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【短編小説】転がる石

 名前も不確かな程度の関係性。そんな女が裸で寝てたって、ベッドルームの窓に目を向ければレースカーテン越しに空が薄く青く広がっているから、不健全でも健康的な朝だよなってあいみょんでも聴きたくなる。隣で寝息を立てる女を起こさないようにベッドから抜け出して、人のことは笑えない俺も全裸で、リビングに出る。そんな間抜けな姿でベランダに繋がる窓際に立って伸びをする。光を文字通り肌に浴びる。河川敷沿いのマンションの805号室になんて誰も目を向けないから、高い家賃を払ってる甲斐があるってもんだ。シャワーを浴びて人間になろう。弛緩した頭がそう思いついてバスルームに向かう。ついでにドラム型洗濯機を回す。日曜日の朝。朝食にはオムレツを作ろうと思う。

 シャワーの音で目が覚めた。見覚えのない部屋で、しかも全裸だから叫び声をあげそうになる。そんなところでぐわんと鈍く響く頭のだるさを感じたから「あぁ、いつもの悪い癖だ」って一人頭を抱えて、もう今日から禁酒って人生何度目かの決意を固める。服を探すけど見当たらないから仕方がない。勝手にブランケットを体に巻いて、ベッドルームの引き戸を開ければ広いワンルームに繋がっている。このマンションの住人はどんな男だっけ。名前はおろか顔さえ二日酔いの底に沈んでふやけている。その部屋には大きな窓があってベランダ越しに河川敷が見渡せる。雲ひとつない青空とのコントラストで、飛行機雲なんかも見えやがって、まったくのどかだ。朝日に照らされた私は知らない男の匂いのするブランケットに身を包んでやるせない。おはよう、非日常。今日は快晴の日曜日だ。

 鼻歌を歌いながらシャンプーをしているとバスルームの頼りないドアがノックされる。あの女だって察しがついて「ハーイ!」なんて何事もなかったかのような陽気な声をあげてみる。
「過ぎたことをとやかく言うつもりはないけどさ、私の着てた服ってどこにあるの」
「ベッドの周りにないなら、洗濯機の中かな。さっき回しちゃった」
 あっ! なんて叫び声が聞こえる。元々の声音なのか酒焼けなのか、言葉を選べばハスキーな彼女の声は、実家で飼っている猫が鳴らすガラガラに似てて親近感が湧く。シャワーの音を弾き返すような陽気さをもう一度作ってみる。なんてことないよねってニュアンスで。
「名前なんだっけー⁉︎ 俺は良平!」
「アカネ!」
 間髪入れずに返ってくる小気味のいい声はやっぱり実家のコロスケだ。なんだか嬉しくなって、ちゃんと髭も剃ることにした。学生時代によく聞いていたシンガーソングライターの猫と虹を渡るなんて歌詞の曲を口ずさんで「ベッドルームのクローゼットの左側の三段ボックスの真ん中にTシャツと短パンが入ってる。勝手に使って」と伝えた。あとさ、リビングにあるギター自由に弾いていいよ。そんな言葉も付け加えた。

 男物の洋服に混じって水色のブラと深緑色のワンピースがドラム式洗濯機の中でぐるんぐるんと回っていた。最悪だ。なんて、安易な言葉だけど。あのワンピースは高かったんだ。ちゃんと洗濯ネットに入れて、手洗いモードでおしゃれ着用洗剤で洗いたかったのに。バスルームからはこの部屋の住人がわざとらしい声をあげている。とりあえずそいつの言葉には甘えさせてもらって服を借りた。どれもサイズが大きくてTシャツは膝上まで隠れてその分胸元は緩い、あぁ、都合のいい女って感じの格好だ。リビングに置いてある二人使いにちょうどいいサイズの正方形のテーブル。その椅子に腰掛ける。テーブルの上は綺麗に片付いていて、真ん中には一輪挿しにミモザが生けてある。悪いけど、あの間抜けそうな声の主には似合わない。この部屋に花を生けにくる誰かがいるのだろうか。そんなことを考えては背もたれに体を預け伸びをしながら天井を見上げる。開け放された窓から流れ込む清潔な空気を吸っては吐いて、感傷は置いてけぼりのままとりあえず腹が減った。

