【短編小説】 音楽室と校舎裏
春の校舎裏はきっといまここでカメラのシャッターを押せば白飛びしてしまうほどに眩しくて、暖かな陽気を引き連れてそこに存在している。それでも誰にも見つけられないまま、生徒も教職員も正門側に咲くソメイヨシノばかりに浮き足が立ってしまっていて、こちら側は見向きもされない。3階に配置された第2音楽室の窓からはそんな喧騒に置いていかれた空間だけが切り取られて見える。
とはいうものの、ここだってそうは変わらない。花形の吹奏楽部の練習場所には別棟にある広い第1音楽室が割り当てられていて、正規部員よりも幽霊部員数の方が多い合唱部の練習場所には、修理待ちの楽器置き場と兼用の第2音楽室があてがわれている。活動日は月・水だけ、木曜日の今日は山内蒼太以外に立ち入る者はいない。蒼太は窓からの風景を眺めてから、スツールに腰掛けて調律が狂ったままのグランドピアノを弾き始める。合唱の伴奏に弾く曲ではなく、ジャズピアノの定番曲「On Green Dolphin Street」だ。繰り返し弾けば指が慣れてきて、よりしなやかに鍵盤を打てるようになる。テンポを少しずつ上げていけば、そしたら、待っていた!
ズンと響く重低音のベースコードが校舎裏から流れてくる。ピアノのメロディラインに合わせて演奏されるその音に、気持ちが高揚して自ずと指の動きがさらに軽やかになる。一人きりのこの小さな音楽室がハリウッド映画に出てくるような賑やかなジャズ酒場に変貌していく気分に浸って、蒼太は思わず笑いだしてしまう。はやる感情に流されすぎないように曲のBPMは維持しながら、演奏が終了することを惜しんで最後の音符だけは重いっきい跳ねさせるために鍵盤を強く弾いた。そんなアドリブにも息を合わせたように校舎裏のベースはぴたりと合わせてくるから、たまらない。スツールから立ち上がって、すぐに窓枠に駆け寄る。演奏者はもう立ち去ったのだろうか、それともどこか死角に隠れているのだろうか、この窓からは姿を見ることができない。
こんな風にして木曜日の放課後、いつ頃からだったろうか、音楽室と校舎裏からのセッションは始まった。蒼太がどんな曲を用意して弾こうが数巡するだけでベース奏者は音を合わせてくる。悪戯心から振り切ってやろうとか逆に溜めを作ってやろうと思って大胆なアドリブを入れてみてもちゃんとそれにも応えてくれる。逆も然り、時にはあっちだって無茶な振りを途中でかましてくるけれども、それがこのセッションを同じ気持ちで楽しんでくれている証になるから、蒼太は快く引き受ける。どんな人がベースを弾いているのだろうか。バンド好き?吹奏楽部?男?女?何年生なのかな?顔も知らない、声すらも知らないセッション仲間を想像するとき、蒼太はいつだって胸をときめかせた。
一般教室の窓から見える風景は四季によって光の具合であるとか植物の種類であるとか空と雲の比重であるとかが少しずつ移り変わっていくんだろうけれども、どれも当たり障りはないなと蒼太は思う。クラス替えがあっても、担任が代わっても、狭い世界の人間関係も風景と同じように劇的には変らない。高校生ってこうだよねっていう定型としての青春像をなぞって、本当の心内は見せないままにこの時間を過ごしていく。窓の外に手を伸ばしても、結局ガラスに阻まれるわけで、何かが掴めるわけじゃないなら演じているのが賢い。
「今週の呪術廻戦、みた」
「宿儺強すぎでしょ」
「科目担当じゃなくなってしまったけど、3年生になっても相談にきてね」
「ありがとうございます。先生のこと、めちゃくちゃ頼りにしてます」
「蒼汰、後輩ちゃんがわざわざ教室来てくれてるぞ」
「山内先輩に話したいことがあって」
「じゃあ、場所移動しよっか、ここじゃ冷やかされるし」
みたいな、柄合わせのトランプゲームのような会話が続く。そこにババなんて存在しないから勝ち負けもなくて、お互い手札を消費してしまったら、また山を切って一から始まる。そんな日常に支配されている。合唱部の後輩の椎木友香は部活には顔を出さないくせに蒼太と話すきっかけを求めてよく上級生の教室に顔を出す。ふたり、廊下を歩いていると隣のクラスでは荒げた声が聞こえてくる。友香が「また小山田先輩、怒られてる。始業式に金髪にしてきたの見ました」ってどこか侮辱を含んだ声音で言うから、蒼太は「楓はさ、不器用なんだよ」とフォローしてやる。
