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「アンブローシア・レシピ」第7話

1914年10月3日(3) ロンドン

 ミリセントは1896年に南アフリカのトランスヴァールで生まれた。
 父親はイングランドのポーツマス出身だがミリセントが生まれる前からヨハネスブルグの鉱山で働いており、両親と三人の兄と三人の姉の一家九人で暮らしていた。
 1899年にトランスヴァールでボーア戦争が勃発し、翌年にはその頃グレイ一家が住んでいたヨハネスブルグの町での戦闘が激しくなってきたため、家族で両親の母国であるイングランドへ戻ることになった。
 ところが、イングランドへ向かう船が出るケープタウンへ列車で向かう途中、事故が起きた。ミリセントたち一家が乗り合わせた列車がボーア人の民兵組織に襲われ脱線したのだ。
 その事故で、ミリセントは長兄ウェイン以外の家族を失った。
 着の身着のままウェインとふたりで事故現場から徒歩で港へ向かい、ロンドン行きの船に乗り、なんとか五日後にイングランドの地を踏むことができた。
 当時四歳だったミリセントは、成長するにつれてトランスヴァールでの家族の記憶が薄れていった。
 恐ろしい列車事故やウェインに抱きかかえられながら港に向かったこと、船の中で事故の惨状を思い出してよく泣いていたことは覚えていても、死んだ両親や他の兄姉の顔は次第に忘れていった。事故の際に荷物はほとんど失ったため家族写真などは手元になく、ミリセントは両親や兄姉たちの名前さえもいまや記憶があやふやになっていた。
 イングランドへ辿り着いたとき十八歳だったウェインは、列車事故の現場で知り合ったダニエル・プリーストに気に入られ、幼い妹の面倒を見ながらプリーストの援助でロンドン大学医学部に進学した。大学卒業後はプリーストの診療所で医師として忙しく働きつつ、ミリセントを育て上げた。
 ミリセントにとって、ウェインは兄というより親のような存在だ。
 そのウェインが暴漢に襲われるという予想外の事件は、ミリセントにとって列車事故以上の衝撃だった。
「そんなに泣かなくても大丈夫ですよ、ミリセントさん」
 オニールはサンドイッチを載せた小皿を差し出しながらミリセントをなだめる。
「ファラディ先生が治療してくださったんですから、グレイ先生はこれくらいでは死にませんって」
「そうそう。ファラディ先生の医師としての腕前はともかく、グレイ先生は見かけよりも頑丈ですからねぇ」
 紅茶を飲みながらエムズワースが同意する。
 ウェインは身長が六フィートあるが痩せぎすで、眼鏡をかけた目の下には常にうっすらと隈があり、灰褐色の髪は近頃は白髪交じりであまり整えていないせいか、不健康に見られることが多い。ただ、実際は滅多に体調を崩すことのない病気知らずだし、骨折など大きな怪我をしたこともない丈夫な身体の持ち主だ。
 労働者階級の両親が丈夫だったかはミリセントの記憶にはないが、父親は長くヨハネスブルグの鉱山で鉱夫として働いていたくらいだから頑健だったと思われる。
「人は死ぬときは死ぬ。それがいまか、いまじゃないかの違いだ」
 サンドイッチを頬張りながらバートランドは冷たく言い放つ。
 その一言でミリセントの溢れていた涙は引っ込んだが、天敵を見つけたように目を吊り上げて相手を睨み付けた。
「そういう話ではないんですよ、ファラディ先生」
 エムズワースが唇を歪めてたしなめる。
「ミリセントさんは、張り詰めていた気持ちが緩んで泣いてしまったんです。もうちょっと優しいことを言ってくださいな」
「破傷風の心配はほぼない」
「なんでそういうことしか言えないんでしょうねぇ、ファラディ先生は」
 呆れた口調でぼやきながらエムズワースは肩をすくめた。
 ミリセントはハンカチで涙を拭うと、黙って紅茶を飲み始めた。
 これまで勤め先で飲んでいた紅茶よりも味は薄かったが、喉から腹に入ると全身が温かくなるのを感じた。
「そういえば、どうしてミリセントさんは今日ここに来たのかしら?」
 オニールは話題を変えるようにミリセントに尋ねた。
「実は、住み込みで働いていた勤め先を解雇されたんで、次の仕事が決まるまで兄のところに居候させてもらおうかと思って」
 涙声のままミリセントは答える。
「まぁまぁ、それは大変だったわね。ミリセントさんのお勤め先って、どこかの大学教授のお宅だったわよね」
「ケンブリッジ大学の教授です」
「まぁ……良いお勤め先だったのに、残念ね」
 オニールが慰めるようにミリセントの背中を撫でる。
「解雇ってことは、なにかやらかしたんだろ」
 バートランドの憎まれ口に、ミリセントは唇をとがらせる。
「わたしがなにか失敗したわけじゃないわよ。四日ほど前に旦那様が倒れてロンドン大学医学部の附属病院に入院されたのだけど、奥様がケンブリッジのお屋敷は引き払うからメイドは必要ないって今朝急におっしゃって、それでそのまま解雇されたのよ」
「いまの説明はまったく話が繋がっていないぞ? 意味不明だ」
 バートランドは首をかしげたが、ミリセントは細かい説明を省いた。
「いろいろと家庭の事情があるのよ。でも、それを使用人がべらべらと喋ってしまったらわたしの次の就職活動に差し障るから、言えないわ。どこの家でも口の軽いメイドは好まれないの」
「そりゃまぁ、そうだろうけどな」
 釈然としない様子でバートランドは渋々頷いた。
「でも、なんでその教授はケンブリッジの病院で入院せず、わざわざロンドンまで出てきたんだ? 治療が難しい病気なのか?」
