「アンブローシア・レシピ」第27話
1914年10月6日(5) ロンドン
オニールはなんとか危機を脱し、最後にプリーストとバートランドとエムズワース、そしてミリセントも手伝ってオニールをベッドに戻した。
吐瀉物などで汚れた部屋はミリセントが掃除をし、部屋の窓を開けて換気をすると、オニールは意識を失ったままではあるものの呼吸が正常に戻ってきた。
エムズワースが一階から持ってきた薬をプリーストが注射し、しばらくは様子を見ることになった。
「胃のものを全部吐いたから脱水症状になる恐れがある。点滴をしよう」
「わかりました」
指示を受けたエムズワースが、生理食塩水を取りにまた一階へと走って行く。
時刻は午後3時を過ぎている。
診療所の午後の診察は始まっている時間だが、昼食をほとんど食べないままオニールの治療で騒然となっていたため、誰も診療所を開けようとは言わなかった。
もし怪我をした患者が来たら、扉を叩いて叫ぶだろう。
「……所長が真面目に治療をしているところを見たのは初めてだ」
くたびれた様子のバートランドが妙な関心の仕方をする。
「僕はなんどか見たことがあるよ。主に、ミリィが小さいときに風邪を引いたり腹を壊したりしたときだから、6、7年前が最後かな」
「なるほど。ミリセントを真面目に治療しなかったら、所長はお前に殴られるわけだ」
「当然だろ」
「瀕死のオニールさんを助けるなんて、さすが先生! 名医ね!」
雇われ医師たちの感想は無視して、ミリセントはプリーストを絶賛する。
「オニールさんはしぶとく生きようとする意欲が残っている人だったから、助かったんだよ。さすがに今回はかなり厳しい状況ではあったがな」
ハンカチで汗を拭いながらプリーストは答える。こちらもかなり疲労困憊の状態だ。
「へぇ。そうですか」
低い男の声が響き、四人は声に反応して振り返る。
まず視界に入ったのは、真っ青な顔をして階段を上がってくるエムズワースだった。
その背後に、血まみれのナイフを持ったキャスパーが立っている。
「エムズワースさん!?」
ミリセントが声を上げると同時に、バートランドも叫ぶ。
「キャスパー!? なにをしているんだ!」
「だ、大丈夫……あたしはどこも怪我はしていないから」
震えながらもエムズワースは気丈に答えた。
エムズワースの背中に貼り付くようにして現れたキャスパーは、ナイフだけでなく手や外套の袖口、裾などにも血がべったりとついている。
「オニールさんも失敗でしたか。おかしいな? ちゃんと処方箋通りに調薬したのに、なんで一回しか成功しないんだろう?」
ぼそぼそと独り言のようにキャスパーが呟く。丸眼鏡の奥の彼の目は瞳孔が完全に開いていた。
「一回?」
「グレイに薬を飲ませたときは成功したのに」
「え?」
キャスパーの返事を耳にした途端、その場にいた全員がウェインに視線を向けた。
ウェインは目を丸くしている。
「薬ってなんのことだい? 君から薬をもらった覚えはないよ? 今飲んでいる鎮痛剤と化膿止めの薬は外科の診察室に保管してあったものだ」
「10日ほど前、あんたが飲んだコーヒーにこっそり混ぜたんだ。飲んだあと特に異変がなかったし、人を雇って襲わせてみても死ななかったから、これは絶対に成功したと思ったんだ! なのに、他の連中には薬がまったく効いていない。薬を飲んだ途端に倒れている。なぜだ? なぜグレイ以外の連中は霊薬が効かないんだ?」
キャスパーが『霊薬』と口走った途端、ウェインとプリーストの目つきが変わった。
「……そういえば10日くらい前に珍しく腹の調子が悪くて下痢になったっけ。すっかり忘れていた」
しばらく考え込んでいたウェインがぽつりと呟くと、プリーストは呆れ返った。
「おまえさん、おかしな物を飲んだという自覚はなかったのかね?」
「味が少しおかしかった気がしたけれど、久しぶりに自分で入れたコーヒーだったから入れ方を間違えたかと思ったんだ。砂糖をたっぷり入れたのになんか甘くなかったから、一緒に入れた牛乳が古かったのかもとか考えたが、吐き気はしなかったから腹の調子が悪かっただけかと思ったんだ。腹の中のものを全部出したら痛みが治まったから、とにかくコーヒーの中身のせいだろうと思ってそれからはコーヒーは飲まないようにしているんだ」
