「アンブローシア・レシピ」閑話
1901年3月9日 ロンドン
「わたし、きょうから5さいなの」
ミリセント・グレイが胸を張って自分の誕生日を申告した。
「だから、きのうよりおねえさんなのよ」
「なるほど」
神妙な顔でダニエル・プリーストは頷く。
「あ! 今日はミリィの誕生日だったか!」
部屋の壁にかかっているカレンダーを確認したウェイン・グレイが青ざめて頭を抱える様を、プリーストは珍妙な物を見るような目つきで眺めた。
かつて彼が『師匠』と呼んでいた男は、こんな風に誰かの誕生日を気にする性格ではなかった。『土曜日』という通称で呼ばれていた頃は、皆に誕生日があることなど忘れていた風だったし、お互いの年齢を意識することもなかったはずだ。
いまではダニエル・プリーストと名乗っている元・名無しの彼も、現在は誕生日がある。赤ん坊だった自分の肉体が母親の腹から出てきた日がいつだったかは知らないが、ダニエル・プリーストには生まれた日の記録がある。名前と誕生日があるだけで地に足がついたような気分になることを、彼は初めて知った。
「ミリィは……わたしは、1896ねん3がつ9かうまれなの!」
いつもは自分のことを「ミリィ」と言っていたミリセントだが、5才になったので「わたし」と言うことにしたらしい。
誕生日を迎えただけで意識まで成長するものなのか、とプリーストは感心した。
「ウェインは1882ねん4がつ19にちだから、らいげつおたんじょうびよ」
ミリセントは家族全員の名前と生年月日を覚えている。
彼女にとって、誕生日は特別なものらしい。
去年の10月に三人でロンドンにやってきて以来、ミリセントは『兄』であるウェインにしがみついていることが多かったが、最近になって兄の姿が見えなくてもすぐには泣かなくなった。
兄と姉が三人ずついたというミリセントは、幼いわりにしっかりした子供だった。
時折「そんなおぎょうぎわるいことすると、かあさんにしかられるのよ」と大人ぶってウェインやプリーストに注意することもあるくらいだ。
昨年までヨハネスブルグで暮らしていた土曜日と元・名無しのふたりは、錬金術師オルダス・マインの工房で作られていた霊薬を、土曜日の記憶を頼りに元・名無しが再現するという研究をしていた。さらにその霊薬を改良し、不老不死を得ることはできなくても、あるていど健康で長寿な肉体を実現することを目標に掲げていた。ふたりは寝食を忘れて研究に没頭することもしばしばあった。土曜日はなにかに熱中する性格ではなかったが、元・名無しがすることは興味深そうに眺めていた。
ロンドンにて三人で暮らすようになり、ミリセントの世話がふたりの重要な使命となった現在、霊薬の研究はすべて中断している。
たくさんの東洋医学、東洋薬学の資料も手放さなければならなかったことは残念だったが、これまでの研究資料は土曜日の記憶の中にあるから、という理由で、ヨハネスブルグに置いてきた。
いまは、面倒臭がるウェインにノートを渡して「今日はここに『傷寒雑病論』を書いてください」などと資料の名前を指定し、ひたすら拝み倒して書いてもらっている。ウェインは数々の書籍や論文の内容を理解しているわけではなく、目で見た通りに記憶しているだけなので資料の文字そのままをそっくりに書くのだが、とにかく彼は字が下手だった。
特に漢字の資料を書き写したノートはプリーストが一行解読するだけで半日かかることもあるくらいだが、そもそもいまは半日ゆっくりとノートを睨んでいられることなど滅多にない。
それはウェインも同様だった。
いま、プリーストは内科の開業医としてロンドンの片隅で働いている。
土曜日の弟子を自称していた当時から、医学と薬学の勉強はしていたので、医学について多少の心得はある。ただ、学校で勉強したわけではない。医師としての資格を持っていない闇医者どころか、医学の正しい知識もない偽医者だ。それでも、ロンドンの下町では重宝されている。
彼が名を受け継いだ『ダニエル・プリースト』は、正真正銘の医者だった。なぜ『ダニエル・プリースト』が昨年ヨハネスブルグからケープタウンに向かう列車に乗っていたのかはわからないが、間違いなく医者の資格を持った男だった。