「ロンドンの方が安全なんだって奥様はおっしゃっていたわ」
「安全? 病人をケンブリッジからロンドンまで移動させるのは安全とは言わないぞ」
「旦那様は病気ではなく、毒を飲んで倒れたの」
「毒?」
「そう。夜にお客さんが訪ねてきた直後に旦那様が毒を飲んだの。でも奥様は、旦那様と同じ研究をしているライバルの誰かの依頼で暗殺者がやってきて、旦那様に毒を飲ませたっておっしゃるの。だから、ケンブリッジよりロンドンの病院の方が安全だって奥様は考えたみたい」
 結局、ミリセントはモーガン家の事情の一端を喋る羽目になった。
「研究者同士の軋轢か」
 研究とは無縁の医者であるバートランドは鼻で笑う。
「しかし、暗殺者ってのは夫人の妄想じゃないか? 王族や政治家じゃあるまいし、ただの大学教授を暗殺するなんてありえない。そりゃあ、研究内容によっては先に論文を発表した方が歴史に名を残せることもあるが」
「旦那様はフリーメーソンに入っていて、そこでは占星術や心霊術、錬金術なんかをメンバーで一緒に研究している組織らしいわ。三十年くらい前が団体の全盛期だったらしいけど、不景気や戦争で世の中が不安定になってきたんで、また入団者が増えたんですって。同じ研究をする仲間が増えて楽しいって旦那様が奥様に話しているのを聞いたことがあるの」
「なんでそのフリーメーソンに入っていると命を狙われるんだ?」
「よくわからないけれど、奥様は、旦那様が組織の不都合ななにかを知ってしまったから毒殺されそうになったっておっしゃっていて、警察にもそのことを詳しく話したのだけど、相手にしてもらえなかったみたい。フリーメイソンは犯罪組織じゃないから所属しているからって命を狙われることはまずないし、団体内部でいざこざが起きているわけでもないなら、旦那様はご自身の研究に行き詰まって悩んだあげくに毒をあおったんだろうって警察は考えているみたいなの。もちろん、奥様は納得していないけれどもね」
「警察沙汰になったのか」
「そう。でも、事件にはならなかったし、新聞にも載らなかったわ」
 ミリセントはそこで口を噤んだ。
 ケンブリッジの警察はオリバー・モーガンを服毒自殺未遂と判断して事件にしなかった。モーガンが毒を飲む直前に訪ねてきた人物が自殺を決意させる要因になったとしても、状況から客人がモーガンに直接毒を飲ませた可能性は低いと判断されたのだ。モーガン夫人は納得しなかったが、客人と言い争うような声は家人の誰も聞いておらず、モーガンが飲んだ毒は以前から彼の書斎にあった薬のひとつであると結論づけられた。モーガンはここ一年ほど、自宅の書斎で研究のための調薬をしており、薬品棚にはたくさんの薬品が保管されていた。その中には毒物や劇薬も多数含まれており、モーガンが飲んだ毒は薬品棚にある毒物と劇薬を混ぜて作ったものだと考えられた。
 モーガンの研究については家人は誰も詳しい内容を知らず、なぜ彼がそれを飲んだのかも不明だ。彼が倒れてすぐに使用人が介抱したことや医者を呼んだことが幸いし、なんとか一命は取り留めたものの、現在は意識不明の状態だ。
 モーガン夫人は夫が自殺する理由が見つからないため、彼が入っているフリーメーソンが派遣した暗殺者による毒殺だと陰謀論を唱えたが、荒唐無稽であることはミリセントも警察と同意見だった。
 ミリセントが見た限りでは、オリバー・モーガンは服毒して倒れるまで特に変わった様子は見られなかった。警察には、普段通り午後6時に夕食を摂り、午後7時過ぎに書斎へ入って、午後8時過ぎに来客があるまでは書斎から出てこなかったようだと答えた。
 従僕のサイモンは、訪問客は初めて見る顔で、名乗りはしたが名刺は出さず、それでも主人はその客人を書斎に通すよう自分に命じたと警察に語ったそうだ。
 この動機が不明な服毒事件の影響で、ミリセントは仕事を失った。
 サイモンが解雇されずにミリセントだけが追い出された理由があるとすれば、モーガン夫人は服毒自殺ではなく服毒他殺未遂であることを主張したかったのに、ミリセントがモーガンの自殺の可能性を完全に否定しなかったからだろう。ミリセントは警察から他殺の可能性があるか問われて「わかりません」と答えたが、夫人はそれが気に入らなかったようだ。この先、オリバー・モーガンが回復せずに死亡した場合は自殺として処理され、教会の墓地に埋葬してもらえなくなるのではないかと夫人は心配しているのだ。
 夫人は、警察が事件として扱わなかったことでますますフリーメーソンによる陰謀説を頭の中で作り上げるようになった。夫人の被害妄想は日に日に膨らみ、ケンブリッジの病院に新たな暗殺者が夫を殺しに来るに違いないと言いだして密かにロンドン大学附属病院への転院手続きを取り、夫の勤務先には体調不良で入院したと休職届を出した。エジンバラの寄宿学校にいる息子たちには詳細を知らせず、ケンブリッジの邸宅にはサイモンを留守番として残し、夫人は夫をロンドンの病院に移した。
 夫人の過剰反応に警察や病院は戸惑った様子だったが、一番巻き添えを食らったのは仕事を失ったミリセントだった。しかも、夫人は多忙を理由にミリセントに新しい仕事を探すための紹介状を書いてくれなかったのだ。
「いろいろと物騒な世の中ねぇ」
 サンドイッチを次々と頬張りながらオニールは愚痴る。
 それはオリバー・モーガンの服毒事件を指しているのか、ウェインの刺殺事件に対してなのかは不明だったが、エムズワースも黙って同意を示した。


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