コーヒーの中身のせいであることまでは合っていたが、まさかそこに薬が混ぜられていたとは想像もしていなかったらしい。
唖然としながらミリセントは兄を見つめた。
「この兄さんは恐ろしく身体が丈夫だから、おかしな薬を飲ませても効かないんだ」
プリーストが軽く肩をすくめてキャスパーに告げる。他に答えようがなかったようだ。
「馬鹿舌か」
ぼそりとバートランドが呟く。
ウェインは味音痴のためにキャスパー自作の霊薬がコーヒーに混ざっていることに気づかなかったのだから、ミリセントもバートランドの言葉を否定できなかった。合わせて、兄が昔から自分の料理を「とってもおいしいよ」と言って食べてくれていたのが、実はよく味がわかっていなかったのだということも残念ではあるが理解した。
「この男とオニールさんの他に、誰に飲ませたんだね?」
諭すような口調でプリーストがキャスパーに問い質す。
「ユーストン、ベイリー、モーガン」
あっさりとキャスパーは複数の名前を挙げた。どうやら数名の知り合いに薬をばらまいたようだ。
「モーガンにも渡したのか……」
プリーストが尋ねると、キャスパーは頷いた。
「彼は僕が所属しているフリーメーソン『灰の円環』で一緒に霊薬を研究していた。『灰の円環』では、『アンブローシア』という霊薬の処方箋が結成当時から伝わっており、その処方箋を解読できれば不老不死の霊薬を調薬できるという話だった。モーガンは自分の病気を治すため、どうしても『アンブローシア』を完成させたいと言っていた。だから、僕が調薬した『アンブローシア』を彼に渡した。グレイに飲ませて問題なかったから大丈夫だと思ったんだ。なのに、グレイ以外は全員駄目だった」
悔しげにキャスパーは顔を歪めた。
相手の意識がプリーストに向いていることに気づいたミリセントがエムズワースに目配せすると、状況を察した彼女は素早くキャスパーの手を振りほどいて走り出し、バートランドの背後に逃げる。
しかし、キャスパーは人質が逃げたことに気にする様子はなく喋り続けた。
「所長が『アンブローシア』の処方箋を持っていると聞いたから、勝手に部屋に入って処方箋の内容を写させてもらった。その処方箋通りにもう一度調薬してオニールさんに飲むように言って渡したのに、霊薬の効果は発揮されなかった。せっかくアンブローシア・レシピが手に入ったのに、一回しかうまくいかなかった。なぜだ? あれは霊薬の処方箋だろう? 僕の解釈が間違っているのか?」
感情が高ぶった様子のキャスパーが叫ぶ。
ミリセントがびくっと身体を震わせると、ウェインは妹の肩を引き寄せた。
「アンブローシア・レシピはただのまじないだ」
プリーストがキャスパーに言い聞かせる。
「実際に霊薬を作る処方箋ではない。神への供物、というのが『アンブローシア』だ。誰があんたにアンブローシア・レシピを霊薬の処方箋だと教えたのか知らないが、あの処方箋どおりに薬を作っても霊薬はできない」
「ただのまじないなはずがない! だったら、なんでグレイは生きているんだ!?」
「こればかりは、彼が普通よりも頑丈にできているからとしか説明のしようがない」
「『灰の円環』では、錬金術師たちが霊薬の臨床試験をしたという記録がある! そこで、アンブローシア・レシピから作られた霊薬で不老不死を得た者がいるとも書いてあるんだ!」
「それは、誰かが組織に箔を付けるために誇張して書いたものだろう」
苦笑いを浮かべてプリーストはキャスパーの説明を否定した。
「そもそもあんたはなんで霊薬が必要なんだ? あんたはモーガンと違って特に病気を患っている様子はないじゃないか」
オリバー・モーガンが病身だったとは知らなかったミリセントは、プリーストの言葉に軽く目を瞠る。
「――ジェーンのためだ」
ぽつり、とキャスパーが答えた。
「ジェーン? それって、キャスパーさんの恋人の名前ですか?」
ミリセントが尋ねると、キャスパーは首を縦に振った。
