【エッセイ】なぜ無慈悲な運命に翻弄され続けるのか?深い眠りに落ちたまま目覚めなければ楽でいい
またこんな日がやってくる。
目覚めからなんだか気分が冴えなくて、起床後のルーティーンをこなそうとしても気分の落ち込みに拍車がかかるばかりで、ついには手も足も動かなくなって、じっと考え込んでしまう。
悪夢にうなされたでもなく、むしろここ数日は今後の人生設計を練り直したりもして、アラフィフの自分に残されている可能性に『やってやるか』とポジティブな気分で過ごしていた。
昨晩も、法人を解散・精算してからの自分にとっては珍しく、どこかやる気に満ちていて、「もう寝たい」よりも「仕事を進めたい」が競り勝っていて、随分と夜ふかしをしたもんだ。
ところが、一晩寝て起きてみたら、どういうわけか気分が奈落の底にまで沈んでいて、起床後のルーティーンで片付けていた折り畳みベッドを再び広げて、布団の中に潜り込む始末。
『こんなハズではなかった。なぜ無慈悲な運命に翻弄され続けるのか?これも魂の成長のため?いっそ深い眠りに落ちたまま目覚めなければ楽でいい。人生の本質は苦しみなのか?』
などと、生産性のまるでないネガティブな思考に苛まれて、何もかもが嫌になってきたところで、ふと今のこんな気分を、そのままnoteに書いてみたくなった。
電気をつけて部屋を明るくするような気分ではないので、カーテン越しに届く仄かな月明かりの薄暗い部屋で、カタカタとキーボードを叩いている。
もともと、人一倍に感情表現が苦手なくせに、人一倍に感受性が豊かな子供だった。
記憶に残っている印象的な出来事としては、小学校5年生の遠足で、大自然と非日常の山登りに、誰よりも感動して心を躍らせながら楽しんでいたのにも関わらず、引率の先生から『〇〇くん、どうしたの?気分でも悪いの?』と本気で心配されてしまったことがあった。
中学校・高校では、感情を表に出すことがほとんどなかったので、卒業式の日ですらクラスメイトからは「冷めた人間」だと映ったに違いないが、最後の最後に教室から去るときの光景は写真のように脳裏に焼き付いているし、そのときに揺れ動いていた感情(終わってしまうことの寂しさ、新たに始まることへの不安)は、誰よりも深く胸に刻まれたままに思う。
大人になってからも感情表現は苦手のままで、無理に表現しようとすると笑顔から仕草までぎこちなくなって自己嫌悪に陥ることがわかっていたので、営業職の接客でも、女性を口説くときでも、特に演じるようなことはなく割り切って素の自分で接するようにしていた。
これは家庭環境や生まれ持った気質にも起因していることだけど、人一倍に感受性が強すぎると、日常生活での感情表現が難しくなって、誤解をされてしまったりで、内にこもる傾向があるような気がする。
物心ついた頃から、何の後ろ盾もなくいきなり社会に放り出されてサバイブしている感覚が拭えないのだけど、これも人一倍に感受性が強すぎることが原因なのかも知れない。
喜怒哀楽の感情表現が豊かで、大勢を前にしても自然に振る舞える人を見かけると、とても魅力的に見える反面、『そんな単純に生きられたらいいなぁ...』なんて、羨ましくもなる。
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こんな気分に苛まれるのは、自業自得なのだろうか?
だとしたら、人生の難易度が少し高すぎる気もしないではないけれど、こんな気分に飲み込まれて苦しんでいる自分を観察しながら、こうやってとりとめのないnoteを書き綴っていると、いつもの結論に落ち着くから不思議だ。
例えどんな選択をしてどんな結果になろうとも、例え大きく躓いてその場に立ちすくむようなことがあったとしても、何度でも気を取り直して前向きに人生を歩む他はない。
自我を忠実に満たす人生と、真我に導かれる人生とで、気分は秋の空のように移り変わる。
今日は地獄に落ちたような気分でも、明日は天国に昇るような気分なのかも知れない。
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以上 –【エッセイ】なぜ無慈悲な運命に翻弄され続けるのか?深い眠りに落ちたまま目覚めなければ楽でいい – でした。
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