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「アンブローシア・レシピ」第6話

1914年10月3日(2) ロンドン

「リーデンホール街の教会前で! すぐここに運んでくれるって司祭様がおっしゃってます!」
 リーデンホール街といえば、ほんの二区画先だ。
「……刺された?」
 呆然と呟きながらミリセントは持っていた鞄を強く抱きしめた。
「なんで」
 いまは理由など聞いている場合ではないことはわかっていたが、ミリセントの思考は停止していた。
「怪我のていどは?」
 脱ぎかけていた白衣を羽織り直したバートランドが冷静に尋ねる。
「かなり出血しているけれど、意識はあるそうです! ご自身で司祭様にここの電話番号を伝えたとのことです!」
 エムズワースが受話器を握ったまま受付から顔を出して叫ぶ。まだ電話は繋がっているらしい。
 待合室では、ウェインが診療所に戻ってくるのを待っていた患者たちが心配そうに顔を見合わせた。
「すぐってどれくらいだ?」
「車で運んでくれるので、五分とかからないそうです! もうあちらを出たそうです!」
「わかった」
 診察室の扉を開け放ったバートランドは、壁に寄りかかるようにして震えているミリセントを横目で見ながら「手伝え」と短く告げた。
「どこのどいつだい、グレイ先生を襲ったのは」
「あんた、グレイ先生の妹さんなんだろ? 大丈夫かい? 椅子に座るかい?」
 さきほどまで憂鬱そうな顔を並べていた患者たちは急に活力を取り戻したように元気よく立ち上がり、きつい下町訛りで犯人を罵ったり、ミリセントを気遣い声をかけたりした。
「だ、大丈夫、です……ありがとう、ございます」
 深呼吸を三回ほど繰り返したミリセントは、扉が開け放たれた外科の診察室から漂ってくる大量の消毒薬の臭いを嗅いで落ち着きを取り戻した。
 幼い頃に両親と他の兄姉を事故で失ったミリセントにとって、兄のウェインはたったひとりの家族だ。
「さっさと手を洗ってこい。エムズワースさんにエプロンを借りて着けておけ」
 早口で指示を出したバートランドは、診療所の入り口に視線を向けて患者の到着を待ちわびている。口調は落ち着いているが、彼の険しい目つきから苛立っていることが伝わってきた。
 ミリセントは鞄をウェインの診察室の中に放り込み、外套を兄が椅子にかけていた白衣に重ねるように置き、診察室内の洗面台で手を洗う。そして、エムズワースが持ってきた白い看護婦用のエプロンを着けた。看護婦としての勉強はしていないが、ウェインがロンドン大学の医学部生だった頃に縫合や包帯の巻き方を家で練習していたのを一緒に真似して覚えた。働きに出る前は診療所の手伝いをしたこともある。
 そのていどの知識でも、猫の手くらいにはなるだろうとバートランドも考えたのだろう。
 まもなく、怒鳴り声とともに診療所の扉が騒々しく開け放たれ、三人の男に抱えられるようにしてウェインが運び込まれていた。担架は教会や近所になかったようだ。
 黒い外套を羽織ったウェインは、意識があるのか左の脇腹を自分の手で押さえている。白いシャツは腹部全体が鮮血で染まっており、彼からは血の臭いが漂ってきた。
 床に血がぽつぽつと落ちる。
 ミリセントと患者たちは固唾をのんでウェインが運ばれていくのを見守った。
 バートランドは男たちに指示し、ウェインを外科の診察台まで運んでもらう。
 エムズワースが手早く血で汚れた外套と背広をウェインから剥ぎ取り、椅子の上に丸めて放り投げた。
「どんな具合だ? 傷の深さと出血の量、凶器を説明できるか?」
 ウェインの手を退かせながらバートランドがシャツのボタンを外すと、横から手を出したエムズワースがはさみで肌着ユニオンスーツを一気に切り裂いた。
「刃渡り十インチくらいのナイフ……かな……内臓までは達していないはず……だが……そこそこ出血……してる」
 青ざめた顔でウェインが浅い呼吸を繰り返しながら弱々しく答える。つるばみ色の瞳は眼鏡で覆われており、さらに灰褐色の前髪が目元を隠しているので、目を開けているのかどうかはわからない。額からは脂汗が流れており、唇からは血の気が引いていた。
「なるほど。まぁ、大体そんな感じだな。かなり出血はしているようだが、自分で状況を説明できるていどには意識ははっきりしているようだし、重傷だが死ぬほどの傷ではなさそうだ。まずは傷口を消毒して縫って鎮痛剤と抗生物質を飲んでおくことだな」