山内蒼太と小山田楓は公営団地の1号棟と向かい合う形で建つ2号棟のそれぞれ206号室に住む者同士の関係だ。だからといって特別に親しいわけでもない。たまに通学時間や帰宅時間が重なって玄関扉の前でお互い会釈するくらい。小学生のときは集団登校で一緒になったりしたから下の名前で呼び合ってはいるけれど、馬が合ったわけではなかった。というよりも空気を読むことが苦手なくせに人前に出ようとするタイプの楓はいつも周囲から浮いた存在で、気の合う人間なんて周りにはいたことがないと思う。
蒼太はババなしの柄合わせのトランプゲームを思い浮かべる。それは退屈ではあるけど、プレイヤーとして手札が配られるのは暗黙のルールを了承できる者だけなのだ。きっと楓は「ババがなかったら、勝ち負けがつかないじゃん。なんも面白くなくね」なんて誰もが気づいているけれど、誰も求めていない正論を持ち出して譲らなくなるだろう。だからハブかれる。
春の校舎裏から見える景色は乾いた砂に雑草、ミズナラの木、その奥のフェンスの先には生活道路を挟んで閑静な住宅地が広がっている。そんな退屈な風景は春の日差しに照らしだされて幻のように白く浮かび上がっては差し迫ってくる。小山田楓はあまりの眩しさに目を細める。校舎裏には施錠されていない物置があって、そのなかには綱引きの大綱や玉入れのカゴであるといった年に一度しか活躍の場のないものや壊れたテレビや人体模型なんていう粗大ゴミが詰め込まれている。そんな物置に楓はアコースティックベースを隠していて、バイトのない木曜の放課後にはそこを訪れて庇の下の日陰になる部分に座り込んでベースを弾いている。
いつだったろうか、3階の第2音楽室からビル・エヴァンスの代表曲たちがピアノの旋律に乗って流れ出してきたのは。最初に楓が聴いたのは「Waltz For Debby」で、それから「Time remembered」「Walking Up」と続いた。楓は興味半分でそのメロディラインにベースを合わせた。それが思いの外、セッションとしてちゃんと形になって、毎週木曜日にはエヴァンスに限らずジャズの名曲を顔も何も知らないピアニストとセッションをするようになった。バイト先のクラブバーでは演奏を担当させてもらえることもあって、そこで酔客が求めてくるのは上品な演奏よりも気の利いたアドリブで、そこでのノリをぶつけてみたところ、しっかりと音楽室のピアニストは対応してくる。この学校で気の合う奴なんていないと思っていたから、それは楓にとっては思いがけない出会いになった。
今日はどんな曲で来るのかと心待ちにしていたら「On Green Dolphin Street」だ。数巡ソロでの演奏を聴いて、癖や調子を把握してから演奏に入り込む。ズンと腹に響く低音がメロディラインと合わさって心地よく、軽快に指が動いていく。最後の音が惜しむように跳ねた! それに応えるようにG7コードを思い切り掻き鳴らす。気持ちのいい着地に、楓は思わず笑い出してしまう。演奏が終われば楓はすぐには帰らずに、高揚に浸りながらその場でタバコを一本時間をかけて吸うことが癖になっていた。
「楓くん、もうご飯は食べた」
「賄い食べてきたけど、春生君はちゃんと食べた」
「昼にサッポロ一番作って、その汁で夜はおじやを作って食べた」
「栄養足らないでしょ。作り置きはもう全部なくなったの」
「あぁ、今日の午前中に万里絵が帰ってきてほとんど食べてたな。ナスの煮浸しだけは残ってるけど僕は苦手だから」
「それで母さんは今日も仕事なの」
「どうかな。いつもより機嫌が良かったから男のところに行ってるのかも」
「春生君はさ、ここから出ていかないの」
「いまさらさ、どこにも行けないでしょ」
「スーパーで食材買ってきたからおつまみ作るよ。あと、作り置きもまた作っておくから」
「ありがとう。ウィスキーも買ってきてくれた」
「買ってきたよ。炭酸水も。今日はなにを聴こうか」
公営団地は全部で4棟あって、それぞれが7階建て各階1号室から9号室まで、計算すれば252世帯が入居している。ベランダでタバコを吸いながら、中庭を挟んで向かいに立つ3号棟を見やって、ぼんやりと楓は考える。同じ生活は存在するわけないから252通りの生活が存在していて、それぞれ幸せか不幸かはおいておいて、ここに住む住人に共通するのは貧困を抱えていることだろう。
