「アンブローシア・レシピ」第2話
1794年8月3日 ロンドン
夏の陽射しで水面が輝くテムズ川のほとりに立つウェストミンスター寺院の前には、日曜日ということもあってか大勢の人が行き交っていた。
フランスでは先週の日曜日にジャコバン派の政治家ロベスピエールが逮捕され、翌日には断頭台で首を切り落とされたという。
ロンドンに到着した木曜日が最初に読んだ新聞の記事の大見出しが、ロベスピエールの処刑に関するものだった。切り落とされたロベスピエールの首を処刑人が掴んで掲げる刺激的な挿絵は、木曜日にはすっかり見慣れた光景だ。
パリでは連日のように断頭台で誰かが首を斬られている。そして、いまやそれは見世物となっていた。処刑台の改良を提案した男の名を冠してギヨティーヌと呼ばれている断頭台は、いまやフランスでその姿を知らぬ者はいないほどになっている。
不死薬を飲んだ者があの断頭台で首を切られそうになったらどうなるのだろう、と木曜日は純粋な疑問を抱きながら、目の前を歩く人々の姿を眺めた。
パリからロンドンまでの移動は苦難の連続だった。
まさかフランスからカレー海峡を渡ってロンドンにたどり着くまでに一年以上もかかるとは、想像もしていなかった。
形見函を入れた鞄を抱えた木曜日は、きょろきょろと通りを歩く人々を見回した。
ロンドンの治安はパリと大差ないように思われたが、それにしても様々な階級の人々がいるものだと木曜日は感心した。聞こえてくる英語はロンドン訛りなのか、木曜日がよく聞き取れない単語が周囲でたくさん発せられている。
あまりにも大勢の人が目の前を通り過ぎていくため、木曜日は人混みで酔いそうになっていた。パリで暮らしていた当時の穴蔵のような工房が懐かしく思えたくらいだ。
「やぁ、木曜日」
すっと目の前に人影が現れたかと思うと、労働者のような格好をした小男が木曜日に英語で話しかけてきた。
「合い言葉を聞こうか」
男はかぶっていた帽子を脱ぎながら木曜日に笑いかける。
痩せぎすのその男をまじまじと見つめた木曜日は、相手の口元のほくろに見覚えがあることに気づいた。
「…………金曜日、か?」
「合い言葉を」
小男はシャツの襟元から紐を通して首から提げていた鍵を取り出して見せると、木曜日に繰り返す。
「アンブローシア・レシピ」
木曜日が答えると、小男はにやりと笑みを浮かべた。
「どうだ? わからなかっただろう?」
「あぁ! まったくわからなかった! まるで別人のような痩せようじゃないか! まさか、本当に海峡を泳いで渡ったわけじゃないよな?」
「船に乗って渡ったに決まってるだろう」
金曜日は鍵をシャツの中にしまいながら苦笑いを浮かべる。
「あなたの方こそ、ここにたどり着くまでにずいぶんと時間がかかったじゃないか。一カ月もあればロンドンで皆が集まれると思ったのに、いつまで経ってもあなたが現れないから心配したんだぞ」
「まさか、水曜日と土曜日はまだ来ていないのか? 私が最後だと思ったのに」
「水曜日には会ったが、土曜日はまだだ。といっても、私がロンドンにたどり着いたのは今年の二月なんだがね」
金曜日は木曜日の肩を叩きながら答える。
「毎週日曜日にここに来るたび、もしかしたらウェストミンスター寺院で集まろうと聞いたのは私の空耳だったんじゃないかと何度も不安になったんだ。いやぁ、あなたと再会できてうれしい限りだよ」
上機嫌で金曜日は告げる。
「あなたは、いまはどこの宿に泊まっているんだい? それとも、もう家を借りたのかい?」
金曜日の質問に木曜日は首を横に振る。
「いいや。もっぱら野宿だよ。冬の間は安宿を転々としていたがね。ロンドンに着いたのが二日前なんだよ。実はパリを出てカレー港に到着してすぐに掏摸に財布を盗られてね」
「え? まさか形見函まで……」
「荷物は無事だよ」
木曜日は鞄を手で叩きながら答えた。
