらもたいして興味はないらしい。
「所長の研究は世の中の役に立つ可能性がほとんどないものばかりだよ。その研究の過程で、偶然使い道がある薬が精製される可能性もないことはないけれど、そんなことは万に一つあるかないかだから、サハラ砂漠で一粒の砂金を探すようなものだろうね」
「それって、気が遠くなるような作業ってことじゃないの?」
サハラ砂漠がどのような広さなのかミリセントには想像できなかったが、とにかく広いのだろうと考えた。
「そうだね。しかも、神の供物を完成させたとしても、人間は誰も飲めやしないんだから、はっきり言って所長の研究は道楽でしかないよ」
「道楽ねぇ。そんな物を作るよりも、オニールさんのぎっくり腰が治る薬を作った方が、世の中のためになるような気がするわ」
「他人の利益のために研究をする気は、あの人にはないからね。自分の興味があることしかしないんだよ」
諦めたような口調でウェインは告げる。
「確かに、先生ってそういう人よね。でも、ウェインがお医者さんになれるように援助してくれたり、わたしが家政学校に通うための学費を出してくれたり、わたしの就職先を探してくれたり、親切なところもあるじゃない」
南アフリカから英国へ渡る途中で知り合ったダニエル・プリーストは、ウェインとミリセントのロンドンでの生活を長年金銭的に支援してくれた。
幼い妹とふたりで英国へ渡ったウェインは、最初は両親の親族を探すつもりでいたそうだ。しかし、トランスヴァールを出たときに持っていた荷物はほとんど事故の際に失い、両親が英国でどのように生活するつもりでいたのかもわからず、下手をすれば兄妹はそのまま路頭に迷うところだった。
そんなふたりに救いの手を差し伸べたのが、プリーストだった。
「ウェインが医学部を受験するって聞いたときはとってもびっくりしたけれど、ずっと後になって先生が学費や生活費を面倒みてくれていたって聞いて、もっと驚いたわ」
「所長が、大学の医学部に入って医者になるなら資金援助をするし、自分の診療所で働くなら貸した金も返さなくていいって言うから必死で勉強したんだよ。大学に入るのも、進級するのも、卒業するのも、ぜんぶぎりぎりの成績だったけどね」
「ウェインがお医者さんになるなんて、それどころか大学に入って勉強してちゃんと卒業できるなんて、父さんや母さんは想像しなかったんじゃないかしら。でもわたし、ウェインが勉強しているところを見た覚えがないの」
「ミリィが寝た後で勉強していたからね」
「わたしが眠っている間だけ勉強して大学に合格できるなんて、ウェインは賢いのね」
「ミリィがいたから、頑張ろうと思えたんだよ。ひとりだったら、医者を目指したりせず、適当に生きていたと思う」
一個目のリンゴを食べ終えたウェインは、ぬるくなった紅茶にひと匙だけ砂糖を入れると黙って飲んだ。その後、ゆっくりと息を吐きながら枕に頭を落として横になる。食事をして胃に物が入ったため、下腹部の臓器の活動が活発になって頭から血が下がったのだろう。目眩がするのか、彼は額に自分の手を置いて小さく息を吐く。それから、かけていた眼鏡を外して脇机の上に置いた。
「ミリィとふたりでロンドンに来たおかげで、人生が大きく変わったんだ」
「もし家族全員でこっちに来ていたら、ウェインはお医者さんになっていなかったでしょうね」
そもそも鉱夫だった父は、息子を大学に通わせようと考えなかったはずだ。
「まず、ないね」
ウェインは軽く頷くと目を閉じた。
「じゃあ、ゆっくり休んでね。バートランドが後で診察に来るとは言っていたけれど、それまではおとなしくしていてね」
「あぁ、おやすみ」
ミリセントは兄から預かった手帳を開いたまま、部屋を出てそっと扉を閉めた。
(そういえば、ウェインと子供の頃の話をするのって久しぶりな気がするわ)
ウェインもミリセントも、普段は過去を振り返ったりはしない。そんなことをしても、なんの得にもならないし、失ったものが取り戻せるわけでもないからだ。
(ウェインがあんなに血を流しているところを見たのは、列車事故のとき以来ね。たくさんの血を見たせいか、わたしも子供の頃のことを思い出してちょっと感傷的になってしまっている気がするわ)
父親に似て丈夫な長兄は長生きするものだと最近までミリセントは信じて疑わなかった。父親は母親や他の兄姉と一緒に事故で死んでしまったが、事故を生き延びた長兄だけは違うと思っていた。
(ウェインは頑丈だからそう簡単には死なないって、だから心配しなくていいよって言ったのは……そういえば先生だったわね)
昨日、血だらけになった兄の姿を見ても心の片隅で「ウェインはこんな傷で死んだりしない」と自分に言い聞かせ続けられたのは、プリーストがかつてミリセントを安心させるために繰り返し口にしていた一言があったからだと思い出した。
――大丈夫だよ。彼にはそう簡単には死なないおまじないがかかっているからね。
プリーストのあの言葉が子供騙しだったのか、それとも意味があったのか、いまとなってはミリセントもわかりかねた。
ただ、当時の彼女はプリーストの一言をずっと信じていた。
ウェインは両親や他の兄姉のように自分を残して死なない、と。
プリーストのあの一言はいま、ミリセント自身のおまじないになっている。
(ウェインは死なない。だって、あの列車事故でもたいした怪我をしなかったんだから)
手帳を掴む指先に力を込めて自分に言い聞かせながら、ミリセントは電話機がある一階の診療所へと続く階段を降り始めた。