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「アンブローシア・レシピ」第22話

1912年4月15日 ロンドン

 今朝の新聞では、サウサンプトンを一昨日出航してニューヨークへ向かっていた豪華客船タイタニック号沈没の記事が大きく取り上げられていた。
 フリート街を歩く人々が手にしている新聞のどれも、一面はタイタニック号の写真が大きく掲載されている。
 空は晴れており、穏やかな天候だ。
 水曜日ディエース・メルクリィーは降り注ぐ陽射しを恨めしげに見上げ、かぶっていた帽子のつばを指で引いた。
 一昨日は習慣となっているウェストミンスター寺院の礼拝へ行ったが、目的の人物は見当たらなかった。もしかしたら自分が記憶している姿と違っているかもしれないのでよく目を凝らしてみたが、やはりそれらしき人物は探し出せなかった。
 印刷業の店が多いフリート街だが、カフェやパブもある。
 カフェのショーウインドーのガラス窓に映る自分の姿を目にして、水曜日はため息をついた。
 痩せこけた顔はいかにも不健康そうで、目の下には隈がくっきりと出ている。
 百年前とそう姿は変わっていないはずなのに、雰囲気だけは老いていた。いまの時代に合わせた服装をしているため、これでは約束の相手を見つけ出そうにもお互いがわからないかもしれない。
土曜日ディエース・サートゥルニーは顔の骨格で判断していると言っていたから、私の骨格をいまでも覚えていれば気づいてくれるだろうが、さすがにあの男でも百年経つと忘れているかもしれない)
 かつて火曜日ディエース・マルティスだと思われた焼死体をひと目見て「土曜日の枠が空いてしまいましたね」と水曜日に耳打ちしたのは、のちの土曜日だ。
 彼が火曜日の裏切りを見抜いたからこそ、水曜日はかつて仲間だった者たちに復讐することを決意した。敵ではないと信じられるのは土曜日だけだった。だから彼に、霊薬『アンブローシア』の処方箋を託した。本来の使い方を伝え、裏切り者をあぶり出す手伝いを頼んだ。
「別に手伝うのはやぶさかではないですけど、それは彼の願いから外れることになりますよ」
 彼は、優先すべきは水曜日の弟の望みを叶えることではないか、と言った。
 しかし、水曜日は復讐を選んだ。
「伯父は、あなたの才能をとても評価していました。私が知る限り、伯父が褒めたのはあなただけです。そんなあなたがご自身の才能を錬金術以外のことに使うのはもったいないと思います」
 土曜日は残念そうに告げた。
 彼の伯父である日曜日ディエース・ソーリスにはとても世話になったが、しかし義理立てするつもりはなかった。自分の人生は自分のものであり、自分が後悔しないように生きるつもりしかなかった。後悔するのは一度限りでいい。
 あのとき弟が工房に入ることを強く止めていれば――と。
(『灰の円環アッシュ・サークル本部グランド・ロッジでは、オルダス・マインが死から復活したという話もあるが、あの霊薬は死んだ者が復活できる作用はないはずだ。肉体の再生と治癒が可能であれば、私のこの身体はとっくに治っている。もし『灰の円環』で『アンブローシア』の研究がさらに進んだのであれば、生者の肉体の治癒が実現できるようになったことも考えられるが、そうだとしても死者の復活は神の領域だ。完全に死に至っていなければ復活はあり得るが……『アンブローシア』は薬が有効な間だけ不老不死を可能にするものだ)
 『アンブローシア』が万能薬ではないことは水曜日が一番よくわかっていた。不老の効果はあるが不死ではないし、他の薬を飲むと霊薬の効果が薄まる失敗作だった。
(スミス商会は『灰の円環』が『アンブローシア・レシピ』を解読できていないと言っていたが、が『灰の円環』の手に渡っているということは土曜日はもう……)
 重い身体を引きずるように歩きながら水曜日は憂鬱な気持ちになった。
(いや、死んだとは限らない。スミス商会が行方を知らないだけで、彼に処方した霊薬の効果を考えればどこかで生きている可能性の方が高い)
 霊薬が確実に不死を得られるものではない以上、絶対とは言えない。しかし、水曜日は土曜日が生きていることを願った。
(木曜日と金曜日の死体は火葬して遺灰をテムズ川に撒いてやったが、できれば火曜日も同じようにしてやりたいものだ。あの男を灰にできれば、私の望みはこのいまいましい身体から解放されることだけになるのだが、そのためには土曜日の助けが必要だ)
 フリート街には『灰の円環』の支部ロッジのひとつがあると聞いてやってきた水曜日だが、スミス商会が伝えてきた住所には雑居ビルが建っており、一階には薬局があるだけだった。
(『アッシュ薬局』、か。多分、ここは薬局を装った『灰の円環』の支部なのだろう)
 店の入り口には『CLOSE』と書いた張り紙が貼られており、カーテンが閉めてある。昼休憩なのか、今日は休業日なのかがわからない。
 スミス商会によれば、このフリート街にある『灰の円環』支部に錬金術師オルダス・マインの四つの遺品である手提げ金庫、形見函、金庫の鍵、祈祷書が保管されているらしい。
