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【短編小説】流行りの曲を知らない
地方都市のその寂れた駅に雨の日だけ勝彦は成美を迎えに来る。彼女が出てくるのを見つけるなりロータリーからハザードランプを灯して黒のハッチバックの居場所を知らせる。成美が手を振って駆け寄れば、傘を開いて運転席を降りた勝彦が助手席側に回りドアを成美のために開ける。彼女は差していた自身の折り畳み傘を畳んで車に乗り込む。その瞬間に二人の体は密接に近づいて、シトラス系のフレグランスと混ざり合った勝彦の蒸れた体臭までもを成美はかぎ分ける。そんなときに成美はいつまでも、毎日でも、雨が降っていてくれればいいのにと切なくなる。
勝彦が運転席に乗り込みスーツの袖口や肩についた雫を手で振り払うように拭うときにやれやれと草臥れた低音でつぶやく。その声が車内にくぐもって聞こえて成美は水槽に閉じ込められているのだと錯覚する。エラ呼吸ができないことに気づかれないまま、なみなみとその透明な箱に水を満たされて溺死していく胸の苦しさを、成美は何よりも先に体で感じ取ってはその状況に適応しようと深く呼吸をする。ボリュームを絞ったFMを背景に今日はどんな一日だった、と問いかける勝彦に成美は普段通りと答える。
その普段ってどんな、そう返されるときに交差点の信号は赤で、勝彦はフロントガラスから視線を外して成美を見つめる。成美はその視線を横目にしながら、向けられる一重の切れ長の瞼から覗く瞳よりもずっと彼の形のいい血がよく通る唇の近さばかりに意識が向いてしまう。真正面から見返すことはせずに、代わりに雨に濡れたアスファルトののっぺりとした反射に血だまりのように映る信号の色を見つめて、口を開いては日常の些細を開示する。
営業の愚痴を端で聞きながら経費を管理して振り分けていく。積みあがる申請書類を一枚ずつ処理して数字を算出していく。休憩時間にはお弁当をデスクに広げて後輩の語る新婚生活の悲喜に相槌を打ちながら頭では別の何かを考えている。オフィスの廊下で肩甲骨を開く簡易なストレッチをして、午後はまた午前の作業を繰り返す。時折指示されるファイル整理や会議資料や議事録の体裁を整えるといった雑用仕事も合間にこなしながら残業が発生しないように時間管理をして、疲れたら業務用スーパーで買ったノンカフェインのアールグレイを飲んで頭を切り替える。そのときに炊事場に誰かがいたら挨拶をして一言二言他愛のない世間話をする。
あなたは
普段通り
その普段って
わかっていて交わされるそんなやり取りに二人はくすくすと笑う。長い信号が青に変わって勝彦がハンドルを握り直す。FMではリスナーから募集された日常の失敗がその時間帯のラジオパーソナリティーに読み上げられては面白おかしくツッコミを入れられている。どこかのスタジオから届く台本通りの笑い声がエンジンの唸りと雨音と混ざり合う。
雨の日の県道はいつもより混み合う。列をなす何台もの車の、その車のテールライトの発光が街を洗うように降る雨糸を浮かび上がらせて、薄暗い密室に淡い白色として差し込まれる。
勝彦がハンドルを捌くたびに彼の薬指に嵌められたシルバーリングは捕食対象を狙う爬虫類の瞳のようにその光を鈍く反射させて、ガラスに張り付く雨粒を懸命に払いのけるワイパーの規則正しい動きは神経症の小動物のように忙しない。
勝彦の語らない普段を成美は想像してみる。清廉潔白の笑顔を張り付けながら顧客の要望に応え続けて、昼食の時間には愛妻弁当をかきこんではデスクトップの待ち受けに設定した二人の息子の写真を、それが仕事への奮起につながるのだと悪意もなく同僚に見せつけている。彼は子どもが寝静まった夜にいまでも妻を抱いているのだろうか。どんな言葉で誘って、どんなふうに服を脱がして、どんな行為で濡らしているのだろう。私たちが出会った当初に交わした他愛もない会話では子どもは4人欲しいと話していたような気がしたけど。そんなことを成美は聞かずに言葉を放り込む。雨は些細な罪をも隠してくれると信じている。
どうして私を送り続けてくれるの
冷たい雨のなかを君に歩かせたくないから
ロマンスに幻想を抱いただけの白々しい言葉ともとれるし、単純な思考回路を持つ勝彦らしい素直な言葉だとも成美は思う。ただそんな言葉を聞かされて成美は手持無沙汰にシフトレバーに置かれた勝彦の左手と自分の右手を重ねたくなってしまう。
勝彦に抱かれたことはないから成美はその体温を知らない。彼の皮膚にさえ触れたことはないから、その柔らかさあるいは硬さを確かめるためにその表面に爪を立ててみたいと思う。爪から指へと、手の甲をくすぐって、指先に戻って絡め合う。想像だけが膨らんで雨がボンネットを打つ音が成美の耳につく。その聴覚の意識の間を埋めるようにラジオパーソナリティーが流行りだと嘯く曲が車内には流れだしていて、その曲のことを成美は何も知らない。(1917字)
※この作品は花澤薫様の文学賞「すべて失われる者たち文芸賞」に参加しています。花澤薫様、素敵な機会をありがとうございます。