「ジェーンは半年前から寝たきり状態に陥っている。どんな薬も彼女の病気を治せない。でも、不老不死の霊薬があれば、彼女の病気を治すことができるはずだ。別に不老不死じゃなくてもいい。いまよりも体調が良くなって、僕と喋ったり、一緒に食事をしたり、そういうことができるようになればそれで良いんだ。でも、たくさんの霊薬の処方箋を手に入れて調剤して、彼女に飲ませる前に試してみたがことごとく失敗した。グレイ以外はみんな死んでしまった。オニールさんだって、死にかけたんだろう? ある国の王が不老不死の霊薬を探しているって話が『灰の円環』に舞い込んできて、幹部たちが急にアンブローシアの処方箋で霊薬作りに力を入れるようになった。モーガンは処方箋の写しが手に入ったって言って喜んでいた。でも、僕以外の連中が作った霊薬はどれも失敗作だった! ジェーンは、『灰の円環』にある錬金術師の道具で霊薬は作れるのだと教えてくれたが、どうやって使うのかを話す前に彼女の病状は悪化してしまって、いまはろくに喋れる状態じゃないんだ!」
「錬金術師の道具を使うのだと君に教えたのは『ジェーン』なのかね?」
プリーストはいまや涙を流して顔をぐちゃぐちゃにしながら叫んでいるキャスパーの肩を叩いた。
「……そうだ」
涙を拭うことはせずにキャスパーは顔を上げて答える。
「その『ジェーン』とやらの病気はなんなのだ?」
「わからない。彼女は症状について、ほとんど教えてくれないんだ。ただ、身体が日々弱っていって、すっかり痩せてしまった。ろくに食事が喉を通らず、水を飲むだけでも苦労している。喉から声を出すのだって難しい」
「医者には診せたのか?」
「診せていない。彼女が嫌だと言うから」
キャスパーは床にしゃがみ込んでしまった。
外套やナイフの血が誰のものなのか、誰もが怖くて聞けなかった。
「では、儂が一度診てみよう」
プリーストが提案する。
「どのような病気にせよ、むやみやたらに薬を飲めば治るものではないことは、薬剤師のあんたが一番よくわかっているだろう?」
「――ジェーンは、『アンブローシア』であれば病が癒えると言っていたんだ。他のどんな薬でも治せない病気だが、『アンブローシア』であれば治せる、と」
キャスパーはようやく焦点が合った目でプリーストを見上げながら、訴えた。
オニールを放置しておくわけにはいかないからと、エムズワースは診療所に残ることになった。
最初、プリーストはひとりでキャスパーとともに彼の恋人のところへ行くつもりだったが、キャスパーが人質としてミリセントを連れて行くと言い出した。それに対してウェインは冷ややかに「いますぐ警察に突き出そう」と言った。心底キャスパーの恋人の生死などどうでもいいといった口ぶりだった。
ミリセントが「わたし、先生と一緒に行く」と言い、バートランドが「俺も付いていく」と言い、プリーストが「兄さんも来るといい」と言ったため、結局ウェインも一緒に行くことになった。
ミリセントは兄の傷が癒えていないことを気にしたが、プリーストは「兄さんは丈夫だから問題ない」と無視した。
「ミリィ。これを持っていて」
出かける直前、寝間着から着替えたウェインはミリセントに枕の下から取り出した祈祷書を差し出した。
「母さんの、祈祷書?」
「そう。大事な物だからお守り代わりに持っていて」
「お守りなんだから、ウェインが持っていたら?」
「僕が持っているより、ミリィが持っている方がいい」
腕を上げるたびに腹の傷が痛むのか顔をしかめるウェインだったが、ミリセントが「ここで待っていたら?」といくら言っても「一緒に行く」と頑固に言い張った。
結局、ミリセントは鞄に祈祷書の他、ウェインの鎮痛剤、化膿止め、傷が開いたときのための包帯、ガーゼなどを大量に入れて出かけることになった。
「キャスパーさんの恋人の診察をするのは今日じゃなくても、いいんじゃないの?」
ミリセントは兄の様子をうかがいながら言ってみた。
「今日行かないと、明日になったらキャスパーは傷害か殺人で逮捕されているよ」
「それじゃあ、あれってやっぱり……」
「他人の血、だろうね。本人は怪我をしている様子はなかったし、顔色が悪いのはいつものことだよ」
普段よりもキャスパーの顔色は悪かったが、ミリセントはそのことを指摘するのはやめておいた。