「着替えと一緒にこの小汚い鞄に入れていたのが幸いしたようで、上着のポケットに入れていた財布だけが擦られたんだ。どうも子供の掏摸だったみたいで、すれ違いざまに軽くぶつかられたと思ったら財布がなくなっていたんだよ。で、船賃を稼ぐために賃仕事をあれやこれやとする羽目になってね。仕事をしているうちになぜかダンケルクに移動していて、そこで親しくなった漁師が船でドーバーまで送ってくれるというので乗せてもらってね。ドーバーにようやく着いて、そこからロンドンまでの移動方法がよくわからなくて、巡礼者に紛れて人に道を聞きながら歩いていたらカンタベリー大聖堂にたどり着いてね」
木曜日はいかに自分の旅が大変であったかを延々と喋ろうとした。
「なにはともあれ、あなたと再会できて安心したよ。ここで延々と立ち話をするわけにもいかないから、私が借りている家に行こう。この近くなんだ」
金曜日は木曜日に説明した。
「腹も減っただろう?」
「確かに腹は減っているが、私はそれよりも君がどうしてそんなに痩せてしまったのかが気になるな。まさか君も、ドーバーからロンドンまで歩いてきたのかい?」
「いや。私は乗合馬車に乗って来たよ」
金曜日は饒舌になっている木曜日の腕を引っ張るようにして道案内をしながら答える。
「乗合馬車で偶然乗り合わせた男と親しくなってね。医師なんだが、彼は錬金術に興味があると言うんだ。医学は進歩しているとは言っても万能ではないから、彼は医学に限界を感じ、錬金術に新たな可能性を求めるようになったんだ」
「なるほど。つまり、我々の研究と通じるものがあるというわけだ」
金曜日の説明に、木曜日は顔を輝かせる。
昨年、水曜日がロンドンに拠点を移すと言い出した際は、後援者にあてがあるのかなど心配したものだったが、どうやら金曜日は新たに自分たちが錬金術師として活動できる場所を見つけていたらしい。
「我々『オルダス・マイン』が作り出した霊薬は、まだ完全なものかどうかは証明できていない。完成して一年は経過したが、まだたった一年だ。我々の『アンブローシア』が本当に不老不死を実現できているかどうかを確認するには、十年、百年という長い年月が必要だ」
「確かに」
熱心に語る金曜日の顔を見つめながら、木曜日は頷く。
「だから、私は知り合った医師の男と一緒にフリーメーソンを結社することにしたんだ」
「ほう」
「『灰の円環』という名前の団体だよ。錬金術師『オルダス・マイン』のロンドンでの新たな拠点になればと思ってね」
「悪くない。しかし、土曜日はともかくとして、水曜日は反対するかもしれない。あの人は、他の錬金術師との交流を好まない人だ」
「水曜日は、師匠であった日曜日の教えをかたくなに守る人だからな。その点、土曜日は日曜日の甥だって言うのに……」
「土曜日は、工房を身内に継がせたい日曜日が無理矢理連れてきただけで、別に錬金術に興味があったわけじゃないらしいからな」
金曜日は肩をすくめながら苦笑いを浮かべた。
「でもまぁ、問題はないさ」
金曜日はあっけらかんと告げた。
「『オルダス・マイン』は多数決ですべての活動方針を決めることになっている。あなたと私が賛成で、水曜日が反対、土曜日が賛成も反対もしないとなれば、賛成多数となるのだから」
「それもそうだな」
木曜日は素直に頷くと、金曜日と連れ立って初めて歩く路地を進んだ。
建物の陰に入った途端に夏の陽射しは遮られ、風が涼しく感じられた。
「ところで、水曜日はどうしてるんだ?」
「水曜日は……うん。まぁ、その話はここではなんだから後でしよう。それよりその鞄は私が持とうか? 重いだろう? あぁ、そうだ。こっちに着いてからウイスキーは飲んだかい? 『命の水』の名の通り、飲むと生き返る味だよ」
金曜日は上着の内ポケットから小瓶を出すと、コルク栓を抜いて差し出した。
「金さえ払えば誰でも手に入る霊薬ってところか? ドーバーについてから、エールは飲んだが、ウイスキーはまだなんだ。ありがたくいただくよ」
木曜日は瓶を受け取ると、口を付ける。ゆっくり一口飲むと、馴染みのない味に一瞬顔をしかめた。
その反応に金曜日が笑い声を上げる。
「悪くないだろう? ――――末期の水にしては」
金曜日が放った一言を耳にした木曜日が、相手をまじまじと凝視したのはほんの一瞬だった。すぐに、喉が焼けるような痛みと、胃腸がねじれるような感覚、激しい吐き気に襲われた。目眩と腹痛で立っていられなくなり、路地の壁に手をついて座り込み、一気に嘔吐する。