 腰にバスタオルだけを巻いてリビングに出たら、アカネと名乗る女と目があった。俺の姿を見て一瞬ギョッとしてすぐさま睨みつけてくる。少し前屈みになった彼女の緩い胸元の隙間に、言葉を選べば控えめで奥ゆかしい膨らみが露わになっていたから、トントンと自分の首を叩いて教えてやる。彼女は空いたTシャツの胸元を慌てて押さえて、青白かった顔を赤める。
「ちょっと待っててね」
 ってお茶を濁してベッドルームに引っ込んでは、Tシャツと短パンに着替えてリビングに戻る。沈黙が部屋を支配するのは想定内だったから、用意してた持ちネタを披露した。
「どうも~良平です!」
 漫才のような挨拶をして、中学時代に流行った一発屋芸人のネタ真似をした。同世代ならバカウケするはずだ。

「どうも~リョウヘイです!」
 リョウヘイと名乗る男は、リビングに入ってきたやいなや茶番を演じて、あろうことか中学時代に流行った寒いギャグの真似もした。その浅ましさに、あるいは恥を上塗りするタフさに、私は不覚にも脱力して乾いた笑い声をあげてしまった。目の前の男はそれをウケたと勘違いしてるのか安堵の表情を浮かべている。せせら笑いが天井に消えて、その後に腹の底に残ったのは、殺意だ。なんて、安易な言葉だけど。少なくともは帰りのタクシー代は倍額くらい多めにぶんどってやろうと心に決めた。
 彼は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してコップと一緒に私の目の前に置く。ジロッと顔を見上げるように彼を睨んで、わざとらしく胸元を抑える。安くないんだよ、なんて心のうちで舌を出す。彼はテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰掛けて水を一口飲んでから口にする。
「転がる石だなぁ」
「ローリングストーンズ?」
 彼の言葉に、あの舌出しのロゴが思い浮かんで、心のうちを見透かされたと驚いた。

 彼女のフランクな態度が好きになった。ネタもウケたし、それでなんだか俺たちの関係は回り始めたと感じて一息ついた。向かいの椅子に腰掛けて、水を飲んだ後に思わず呟いてしまった。
「転がる石だなぁ」
「ローリングストーンズ?」
なるほどなって思う。けど訂正する。
「含んだ意味はなにもないよ。思いがけず蹴ってしまう小石ってあるじゃん。蹴ってコロコロと転がっていくやつ」
「小学生が帰り道に遊ぶような?」
「そう! そういうの思い出してさ」
「なんでまた?」
「思いがけず転がって、どこに向かっていくかはわからない。でもどうなったって特に人生になんの影響もない、そんな気楽さがいいなぁって」
「なにそれ、わたしたちの関係みたいなって言いたいの」
「そんな意味じゃないよ」
「ひどい」

 ひどい。なんでそんなこと言われなきゃいけないの。デリカシーのかけらもない。置いてけぼりだった感傷がいまに追いついてきて怒りに変わった。テーブルを叩いて立ち上がる。その振動に一輪挿しが倒れて転がって、水を滴らせながら床に落下した。花瓶の破片がフローリングに散って、一緒にミモザの花びらも散った。
「怪我、ない」
 彼が立ち上がって優男の振りをする。
「ごめんなさい」
 もう関わり合いたくないから素直に謝った。これで終わりだ。ベッドルームに置きっぱなしだったバッグは回収済みだから、玄関に向かってそのまま出ていこうとする。
「待って! 今からオムレツ作るからさ。一緒に朝食食べようよ」
 どこまでものんきな男だと呆れて、でも、嫌、と拒絶する前にお腹が鳴った。
「ほらさ、しかも朝食を食べ終える頃にはちょうど洗濯も乾燥も終わる」
 振り返ってまたリビングへと戻っていく。たしかにこんな男のためにあのワンピースを諦めるのは癪だ。ずけずけと進んで、彼の目と鼻の先まで突き進んで、一発平手打ちをしてやった。
「これでチャラ」
 今度は心のうちに留めず、唖然とする彼に向かって舌を出してやった。