キャスパーが住んでいる集合住宅はそう遠くはないので、四人は歩いて行くことになった。なにしろキャスパーは血まみれなので、バスやタクシーに乗るわけにはいかない。
ウェインは「僕は怪我人なんだが」と文句を言ったが「どうせほとんど治っているだろう」とプリーストが否定し、一緒に歩くことになった。
途中でミリセントは、おとなしくなったキャスパーを押さえ込んで警察に引き渡しても良いのでは、と思ったが、どうやらプリーストにその気がないようなので黙ってついていくことにした。もし兄の傷口が開くようなことがあれば、バートランドがいるので治療はしてもらえる。
10分ほど歩いたところで、キャスパーが借りている家に辿り着いた。
「ジェーン。いま帰ったよ」
キャスパーは玄関扉の鍵を開けると、奥に向かって声を掛けながら中に入る。
部屋の中は薄暗く、窓のカーテンはすべて閉まっていた。
「ジェーンが寝ているのはこっちだ」
キャスパーの案内で、四人は家の奥へと進んだ。
家の中は狭く、台所兼食堂と、居間、それに寝室と洗面所があるだけだ。
「なんだここは」
部屋の中を見回したバートランドが顔をしかめる。
「本当にこんなところに病人を寝かせているのか?」
食卓の上には、調剤用の秤、乳鉢、皿、パラフィン紙、さまざまな薬剤を入れた瓶などが乱雑に並んでいる。卓上には粉末がところどころに散らばっており、どんな劇薬が混ざっているかわからない以上は近寄るべきではないと思われた。床には処方箋やメモ書きのような紙片が放り出されており、割れたガラスの破片もある。部屋のどこを見回しても埃っぽく、しばらく掃除をした形跡がなかった。
身体が弱っている病人がこのような部屋にいるべきではない、とミリセントは考えたが、キャスパーの給料ではもっと快適な部屋に住むことは難しいのだろうし、せめて掃除をしなければならないと考える余裕もないと思われた。
寝室となっている部屋には、ベッドがひとつ置いてあった。そこに毛布をかぶるようにして横たわる人影が見えた。
「彼女がジェーンだ」
キャスパーが手で示して説明する。
「毎日ほとんど眠って過ごしている」
ジェーンのベッドの周囲には、特に治療道具などは置かれていない。彼女は本当にただベッドに横たわっているだけのようだ。点滴などの器具もない。病院のような消毒薬などの臭いもしない。
プリーストを先頭にしてミリセントたちがベッドに近づくと、ジェーンの顔を見ることができた。
「ほう、こちらが」
プリーストの背後からベッドを覗き込んだミリセントは絶句した。
顔がかなり痩せこけた女性が、虚ろな濁った目で天井を見つめている。長い黒髪には白髪が交ざっており、髪は艶がなくぱさぱさしている。肌の色もくすんでおり、かすかに開いた唇はかさついている。一目で栄養失調であることがわかったが、どうやら自力で食べることすら難しい様子だ。
「ジェーン。僕が勤めている診療所の所長が来たよ。君をどうしても診察したいって言うんだ。ごめんね。君が医者に診てもらいたくないって言っていたのは忘れていないけど、もうこうするしかないんだ」
弱々しい口調でキャスパーが言い訳がましく説明すると、ジェーンの睫がかすかに動いた。
彼女の喉の奥から、わずかに「あ……」と呻き声が聞こえる。
そのままプリーストが診察するのかとミリセントは思ったが、なぜかプリーストはウェインを前に押し出した。
プリーストと入れ替わる格好になったウェインは顔をしかめてため息をついたが、ジェーンの顔をのぞき込むと耳元でささやくように声を掛けた。
「こんにちは、水曜日。いえ、ジェーンさん。僕はプリースト診療所の内科医でウェイン・グレイと言います。はじめまして」
ゆっくりとした口調でウェインが挨拶すると、ジェーンの瞼が声に反応するように痙攣した。
「あぁ、合い言葉が必要でしたね。ここは約束の場所ではありませんが――アンブローシア・レシピ」
(いま、ウェインはなにか不思議な言葉を呟かなかった?)
兄の一挙手一投足を見つめながら、ミリセントはなぜか胸の中で不安が沸き起こるのを感じた。
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