血のつながった母親である万里絵は水商売をしているからお金はあるはずなのに稼いだら稼いだ分のお金を使ってしまう。化粧品とかブランド物とか、男にもたくさん貢いでるらしいと酔った春生の口から聞いたことがある。それでも家賃や光熱費、学費、最低限の生活費は滞ることなく万里絵が払っているし、予定が合う日なんかは万里絵とは内縁の夫という関係の春生を含めて、3人で夜景を見によくドライブに出かける。春生と楓に血のつながりはないが、楓が物心のついた頃にはもう春生は当たり前のように生活の中にいたから父親だと認識している。ジャズ音楽やベースの弾き方を教えてくれたのも春生だ。
開け放した窓を通ってレコードプレーヤーから流れるビックス・バイダーベッグの「Blue River」がベランダにいる楓の耳に届く。春生はプレーヤーの横に置かれた椅子に腰掛けてハイボールを飲んでいる。酔って饒舌になれば彼は焦点を失った目でジャズマンの生涯について語り出す。その話を聞く時間は楓にとっては幸福な時間だった。だけどそれも今日で終わりだと、楓は意を決して部屋に戻る。ひとしきり春生の語りに耳を傾けてから、話を切り出す。
「春生君、俺もうここから出て行こうと思うんだ」
予習も復習も終えた。この調子なら春季模試でもきっと好成績を取れるだろう。母子家庭で育ってきた蒼太にとってのモチベーションは、返済なしの奨学生枠を獲得していかに母を楽にできるかだった。そしていい大学に入って大企業に勤めること。堅実な夢の隙間にピアノに触れる。もちろん家にそんなものはないから、リサイクルショップで手に入れたキーボードを弾いて次のセッションの曲を練習する。なにを弾こうか。ハービー・ハンコックの「処女航海」それか小曽根真のアルバムで知った「Spring Is Here」にも対応してくれるのだろうか。そう考えているときに着信が入る。後輩の友香からだ。めんどくさいと思いながらも、電話に出る。それが相手が求める適切な反応だからだ。
「こんな時間にどうしたの」
「山内先輩の声が聞きたくなって」
「なんだ、それだけ。なにかあったのか心配したよ」
「ほんとはね、両親がリビングで大喧嘩してて、それで眠れないんです」
「話し相手になるよ」
「外で会えませんか。家にいたくなくて、堤防の桜を見に行きたいです」
「いまから」
「いまから」
「わかった」
蒼太は隣の部屋を覗く。母は眠っていた。それならば大丈夫だろうと思って、デニムを履きウインドブレーカーをTシャツの上から羽織って外に出た。日付が変わって少し過ぎた夜のしじま。春の空気はまだ冷たかった。玄関に鍵をかけて振り返れば、向かいの2号棟の206号室が開いた。
出てきた楓と目が合う。彼は背中に大きなボストンバックと、それとベースケースを背負っていた。声をかけようと思えば届く距離だけれど、言葉はなにも出てこなかった。楓はすぐに背中を蒼太に向けて階段へと歩いていき、振り返ることもせずに手だけを上げてひらひらと振った。さよなら、のつもりなのだろうか。
それから、楓は学校に来なくなった。先生の話によれば一身上の都合で退学したらしい。彼のクラスからは机も椅子もなくなっていて、ロッカーに貼られたシールは綺麗に剥がされていた。3年生の間では一大事件としていろんな噂が飛びかった。
「小山田、家族で夜逃げしたらしいぜ」
「そう言われても納得できちゃうから、信憑性高いな」
「なんでもかんでも憶測でものを語るなよ」
「えっなんだよ。蒼太ってそんなに小山田と仲良かったっけ」
柄合わせのトランプゲームは間違えることがないように手札は裏ではなくて相手に見えるように表にすることがルールだから、必ず正解を引くことができる。でもだからといって、そのカードを引くかどうかまでは個人の選択だ。
楓がいなくなってから木曜日の放課後のセッションは途切れた。練習した「Spring Is Here」は何巡してもソロにしかならなくてメロディーは奏でられても、鳴らない音の不在だけが目立った。音楽室は音楽室のまま蒼太をどこにも連れ出すことはなく、開け放された窓から見える校舎裏の風景は夕暮れの中で世界の輪郭をぼやけさせながら、差し込むオレンジの光だけが蒼太とピアノを包みこんでいた。