 強烈な平手打ちを左頬に浴びた。誓って傷付けるつもりも侮辱するようなことをしたつもりもなかったのだけれど、俺の人生で散々言われ続ける言葉「あなたってホント、デリカシーがないのね」ってやつだ。割れた花瓶と散った花を箒とチリトリで片付けて、テーブルと床を拭いた。本当にチャラにしてくれたのか、片付けを彼女も手伝ってくれた。
「ごめんなさい」
と改めて謝られる。
「いいよ」
「お花、あなたが生けてるの?」
「そうだよ。意外って言われるけどまめなんだ」
「意外」
「料理もなかなかうまいんだぜ」
「得意料理は?」
「アクアパッツア」
「似合わない」
 そんな会話をしてるうちに空気が和らいで、俺がキッチンに立てば彼女もその横に立って
「本当にうまいのか、みててあげる」
 なんて心をくすぐる。
「アカネってさ、どの漢字で書くの?」
 よつ葉バターを乗せたフライパンを熱しながら聞けば、横の冷蔵庫に指文字で書きながら教えてくれる。
「朱色のアカに音のネ」
「朱音! いい名だねッ」
 渾身の湯婆婆のモノマネはガン無視されて、朱音は会話を続ける。
「リョウヘイは、吉沢亮のリョウにタイラ?」
「良好のリョウにタイラだよ」
 フライパンに卵液を流し込む。空気を入れるために何度か振ってみせる。おぉと隣で歓声があがる。

 オムレツにトマトとレタスのサラダ、食後には熱いコーヒーも出してくれて、それらはちゃんと美味しかった。だからタクシー代をぶんどるってのもチャラにする。
「転がる石ってさ、さっき言ったじゃん。アジカンも連想するな」
 コーヒーを啜りながらそう思いついて、浮かんだ曲を口ずさむ。
「おっ転がる岩だ」
「そっか。この曲は岩だったか」
「俺はくるりも連想するな」
 良平はリビングに置かれたギターを持ってきて激しいイントロのメロディーラインを爪弾きした。
「わっ言葉にならない、笑顔を見せてくれよに入ってるやつだ」
 乾燥機が回り終わるまでそんな取り止めもない話をした。身のない話が似合う関係だった。連絡先ぐらいは、と少しだけは思ったけど辞めた。代わりに
「今日はワンピースの気分じゃないからさ。この服貸しといてよ。気が向いたら返しにくるからさ」
 と伝えた。
「それお気に入りのバンTなんだけど」
 彼はそう言いはするけど、このマンションの正式な住所が書かれたメモを渡してくれた。それを受け取って服は借り物のまま、ワンピースと下着はバッグに詰めて部屋を後にする。マンションの外に出れば道路を挟んで河川敷に繋がっていて、その川べりの広場に降り立つ。休日の午前に手招きされたたくさんの人がいて、みんな光と風を気持ちよさそうに浴びていた。振り返ってマンションの805号室を見上げる。手でも振ってやろうと思ってたら、彼もベランダから同じことを企んでいたようだ。

【あとがき】
 今年のGWは旅がしたくて、埃をかぶっていた一眼レフを引っ張り出しては広島に2泊3日の車中泊の旅に出た。移動、移動、移動であんまり観光はできなかったけど、そんな道中に下書きしてた本作品をまとめ終えてることができたのでやっと公開する。現実はずっと車を走らせていたから、小説の登場人物たちは805号室の一部屋に閉じ込めた。そして車の中で聴いていた音楽が作品の彩りになった。


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