オールドレンズと写真の偶有性に関するメモ
写真の「本質」と「偶有性」について考えたことをメモします。その前に、それを考えるきっかけになったレンズのレビューを。
ライカのオールドレンズ「ズミタール」を購入しました。
一般にはあまり馴染みのない名前だと思います。知らなくても全然いいんですけど(むしろそれが普通)、話の都合上ライカの50mm F2の変遷をおさらいしておきます。
①Summar(ズマール)1933~1940
②Summitar(ズミタール)1939~1955
③Summicron(ズミクロン)1953~
初代ズマールは癖玉として最近人気が出ています。ズミクロンはあまりにも有名ですね。世代交代しながら現在まで製造され、35mmや90mmなど他の焦点距離にも展開されています。
そんな人気者のズミクロンとズマールの間に挟まれたややマイナーな存在がズミタールです。
ズミタールには戦前型と戦後型があり、絞り形状とコーティングの有無に違いがあります。この個体は戦後型で、円形絞り、前玉コーティングありというオールドレンズとしては使いやすそうなスペックです。
渦巻ボケが有名なズマールとは違って、ズミタールのボケには大きな癖はありません。かといってズミクロンほど近代的でもなく、ほどほどにオールドレンズらしい個性を残しています。
その中庸さがマイナーな理由かもしれませんが、おかげで価格も控えめで、ライカのオールド標準レンズとしては手頃な選択だと思います。
ファーストロールを現像したらいきなり強烈な光条が現れました。あえて逆光で試してみたのである程度のゴーストやフレアは予想していましたが、これは想定外でした。
どう写るか現像してみるまでわからないレンズは大好きです。この一枚で一気に常用レンズの座を獲得する可能性が出てきました。
このようなレンズの魅力を、アリストテレス哲学やスコラ哲学でいうところの「偶有性」という概念になぞらえて考えてみます。
写真とは「本質」と「偶有性」が融合した表現であるといえます。光学的な記録が写真の本質であるなら、被写体を正しく捉える光学性能を備えたズミクロンのようなレンズを使うのが最良の選択でしょう。
一方、このズミタールのようなレンズの描写は写真の本質を損なう可能性があり、それをあえて使うということは本質とは別次元の偶有性に身を委ねるということです。
このふたつの融合の中にこそ写真の魅力が立ち現れるのであり、どちらか一方が欠けてもそれは深みのない写真になるでしょう。
デジタル、特にミラーレスがつまらないのは、撮影の時点でこの偶有性を視認できてしまうがゆえに、それを排除またはコントロールしようとする人間の心理が働くからだと思います。
偶有性を排除して本質のみを追い求めればそれは記録写真になってしまうでしょうし(記録写真が悪いという意味ではありません)、逆に本質を失えば偶有性の快楽に呑まれてレンズ沼の住人になってしまうでしょう。
ここからはミラーレスを用いたテスト撮影です。Elmar 5cm F3.5戦前ノーコーティングと比較しました。絞りはすべて開放です。
まずはズミタール。肉眼で見た空の色とほぼ同じで、非常にナチュラルな色再現です。
右の枯れ木にピントを合わせたつもりが少し失敗しています。フォーカスアウトした山の稜線と電柱は嫌みのないボケ方です。電線がやや二線ボケなのは仕方がないでしょう。
次はエルマーです。空の色が肉眼より青く出ています(フィルター未使用です)。
普段はもっと淡白な写りをするのですが、偶にこういうことがあるからオールドレンズはおもしろい。
最短距離1mで撮影。このカットではズミタールのほうが若干色が濃く出ました。
わずかに渦巻きボケを感じますが、概ね自然なボケ方です。ピント面は非常にシャープです。
こちらも最短距離1m。エルマーらしい淡白な発色です。こちらのほうが渦巻きボケがはっきり出ています。エルマーには珍しいことです。
ズミタール、なかなか良いレンズでした。
バルナック時代のレンズですが、M型で沈胴させても大丈夫です。エルマーは内部のシャッター枠に干渉することがあるので、M型では沈胴厳禁です(経験者)。