「儂は、嬢ちゃんに誕生日の贈り物を用意してあるぞ」
プリーストは自慢げに宣言すると、鞄の中から赤いリボンがかかった小さな箱を取り出した。
「嬢ちゃん。5才の誕生日、おめでとう」
クッキーの甘い匂いが漏れる箱をプリーストが差し出すと、ミリセントは破顔した。
「せんせい、ありがとう!」
兄との清貧生活の中で甘い菓子を滅多に買ってもらえないミリセントは、飛び跳ねるようにして喜んだ。
「あと、兄さんにはこれをやろう」
プリーストは鞄の中から大きな封筒を出すと、ウェインに渡した。
「なんですか、これは」
素直に受け取ったウェインは、中身を確認して顔をしかめる。
「大学の、願書?」
「ロンドン大学の医学部を受験してはどうかね。兄さんには将来医者になって、儂の仕事を手伝って欲しいんだ」
「いやいやいや。無理ですよ。僕はろくに学校にも通っていない炭鉱夫の息子ですよ?」
書類を封筒に戻したウェインは、それをプリーストに突き返そうとした。
「そもそも、大学に入れるような学歴はありません」
「そこはまぁ、なんとかする」
「なんとかしなくていいです。それに僕は、記憶力は人より優れていても、応用力がないんです。なんでも覚えているからって大学に合格できるわけではないし、医学部を卒業できるわけでもないし、医者になれるものでもないですよ」
「兄さんの素晴らしい記憶力はいまだ健在じゃないか。医者になったら、きっと儂よりも患者に信頼されて病院も繁盛するに違いない! そうすれば、嬢ちゃんだって毎日クッキーやチョコレートが食べられるぞ!」
プリーストが褒めちぎると、ミリセントも大きく頷いた。
「ウェインはなんでもおぼえていておりこうさんよ」
「……ありがとう」
妹に褒められると、ウェインも悪い気はしないらしい。
5才とはいえ、ミリセントは『兄』であるウェインの扱い方に長けていた。
「いまから一年かけて勉強すれば、来年は医学部に合格できるはずだ」
「暗記すればなんとかなる教科はともかくとして、数学は……」
「あらゆる過去問と答えを記憶すればいいじゃないか」
「無茶を言いますね。記憶するにしたって、全部に目を通さなければならないんで時間がかかるんですよ」
目を通した物すべてを記憶すること自体は、無理ではないらしい。
さすがは日曜日に見込まれただけのことはある、とプリーストは感心した。
土曜日がどのような家庭で育ったのか、プリーストは知らない。彼が話さないからだ。ただ、恐ろしく記憶力が良い彼の能力を認めたのは、錬金術師である彼の伯父だけだったらしい。家族と離れ、伯父の工房に入った彼は、やがて『土曜日』と呼ばれる錬金術師のひとりになった。
元・名無しのプリーストも自身の家族のことは覚えていない。子供の頃のことはもうすっかり忘れてしまった、と言う方が正しいだろう。百年以上生きていると、とっくに死んでしまった血縁者のことなど気にするだけむなしいものだ。
お互い、血縁など頼りにするものではないと考えて一世紀以上を生きてきた。
なのになぜか、ふたりともそれぞれ名前を持った途端にその信条がまったく変わってしまった。
それまで漫然と世界を放浪していた男が、『ウェイン・グレイ』という名を得た途端に『ミリセント・グレイの兄』という役目を担うことになったのだ。
毎日、朝から晩まで妹の世話に明け暮れ、料理に失敗してはうなだれ、洗濯物が乾かないといってはいらつき、埃があると健康を害すると言って熱心に掃除をする。
そんな師匠の姿を、自称・弟子であったプリーストは半年前まで一度も見たことがなかった。
「儂が誤診して患者を死なせる前に、兄さんも医者になって儂の仕事を手伝ってくれ」
「あなたの医学の知識は玄人並みじゃないですか」
「儂の知識は、古い!」
「いや、まぁ、それは……否めないですね」
お互い長生きはしているのだが、これまでは不老不死の霊薬の研究が中心だったため、古い医学書ばかりを大量に読み込んでいた。当然ながら、最近の医学書など手に取ったことはなかった。
また、元・名無しは特別知能が高いわけではない。
長い時間をかけて研究を続けた結果、知識が深まったに過ぎない。