(私がなんとか動ける間に、あの四つすべてを回収して錬金術師オルダス・マインの痕跡を消す必要があるな。スミス商会はあれで『アンブローシア』が作れないことを知っているが、協力はしてくれないだろう。どこにいるかわからない土曜日に後を託すわけにもいかない)
 ふう、と息をついたところで、水曜日は足からすとんと力が抜けるのを感じた。そのままぺたりと床にしゃがみ込んでしまう。
(あぁ、まったくこの身体は……)
 心の中で悪態をつきながら、水曜日はなんとか店の壁に手をついて立ち上がろうとしたが、なかなか身体が動かない。
「――――どうかしましたか?」
 水曜日の頭上から声が降ってきた。
 顔を上げると、丸眼鏡をかけて帽子をかぶった三十代半ばの男が腰をかがめて片手を差し出しているところだった。
「ご気分がすぐれませんか、ご婦人?」
 男は気遣わしげに水曜日の顔をのぞき込んでくる。
「あ、ありがとうございます……」
 大丈夫です、と言いかけたが息を吸った次の瞬間には大きく咳き込んでいた。
「そこの薬局は僕の店ではないのですが、知人が勤めています。もうすぐ開きますので、休憩していきませんか? 水くらいしかお出しできないかもしれませんが」
 ぼそぼそとした喋り方で男は告げる。
 アッシュ薬局に入れると聞いて、水曜日はすぐさま頷いた。自分の顔色が悪いのは常だが、体調が悪いことに違いはない。
「僕はイーオン・キャスパーと言います。この近くの診療所で薬剤師をしています。ところで、あなたのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 男――イーオン・キャスパーはおずおずと水曜日に尋ねた。
「名前……」
 百年以上を『水曜日』という名で過ごしてきた彼女は、一瞬だけ戸惑った。
「あ、いえ、無理に名乗っていただく必要はありませんがっ!」
 慌てた様子でキャスパーは告げる。
 どうやら彼は初対面の相手との会話で極度に緊張する性格らしい。
「私は……ジェーン・ドゥです」
 曖昧な笑みを浮かべて水曜日は答える。
 錬金術師『オルダス・マイン』の工房に入る前の名前は、弟が死んだときに捨てた。いま、この世界に自分が親から与えられた名前を知る者はいない。土曜日にも、名前は教えていない。
「ジェーン、ですか。すてきな名前ですね」
 はにかみながら告げるキャスパーは、お世辞でも皮肉でもなく、本気でそう思っているようだった。
(このアッシュ薬局に知り合いがいるということは、『灰の円環』のメンバーなのだろうか。それとも、本当にこの薬局の薬剤師とただの知り合いなのだろうか)
 水曜日はキャスパーを観察しながら頭の中で素早く考えた。
 キャスパーは薬局の扉を叩いて外から「おーい。急病人がいるから、早く開けてくれ」と叫んでいる。
(もしこの男が『灰の円環』となんらかのつながりがあるならば……これは好機だ)
 キャスパーを通じて、『灰の円環』のメンバーと知り合う機会が得られるかも知れない。
 店内でカツカツと靴音が響いたかと思うと、シャッと勢いよくカーテンが開かれて白衣姿の男が見えた。すぐに扉が開き「どうぞ中へ」と男が招いてくれる。
 キャスパーが差し出した手にすがりながら水曜日はなんとか立ち上がった。
(これでようやく、『灰の円環』の支部に入り込む糸口を掴めたかもしれない)
 薄暗い薬局の中に入りながら、水曜日は様々な薬の匂いを胸に吸い込む。
(スミス商会は私が直接『灰の円環』に乗り込むことを嫌がっていた。しかし、いつまでも名無しの連中に任せておくわけにはいかない。オルダス・マインが死んだというなら、なおさらだ。私にはそれなりに時間がある。掴んだ糸が蜘蛛の糸だろうが藁だろうが、ゆっくりと手繰り寄せていけばいずれは『灰の円環』の本部に辿り着けるはずだ)
 薬剤師の男がコップに入れた水を差し出してくれた。
 それを「ありがとうございます」と礼を言って受け取りながら、水曜日はキャスパーと薬剤師の男を交互に観察する。
(『灰の円環』の中でオルダス・マインがどのような錬金術師として知られているのかはわからないが、私が錬金術師オルダス・マインのひとりであったことは誰も気づくまい。もし火曜日が生きていれば気づくかもしれないが……どうかな)
 ガラス窓に映る自分の顔を見た水曜日は自嘲した。
 落ちくぼんだ目とこけた頬、肌は皺こそないが艶もない。長い黒髪はぱさついており、病人のようだ。
 実際、彼女は長く病を患っていた。
「ジェーンさんは、どちらにお住まいですか? かなり顔色が悪そうですし、よろしければご自宅までお送りしますよ」
 目の前の婦人がなにものか知らない様子のキャスパーが緊張した面持ちで話しかけてくる。
「ありがとうございます」
 弱々しい声で答えながら、水曜日はこれからどうやってこの男たちとつながりを深めていくかを考えていた。


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