木曜日の鞄が吐瀉物で汚れないよう、金曜日が素早く奪った。
「な……に……を……」
蒼白になった木曜日は横目で金曜日を睨みながら尋ねようとしたが、次の吐き気がきたため「おえっ」と声を上げて胃から逆流してきた物を繰り返し吐き出す。その中には、鮮血が混じっていた。
「あぁ、ようやく形見函が回収できた。まったく、あなたが形見函を持ったまま行方不明になったので、随分やきもきしたよ」
金曜日は悶え苦しむ木曜日を見下ろしながら呟く。
木曜日には金曜日の声が聞こえていないのか、腹を押さえながら痙攣を繰り返している。すでに胃の中には吐き出せる物が残っていないらしく、唇の隙間から漏れ出てくるのは血と泡だけだ。
「水曜日の手提げ金庫に入れた霊薬、あなたの形見函に収めた薬剤、土曜日の祈祷書に忍ばせた処方箋。このどれかひとつが欠けても、霊薬『アンブローシア』は効果を発揮しないってあなたは知っていた? 知らないかな。霊薬の研究を主導していたのは水曜日だったから」
木曜日の鞄から形見函を取り出した金曜日は、中身を確認して満足げにほほ笑んだ。
「薬瓶に入れた霊薬は、それだけ飲んでも不老不死の効果は発揮しない。そのことがわかったのは先月のことなんだよ。水曜日から手提げ金庫を奪ったときは、手提げ金庫の中の霊薬と私の鍵さえあれば不老不死が得られると思っていたんだけどねぇ」
自分のシャツの長い袖をまくった金曜日は、しゃがみ込んで両手の肘から手首までの爛れた皮膚を木曜日の虚ろな目に晒した。
「――――先生」
小さな靴音を立てて路地に入ってきた男が金曜日に声を掛ける。
「やぁ、シプリー」
袖を元に戻した金曜日は立ち上がって振り返る。
「なんとか形見函が手に入ったよ」
足元ですでに虫の息になっているかつての仲間の腹を靴先でつつきながら、金曜日は声を弾ませた。
「あとは、土曜日が持っている祈祷書だけだ。あいつもどこをふらついているのか、行方不明だ」
「そうですね。私の知り合いにも探してもらっていますが、足取りが掴めません」
シプリーは瀕死の木曜日には目を向けずに淡々と答える。
この男こそ、金曜日と一緒にフリーメーソンを結社した医師だ。
ふたりは一年以上前からすでにパリで知り合っており、今年になってドーバーで落ち合ったのだ。
「しかし、処方箋も原本が必要なのですか?」
シプリーの問いに、金曜日は困った様子で首をかしげた。
「そこがよくわからないんだ。処方箋の内容は私の頭の中に入っているが、具体的に霊薬と薬剤をどのように使えば『アンブローシア』が完成するかを書いてあるだけなのか、処方箋の原本がなければ完成するのかがわからない」
「わからない? 内容が頭に入っているのに?」
困惑した表情をシプリーが浮かべる。
「水曜日が書いた処方箋が隠喩か暗号のようなんだ。内容を解読できれば、原本がなくても『アンブローシア』を完成させることはできるかもしれないが」
歯切れ悪く金曜日が答える。
「一番重要な処方箋を土曜日に託すとは、水曜日も人が悪い」
ため息をついた金曜日は、動かなくなった木曜日の服のあらゆるポケットを探り出した。所持品はすべて回収してから死体をテムズ川に放り込まなければならない。
「処方箋には、材料とそれぞれの分量、それから調剤の方法として『すべてを青磁の乳鉢で白磁の乳棒を使って磨り潰し、紫水晶の坩堝に獅子の血から精製した蒸留水を充たし、天と地、光と闇、深淵から掬い上げし運命を放り込み火蜥蜴の爪でかき混ぜる』と書いてある。まるで呪文のようだろう?」
「そうですね」
シプリーは顔をしかめて頷く。
「内容を知っているのと、それを使いこなせるかどうかは、別だ」
金曜日は自分の頭を指でつつきながら告げる。
「水曜日の手提げ金庫は手に入ったが、水曜日には逃げられた。土曜日はどこで迷子になっているのか、居所がまったく掴めない。土曜日がどこで野垂れ死んでいようがかまわないが、祈祷書は見つけ出さなければならない。あぁ、面倒極まりないな」
「ひとまず、処方箋の原本がなくとも『アンブローシア』が完成できるか確認するしかありませんね」
シプリーの言葉に、金曜日は面倒臭そうな顔を浮かべつつ頷いた。