「知っているか? 近頃は、医療現場で瀉血はほとんどしないんだそうだ」
「それは知ってます」
ウェインとプリーストが生まれた時代、医療行為としての瀉血は一般的だった。
「病院の衛生管理も重要視されているらしい」
「そのようですね」
「ということで、兄さんは大学に行って、最新の医学を学んできて欲しい。学費は出す」
「なにが『ということで』ですか。どうせ出すなら、ミリィの学費を出してください」
いまのところ無職であるウェインが要求する。
「ウェイン、おいしゃさんになるの? せんせいみたいになるの?」
それまで黙って贈り物のリボンを引っ張ったり結び直したりしていたミリセントが、目を輝かせて尋ねる。
「おいしゃさんって、すっごいかしこくないとなれないってとうさんがいってたわ。せんせい、すっごいかしこいのね」
「嬢ちゃんの兄さんも賢いから、頑張って勉強すれば儂と同じ医者になれるとも」
プリーストが安請け合いする。
「そうなの? ウェイン、すっごいね!」
興奮した様子でミリセントが頬を赤くして声を上げる。
「わかった……先生よりも優秀な医者になる!」
なぜか急にプリーストに対抗意識を燃やしだしたウェインが、願書を天井に向けて掲げ宣言した。
「あ、そうだ。あれをミリィにあげよう」
急に誕生日の贈り物を思いついたのか、ウェインはいそいそと部屋の隅の戸棚を開けた。そして、奥から一冊の古びた書物を取り出すと、妹の目の前に差し出した。
「ミリィ、5才の誕生日おめでとう」
「わぁ!」
なにをもらったのかよくわかっていないままミリセントが喜びの声を上げる。
「に、兄さん……それは……」
ウェインが差し出した物を確認した途端、プリーストは声を上擦らせた。
「ウェイン。これはなあに?」
ミリセントは兄が差し出した物を受け取りながら首をかしげた。
「祈祷書だよ。……母さんの形見の」
さらりとウェインが大嘘をついたので、プリーストは目をむいた。彼はウェインに対してなにか言おうとしたが、口をはくはくと動かすだけで声は出なかった。
「かあさんのかたみ?」
「母さんが残してくれた物ってことだよ。この祈祷書はお守りだ。毎日これを持ってお祈りすると、神様と母さんがミリィを守ってくれるよ。病気とか、事故とか、とにかくいろんなことから」
ウェインが説明すると、ミリセントはしばらく考え込んでから口を開いた。
「これは、かあさんはまもってくれなかったの?」
「そうだね……。でも、代わりに、ミリィを守ってくれた」
妹の赤く柔らかいくせ毛を撫でながらウェインは告げる。
「だから、この祈祷書はミリィがいまからずっと大事に持っていて」
「うん。ウェイン、ありがとう。たいせつにするわ」
ミリセントは目にうっすらと涙を浮かべながら祈祷書を胸に抱きしめる。
「兄さん、それを嬢ちゃんに渡すのは……」
「母さんの形見だから、ミリィが持っているべきだと思うんだ」
「いや……」
プリーストは祈祷書の本当の価値がわからない子供に持たせるべきではないと思ったが、どう言えば相手を納得させられるのかが思いつかなかった。
「母さんの形見だよ」
ウェインは頑固に言い張った。
プリーストはその祈祷書がどのような物であるか、承知していた。
錬金術師垂涎の的である『賢者の石』を液化させ、それをインクとして祈祷文を書いた祈祷書だ。つまり、この祈祷書そのものがほぼ『賢者の石』だと言ってもいい。
この祈祷書を所持する者は、望みさえすれば不老不死を手に入れられる。
かつて日曜日が所持していたこの祈祷書を、土曜日が受け継いだ。
祈祷書の価値を知っているのは、オルダス・マインの中では水曜日だけだった。
元・名無しだったプリーストは、一度だけ水曜日から「土曜日が持っている祈祷書をこっそり持ち出してくれないか」と頼まれたことがある。しかし、元・名無しが手に入れられたのはそっくりに作られた偽物の祈祷書だけだった。後になってから、それは日曜日が用意していた物であることを知らされた。
オルダス・マインの工房では、『賢者の石』のような希少な物ではなく、比較的量産可能な霊薬の研究をしていた。
