介護の経済価値と老人社会文化の必要性と少子化に関する走り書き

大晦日になって頭抱える情報が舞い込んできたため今年中に吐き出す

親戚女性がいつの間にか離婚していた

共働きなのに元夫は家事をやらず、金銭面でも不誠実なせいで生活苦から抜け出せず、見限ったそうだ。

私はその原因の多くが実家側にあることを知っている

言っちゃなんだが、かの元夫は壮健な肉体と陽気さが取り柄の9割以上を占めるような人(個人の感想)である。家庭を営むにあたって、適切な教育と学習を必要とすることは結婚当初から明白であった。10年以上も付き合いがあったのだから問題点の洗い出しは終わっている。私は、元妻の両親らがどう支援していくのか、興味を持って観察した。

支援なんぞなかった。何も考えていなかったのだ。

今の日本で中間層以下の子持ち世帯が生きることの難しさ

以前、雑に計算したが、4人家族の生活を支える家事労働のコストは、週平均では週5日の9時-17時労働に匹敵する。子を2人授かった時点で、夫が家事をせず共働きをするというは、つまり、妻がフルタイム労働を2つ抱えることを意味する。破綻確定。

夫側に家事参画の意思が薄いことはわかっていたので、これを乗り切るには実家からの支援が重要となる。家事でも育児でもどんどん代行していきながら祖父が家事をする姿でも見せて教育していくのかな、などと思っていたら、乳児期の育児もろくに手伝わず、子がある程度大きくなってから遊びにこさせて「良い祖父母」を演出していた。母親だけが疲弊。グロすぎて目を覆った。なお、夫側の実家は遠い上に母子家庭。子育て支援の役割は閑居している妻側の両親にあった。

金銭的にそこそこ余裕があれば外部化もできたろう。金銭支援すら聞いた覚えがない。あまりにも無関心すぎる。いや、関心はたびたび示していた。親孝行への関心には並々ならぬ物があった。ほぼ孤立無援で家事を支えながら仕事もしている娘に何を要求してんだ。正気度を喪失しそうになったので見るのをやめた。

共働きで家事をしない親は、男女問わず家庭運営にとって致命的である

結局のところ、元夫を家から追い出すのは、元妻が生きるために必要な合理的選択となった。4人分の家事を3人分にできるだけでもだいぶ楽になる。元夫の存在価値はもはや養育費だけである。

元夫側の視点

手本もなく、監視もなく、評価もなく、家にいるのは疲弊して不機嫌な妻と手のかかる子どもたち。それでいて「出来て当たり前」という圧力だけは周囲からかけられる。正気でいられるものか。八方塞がれて溜まったストレスを外で発散していた元夫を私は責められない。最後に会ったのは何年前だったか。取り柄の陽気さが捻れて空回りしてる様には痛々しさを感じた。

なぜ祖父母世代が親世代を支援しなかったのか

単純に何も知らないのだ。祖父母たちにもまた、手本がない。評価もない。何もしなくても安穏とした日常と資産がある。自分たちの子供に手を貸さなければ孫達の生活が危ういなどということを知らない。共働きの何たるかを知らない。要するに、凡人。

多くの凡人が老人になれるという社会危機

昔(いつ?法治前?)の老人は、老人と言うだけで敬われていたそうですね。そりゃそうだ。優秀な老人でなければ、若者が殺すだろう。

とても血なまぐさい話をする。例えば私が、司法も司法捜査もゆるい時代に貧しい農村で生きる若者だったとする。ある時、不作になった。このままでは子が飢えてしまう。何とかせねば。そんな時に、ある老人が自分の取り分を要求してくるだけで全く役に立たないどころか、邪魔をしてきたとする。私はそいつをこっそり畑の肥やしにして行方不明扱いとし、遺産を分配するだろう。一方で、備蓄を計算して山野の実りから不足分を埋め合わせようと行動する老人がいたなら、私は必死になって教えを請うだろう。

このような淘汰圧のかかる貧しい社会で殺されずに生きられる老人というのは、侮れない実力と公益性を持っていることになる。故に、自然と、敬われる。

今の日本は、凡人が凡人のまま、資産を保持して老人になれる。凡人は、凡人であるが故に資産を有効活用できず、あるいは詐欺に遭って吐き出し、子や孫の危機を見落とし、運動不足で病を患い、資産と医療資源を食い潰す。

介護を含めた老人社会文化の必要性

若者は勉学スポーツに励め。社会に出たらよく働き、子を育てよ。では、老人は?老人の生きる規範はどこにあるのか。凡人が凡人のまま老いて社会貢献するテンプレートはあるのか。

介護は、老人の資産の最終処分場だ。停滞した資産を介護費用という形で社会へ還流させる機能を持つ。だが、これだけでは不十分だろう。

死ぬまで働き続けられる。安心して生活できる。充実した役割がある。誰かに任せられる。幸せに死ねる。介護は、老人を取り巻く社会文化の一つにすぎない。

老人社会文化の不足による不作為が親戚の離婚環境を整えてしまったとするのなら、老人社会文化の充実度と出生数には因果関係があるかも?と考えるのは飛躍に過ぎるだろうか。

メモ

結局のところ、介護の経済価値を算出するのは無理っぽい気がする。介護単体だと生産性皆無どころかマイナスだもの。

試しに、介護を「老人社会文化」の一部として扱い、老人社会文化の価値を出生数と等しいと定義し、扱ってみよう。たぶん、大局的な老人の活動と出生数の相関を調べることぐらいはできる枠組みだと思う。

うーん、とっ散らかってる。もうねむいねる

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