 バートランドは傷の状態を確認すると、小さく息を吐いた。どうやら彼が想像していたよりも傷は浅かったらしい。
「あぁ」
 痛みに耐えながら顔をしかめたウェインが同意すると、バートランドはすぐさま薬品棚から取り出した麻酔を患部の周囲に打ち始めた。
 ミリセントは消毒薬や脱脂綿、針や糸、ガーゼ、包帯と指示されるままにバートランドに渡していく。
 傷口は五インチほどだったが縫うだけで十五分ほどかかり、すべての処置が終わった頃にはウェインが運び込まれてから四十分ほど経過していた。
 ミリセントが兄の部屋から洗濯済みのシャツを持ってきて渡すと、「ありがとう」と言いながらウェインは傷の痛みに耐えつつゆっくりとシャツの袖に腕を通した。そして、「ミリィ?」と不思議そうな表情を浮かべた。
「なんでここにいるんだ? 仕事は?」
 腹に力が入らないためウェインはか細い声しか出せなかったが、言葉は流暢だ。横になりかけて起き上がろうとしたため、バートランドに「寝てろ」と肩を押された。
「今朝、失業したから戻って来たところ。しばらくここに置いてもらおうと思って」
 できるだけ平静を装ってミリセントは答える。診療所に到着するまでは解雇されたことに腹が立って仕方なかったが、いまはウェインが襲われたことの衝撃が強すぎてモーガン夫人に対する怒りは消失していた。
 麻酔が効いているからか、すぐに手当てをしたのが良かったのか、ウェインの肌はさきほどよりは血色が戻りつつあった。意識が混濁している様子はない。出血のわりに傷は浅かったのかもしれない。
 診察室の外では「グレイ先生は無事だ」と誰かが叫び、拍手が沸き起こっている。
「ひとまず三日後に傷の具合を見ていつ抜糸するか決めるが、当分はおとなしくしてろよ」
 バートランドは血で汚れたウェインのシャツをミリセントに渡しながら、怪我人に告げる。
「おーい。内科はしばらく休診だ。専門外の俺が診るんでもいいって奴以外は、他の診療所に行くか後日所長が帰ってきてから出直してくれ」
 廊下で待機していた内科の患者たちは、文句ひとつ言わず帰り支度を始めた。内科が専門外のバートランドに診てもらう気はさらさらないようだ。
「グレイ先生、お大事に」
 内科の診察を待っていた患者たちは、診察室をのぞき込みウェインに挨拶をすると次々と去って行く。外科の患者はいなかったようで、途端に待合室はひとがなくなった。
 バートランドによる治療が終わるのを見計らったように、制服姿の警察官が二人組で現れた。ロンドン警視庁の巡査だと名乗った二人は、バートランドから「5分くらいなら」と言われて軽く頷くと、ウェインを刺した暴漢を取り逃がしたことを報告した。
「かなりの重傷のようなので、手短にお伺いします。どのような人相の犯人だったか、覚えていますか」
 二人のうち壮年らしき警察官が、ミリセントの手にある血染めのシャツに目をやりながら早口で尋ねる。このような事件はロンドンの街中では珍しくないので、被害者への事情聴取は形式的におこなっている印象だ。
「さぁ? 服装から、男のようだったような……」
 ウェインは首を傾げながら曖昧に答えた。
「顔見知りではなかった、ということですか」
「顔は、よく見ていません」
 少し考え込んでからウェインは告げた。
「年齢は?」
「さぁ、はっきりとは……。そういえば、帽子をかぶっていたような気がします。だから、帽子のつばが陰になって顔がよく見えなかったのかもしれません」
「暴漢に襲われたのは、これが初めてですか? なにか、心当たりは?」
「こんなことは初めてで……。特に心当たりはありません」
 怪我をしているので声量は少ないが、ウェインは穏やかな口調で答える。
「犯人はいきなり襲ってきたんですか? なにかあなたに向かって言いましたか?」
「気づいたときには刺されていたので、相手がなにか言っていたかどうかは覚えていません。周囲の人が私を刺した男を取り押さえようとして叫んでいる声は聞こえた気がしますが」
「目撃者の話では、犯人は労働者のような服装をした男ということですが、本当に見覚えはなかったんですか? この診療所の患者やその家族で、あなたを逆恨みして襲ったということはないですか?」
「逆恨み、ですか?」
