【エッセイ】白い息と職務質問と静寂に誘われて見上げた南半球の星空と – あの日のオーストラリア編
キャスターが破損したボロボロのスーツケースに詰め込んでいた手持ちの衣類を着込めるだけ着込んでも、吐く息は白い。
ジーンズを強引に重ねてコートを羽織って丸くなっていても、凍えるような寒さで身体がガチガチに硬直してしまう。
とてもじゃないけれど、この場所で一夜を明かすことはできなさそうだ。
南半球のオーストラリアといえども、8月は冬季であって夜間の寒気は厳しい。
灰色に薄汚れた白らしい建物には”Court House”との表記があるが、長期間に渡って使用されているような形跡はない。
外壁に沿って割りと丁寧に並べられていたベンチの下に、昔飼っていた愛犬の“チビ”のように潜り込みながらこんなことを考えていた。
(どうして、こんな寂れた田舎町で野宿なんてしているのだろうか?)
営業の仕事を辞めて、3年近く付き合っていた彼女とも別れ、突貫で暗記したいくつかの英会話フレーズと所持金30万円を持って意気揚々、と言いたいけれど不安に押し潰されそうになりながらもシドニー国際空港に降り立つことあれから10ヶ月、いつしか歯車が噛み合わなくなったどころか、ついには歯が欠けて回らなくなっていた。
シドニーでの半年間は、何もかもが新鮮で刺激的だった。
昼間の語学学校と夕方から深夜にかけての居酒屋アルバイトで十分な睡眠時間が確保できなくて辛いこともあったけれど、学生時代に縁のなかった青春を取り戻しているかのように、あれほどの充実感に満ち溢れて心と体が躍動している日々はなかっただろう。
いや、メルボルンで旧友と再会してシドニーでの思い出を語り合った夜も気分は上々だった。
お互いにありきたりで平凡な人生、むしろ他人からしてみたらあまりパッとしない人生だったけれど、異国の地でそれぞれがそれぞれの人生に何かを探し求め、パッとしないなりにも果敢に挑戦をしながら精一杯の今日を生きている、そんな姿をお互いに映していた。
音もなく歯車が狂い出したのは、メルボルンで懐かしい思い出話に花を咲かせた知人に別れを告げてからだ。
所持金の30万円は語学学校の授業料や家賃で渡豪から2ヶ月目で底をついていたし、3ヶ月目からはアルバイトで食いつなぐその日暮らしを余儀なくされていたのだけど、メルボルンを離れてからは思うように仕事を見つけることが出来ずにいた。
やっとのことでファームでの日雇いや短期の仕事にありつけたと思っても、身勝手なトラブルに巻き込まれて振り込みがなかったりで、金銭的に汲々に追い詰められていった。
ミルデューラ(VIC州)からグレイハウンド・オーストラリア社の長距離バスに乗り込み、日付を跨ぐ17時間をかけて到着したここボーエン(QLD州)で仕事を確保できなければ、日本に帰国せざるを得ないどころか復路の航空券を預けているシドニー(NSW州)にすら戻ることができない。
手持ちの残金は日本円換算で1万円を切っていたし、銀行口座は空っぽでトラベラーズチェックもクレジットカードも所有していない。
(どうして、こんな寂れた田舎町で野宿なんてしているのだろうか?)
シドニーで出会った日本人は男女の性別を問わず皆テンションが高く、溢れんばかりの夢と希望を両手に抱えて、気の知れた素敵なパートナーや大勢の仲間たちに囲まれて、この異国の地を、この旅路を、この人生を、一片の迷いもなく謳歌しているように見えた。
そんな彼らをどこか羨むように遠目から眺めていた、そんな自分を思い返していた。
夜も更けてPUBの営業が終了したのか、先程まで聞こえていた陽気なオージーの歌声と甲高く叫ぶ声も途切れ、辺りを静けさが支配することで一層の孤独を覚えるようになった。
何度も目を閉じてこの場をやり過ごそうとしてみたものの、寒さが身にしみてどうやっても今夜は眠れそうにない。
極寒と孤独から逃れるように、盗難にあっても痛くも痒くもないくたびれたスーツケースをその場に置きっぱなしにして、Court Houseを後にあてもなく歩き出した。
*
潮の香りがほのかに漂う名ばかりのメインストリートを抜けると、建物はまばらで街灯すら満足にない薄暗い一本道がどこまでも続いている。
信号機も車両の往来もなく、暗闇の中で一定のテンポを刻む足音だけが繰り返し耳に届く。
そんな一本道を3~4kmは歩いただろうか?
前方から眩しいヘッドライトを照らした車がゆっくりと近づいてきて眼の前で停車し、2人の男性が車から降りてきた。
実は、シドニーの歓楽街“キングス・クロス”にあるJUJUレストランという居酒屋でアルバイトを終えて深夜に帰宅している最中、大柄な2人組の男に体を抑え込まれて財布と携帯電話を盗難されたことがある。
人っ子一人いない片田舎の夜道で前方から車が近づいてきたときには、そのときの記憶が蘇って「ヤバいかも」と恐怖を感じたが、どうやら巡回をしていたローカルの警察官のようだ。
街頭もろくにないような深夜の一本道を歩いている東洋人がいたら、何も警察官でなくとも怪訝に思うだろう。
カタコトの英語で「私は日本人で、ワーキングホリデービザでオーストラリアに来て、ボーエンには仕事を探しに来た。でも、お金がなくて宿に泊まることができなくて、寒くて歩いている」と、どこまで伝わったのかは別として事情を説明すると、簡単なボディーチェックとパスポートで身元確認した後に、何事もなかったかのように立ち去っていった。
「面倒なことにならなくて良かった」とホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、歩くことに夢中で忘れかけていた孤独感がひたひたと襲ってくる。
巡回の警察車両が去り、足音さえも途切れた今、辺りはより一層の静寂に包まれている。
変な話に聞こえるかも知れないけれど、警察官からパスポートの提示を求められて職務質問に応じている間、心のどこかにホッとするような気持ちもあった。
「何か温かい飲み物でもくれないかな?」なんて甘い期待をしてしまったくらいだ。
しかしながら、そんな期待をしていた自分が情けなくなるくらいに、彼らはテキパキと職務を全うして、事務的に、非常にドライに、その場を立ち去っていってしまった。
ひとりポツンと取り残されてしまったようで、孤独感に拍車がかかる。
しばらくはその場に立ち止まったまま自分を納得させるような言葉を探し続けていたのだけど、いつからか静寂に誘われるように上空を見上げていた。
心なしか空が近くに見える。雲はひとつもない。星が見える。煌く星が無数に散らばっている。でも何かが変だ。おかしい。妙な違和感がある。
そう、白い息を吐きながら見上げた漆黒のキャンバスには、日本で見慣れたいつもの星空とは様相の異なる、どこか神秘的な作品が描かれていた。
仕事も人間関係もリセットしてオーストラリアに渡り既に10ヶ月が過ぎ去ろうとしていたけれど、今日はじめて南半球の星空を観た気がした。
*
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白い息が静寂に吸い込まれ、消えていく。
夜が明けたら、いの一番で仕事を探そう。
もう少しだけ、この旅路を歩み続けたい。
QLD州 Bowenにて
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以上 –【エッセイ】白い息と職務質問と静寂に誘われて見上げた南半球の星空と – あの日のオーストラリア編 – でした。
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