七條礼
『猛毒遊戯』まとめ。
『真赤、――罪深き眷属』まとめ。
「私はSNSに向いていない人間だ」と思った。 SNS向きの人間ではなく、ブログ(note含む)向きの人間だと。 Xでとりとめのないのことをつぶやきながら、このようなことを思った。 「X、やめたいな」と思い続けながら、思い続けて、Xのアカウントを本日削除した。 フォロワー諸氏は思っていることだろう。「七條さんはどうせ戻ってくるよ」と。 いや! 戻らないからな! 戻る気がないからここで文章をつづっているんだよ! 戻る気がないからnoteとはてなブログの2カ所で活動すること
現在、精神科に入院しています。そのため、noteに浮上できず、作品を更新できません。ご理解いただけますと幸いです。
言語への飽くなき探究心と妥協しない姿勢(そして、独自のスタイルを貫く覚悟)。とある文豪(近代文学の巨匠)の後継者というありがたき称号をいただいたけれども、与えられたその称号に驕らず、これからも精進してまいります(私は努力がまだまだ足りない)。
選挙の投票に行き、その後、コンビニで買い物(紅茶、煙草(ロンピ1カートン)と野菜ジュースを購入)。すっきりとしたよ。さて、今から勉強だ。
「死」は「生」を歩む上で避けえない過程。私は「死」を恐いと全く思わない。なぜなら「死」は「生」を歩む上で避けえない過程だから。「死」を受容し、けども「死」を選ばず「生」を選ぶ。受容した「死」を抱きしめ、真っすぐに歩む(死を恐れない私は「生き死に」をコントロールし、演出できる)。
「これからはこれを灰皿として使ってね」と祖母がこれをプレゼントしてくれた。これ、明らかに食器だよ。が、灰皿として見事に機能している。素晴らしい。大切に使います。
私が蘭郁二郎という作家をなぜ敬愛するのか、今回、これについて記すことにする。 蘭郁二郎という作家を表現すると「幻の作家」。 悲しきかな、流行作家であるが故に忘れ去られ、時代という名の砂丘に埋もれてしまった幻の作家なのだ。 蘭郁二郎という幻の作家、そんな彼と出逢ったきっかけは青空文庫だった。青空文庫という素晴らしい、素晴らしすぎる電子図書館がなければ、私たちは生涯にわたって出逢えなかった。 ありがとう、青空文庫よ。 ところで、初めて読んだ蘭の作品は「自○」。 あの
言語はお金よりも怖い。このことを解っているからこそ言語と向き合うことが恐くなるし、これと向き合うことが厭になる。言語という概念のない世界にもしも行けるならば――。言語と向き合うことはどうしてこんなにも辛く、苦しいのか(言語が理解されない苦悩は孤独に繋がり、死を招く)。
ご指摘、ご批評は何よりもの宝です。ご指摘いただき、ご批評いただき本当に、本当にありがとうございます。七條、これからも精進してまいります。
昼食。
ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』(二見書房)と二階堂奥歯の『八本脚の蝶』(ポプラ社)。2冊共に装丁がとても美しい(人を殺める文章がある。二階堂奥歯の文章はその一つ一つが鋭利な刃物。それが五臓六腑を容赦なく刺し貫く。彼女の文章にはそれほどの殺傷能力がある)。
人は人を救えない。けども人を助けることはできる。これを解っている。「七條さんを救いたい」と思ってくださる方が身近にいるとして。その方は私を救えないけれども私を助けることはできる。私を救えるのは私。その方ができるのは私を助けること(私は人を助ける気はある、けども人を救う気はない)。
昨日、日記を書こうと思い立ち、コンビニでキャンパスノートを購入した。しかし、それに書いているのは日記と呼ばれる文章ではなく、小説と呼ばれる文章。「反省文を書け」と言われ、反省文を書いたつもりが「これは単なる小説だ」と一蹴されたことがある。私はどうやら普通の文章が書けないらしい。
人間は相互に独立した存在。私は相手のものではなく、相手も私のものではない。「独占欲」。これは相手の意思を尊重せず、相手の自由意志を奪う、こうした危うさを秘めている。ひょっとすると「独占欲」はある種の暴力かもしれない(依存は執着に変わり、支配に変わる。果てに狂気に変わる)。