病に身体を蝕まれていた水曜日は、日曜日が所持していた『賢者の石』を狙って工房に入ったが、結局日曜日を完全に籠絡することも祈祷書を手に入れることもできなかった。
祈祷書を受け継いだ日曜日の甥は、他の男たちと違い、水曜日に誑かされることはなかった。土曜日は女性に興味がないというよりも、他人と関わることを最初から拒んでいた。工房の仕事をする際は協力的だが、それ以外では誰にも近づこうとしなかった。
そのうち、水曜日の弟であった土曜日が殺され、水曜日は復讐を計画した。そのために、水曜日は未完成の霊薬に『アンブローシア』と名を付け、復讐の道具として利用しようとした。
工房で作った霊薬はそれなりに不老不死の効果がある。それは四人の錬金術師たちと元・名無しが証明している。ただ、万能薬ではないし、効果も永遠ではない。他の薬の効きが悪かったり、毒に対しては霊薬の効果が薄かったりする。
霊薬を服用して百年以上が経過した現在、不老の効果も薄れてきており、ダニエル・プリーストという名を得た元・名無しはいまや五十代の容姿だ。
土曜日はパリを出た際にこれ以上工房に関わりたくないと考えたのか、結局百年以上ロンドンに近寄ろうとしなかった。本人は「ロンドンに行くつもりだった」と言っていたが、大陸をぶらぶらしている間にロンドンからますます離れてしまった。
そしていまロンドンにいるのは、錬金術師オルダス・マイン工房の土曜日ではなくウェイン・グレイだ。希代の錬金術師の甥ではなく、炭鉱夫の息子になっていた。
どういうわけかウェインは、『炭鉱夫の息子』という設定が気に入っているらしい。ウェイン・グレイの人物設定では賢くなくていい、乱暴な言葉を使ってもいい、仕事をしなくてもいい、となっている。ただし、妹の世話は最重要課題だ。
「では、嬢ちゃんの誕生日を祝して、元気になれる亀のスープを食べよう!」
「待て」
プリーストの提案にウェインが眉をひそめる。
「スッポンという亀で、実はこれが大変滋養強壮にいいんだ」
「ミリィに妙な物を食べさせるな」
台所に用意して置いた鍋を運ぼうとするプリーストをウェインが止める。
「妙な物じゃない! 身体にいい!」
「ミリィの誕生日を覚えていたのなら、ケーキを用意しろよ!」
「買い物に行く途中で中華街でスッポンを売っているのを見つけてしまってなぁ。ヨハネスブルグの市場では見たことがなかったから思わず買ってしまったよ」
「なんで中華街に行ったんだ!?」
「なにか面白い物でも売ってないかと、ついつい足が向いてしまうのだよ。それで、スッポンを買ったら金がなくなったんだ」
「返品してこい」
「もうさばいて調理してしまったし、返品は無理だな」
かつては出てきた料理を黙って食べていた師匠が、弟子の献立にけちを付ける日が来たことにプリーストは面白がっていた。
「かめって、たべられるの?」
ミリセントが興味深そうに鍋をのぞき込んでくる。
「どんなあじ?」
「それは、食べてみてのお楽しみだ」
プリーストはスープ皿とスプーンを食卓に並べながら告げる。
「ミリィ。いまから僕とケーキを買いに行こう」
財布を掴んだウェインは、まだ春先で外は寒いからと妹に外套を羽織らせマフラーを首に巻く。
「ミリィはもう5才だから、先生の料理がどんなに危険かってこともわかるよな?」
「うん。わかるわ」
兄と手を繋いで、ミリセントは大きく頷いた。
「スッポンって、しにかけのおじいさんがいまわのきわにたべるんだってかあさんがいってたわ。わたし、しにかけじゃないし、おじいさんじゃないからたべないわよ。でも、いわまのきわってなにかわかんないわ」
意味がわかっているのかわかっていないのかは明白ではないが、ミリセントがスッポンのスープを「食べてはいけない物」と理解していることだけはウェインにも伝わった。
「ミリィはおりこうだな。今わの際ってのは、死にかけで息を引き取る寸前ってことだよ。まぁ、そんなときにスッポンのスープが出てきても、とてもじゃないが飲めないと思うけどな」
よしよし、とウェインは妹の頭を撫でてからフェルトの帽子をかぶせる。
そんな兄妹の微笑ましい光景をプリーストはにやにやしながら眺めていた。