「あなたが患者の診察を拒否したとか、あなたの誤診のせいで患者だった家族が死んだと思い込んでいるとか」
「私が診察を拒否したことはないはずです。誤診については、私の記憶の範囲ではありませんが……っ」
 穏やかな口調でウェインは答えていたが、腹に力が入って傷に響いたのか、顔をしかめて腹部に軽く手を当てた。
「そろそろ、お引き取りいただけますか」
 腕時計で時間を確認しながらバートランドが警察官ふたりに声をかける。すでに彼らがウェインと話を始めてから5分以上が経過していた。
 巡査たちは「お邪魔しました。お大事に」と挨拶をして、犯人逮捕に繋がる情報が得られなかったことを残念がる様子もなく去って行った。
 警察官たちと入れ替わるようにして、今度は新聞社の記者だという男が現れた。
「グレイさん! 暴漢に襲撃されたということですが、少々お話を――」
 新聞記者は名刺を差し出しながらウェインに近づこうとしたが、バートランドが険しい顔で相手を睨み付けると同時に、エムズワースが診察室に入ってきて素早く記者の上着の襟首を掴み廊下へと引きずり出した。
「二度と来るんじゃないよ!」
 エムズワースの怒声と同時に記者は診療所から追い出されたようだ。
 普段の彼女は下町の面倒見の良い婦人といった風情だけに、ミリセントはその剣幕に驚きつつ、記者が床に落としていった名刺を拾った。
(デイリー・メール記者ジョン・スミス――ジョン・スミス?)
 名刺に書かれた文字を、ミリセントは三回見直した。
 タブロイド紙の記者の、やけに平凡すぎる名前はほんの数日前に耳にした覚えがある。
(先日ケンブリッジの旦那様を訪ねてきた人もジョン・スミスって名前だったような気がするけれど――でも、あれはジョンじゃなくてジャックだったかしら。それともジョージ?)
 オリバー・モーガンの訪問客は名刺を出さなかったので、ミリセントは客とサイモンの会話を漏れ聞いただけだ。そのため、はっきりとは覚えていなかった。
(ジョン・スミスなんてよくある名前だから、ロンドン中を探せば二人や三人はジョン・スミスがいるでしょうね)
 ひとまず名刺はエプロンのポケットに入れておくことにした。
「とりあえず痛み止めを飲んでおけ」
 バートランドは薬品棚からアスピリンの錠剤を取り出してウェインに渡す。
 慌ててミリセントはガラスのコップに水を入れてウェインに差し出した。
 礼を言って薬とコップを受け取ったウェインは素直にそれを飲んだ。
「腹が減ったな」
 ぼやきながらバートランドが腕時計を見る。
 ミリセントも廊下の壁にかかっている振子時計に視線を向けると、時刻はすでに午後2時を過ぎていた。
「おい、ミリセント。昼食と煙草を買ってきてくれ。さすがに俺も疲れた。フィッシュアンドチップスでもうなぎパイでも適当に……」
 白衣のポケットから一ポンド札を出してバートランドが言いかけたときだった。
「サンドイッチなら用意しましたよ」
 大きな盆にたくさんのサンドイッチと紅茶のポットとカップを載せて、プリースト家の家政婦であるヘザー・オニールが恰幅の良い身体を揺らしながら現れた。
「バターとキュウリを挟んだものと、イチゴジャムを挟んだものがありますよ」
「お、ありがたい」
 ひとまず煙草は食欲を上回らなかったらしく、バートランドは一ポンド札をポケットにしまってオニールを歓迎した。
「ミリセントさんもどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
 どうやらオニールは診療所内の騒ぎを患者の誰かから聞いたらしく、ミリセントが来ていることも知っていたらしい。
「グレイ先生、お茶はいかがですか?」
 診察台の上で横たわるウェインに、オニールは笑顔で尋ねる。怪我をしたばかりの患者だろうがお茶を勧めるのが彼女の流儀だ。
「いや、遠慮しておきます。しばらくここでおとなしく休ませてもらいます」
 ウェインは苦笑いを浮かべながら小さくため息をついて瞼を閉じる。
「ミリセントさん、はい、熱いお茶をどうぞ」
 オニールはカップに紅茶を注ぐと、ミリセントに差し出した。
 それを受け取って温かい湯気を顔に浴びた途端、ミリセントの両眼から勢いよく涙が溢れた。


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