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運命が決まっているからこそ救われる

ときどき過去の記憶がぶり返してきて、地の底まで気分が沈むことがある。

運命を呪いたくなるというか、何もかも投げ出したくなるというか、こんな人生はどうだっていいと、やるせない気持ちでいっぱいになる。

後悔と書くと、自らの意思による選択の失敗(してしまったこと・しなかったこと)を悔やんでいるように聞こえてしまうので、それとはまた違う。

懸命に最善を尽くしたのにも関わらず、そんな真剣な選択・決断を、まるで悪魔がケラケラと嘲笑するかのように、残酷な結末へと導かれた過去の記憶が脳裏から離れない。

もし、人生が修行の場であるならば「そうなんだろうな」と無理に思えなくもないが、知ったことではないし、記憶喪失にでもなって都合良く記憶から削除してしまいたいくらいだ。

魔が差した経験はありますか?

“魔が差す” という慣用句があるけれど、実体験から書かせてもらうと、本当にある。

原因不明の慢性疲労でほぼ寝たきりだったあの日、寝床で横になったまま何気なくスマートフォンをいじっていると、ひょんなアイデアが脳裏に飛び込んできた。

と同時に、頭の中が高速回転を始めたかと思えば、あれだけ倦怠感で動かなかった全身が妙なエネルギーに満ち溢れて、その後の1ヶ月間ほど文字通りの “不眠不休” で働き続けた。

ほぼ寝たきりが一転して元気いっぱいエネルギッシュになったので、「これだ!」と無我夢中だったけれど、冷静に思い返してみると “眠らない・休まない” の明らかな異常事態だった。

象徴的なのが、大晦日に右目尻の横にヘルペスができてただれたので、元日でも診察をしている眼科を探して受診していること。

広範にただれたヘルペスによって右目が満足に開かない状態にも関わらず、そんなこともお構いなしで仕事に熱中していたことを覚えている。

後にも先にも目のヘルペスはその時のみの体験で、あれから7年が経過した現在でも、右目尻の横にはヘルペスの傷跡がうっすらと残っている。

その当時、昨今で流行りのFIREを無目的に達成している状況にあったのだけど、このひょんなアイデアが脳裏に飛び込み、妙なエネルギーに満ち溢れたきっちり1ヶ月後に「このタイミングで、そんなことってある?」の事件に巻き込まれ、地獄を見ることになった。

電車に飛び込む人の気持ちも理解できた気がしたし、自分の愚かさが心底から嫌になり涙も出た。

このときの経験から “魔が差す” とは比喩表現などではなく、自分の外側にある思考の種や得体の知れないエネルギーそのものが、自分の内側に干渉してくることだと理解するに変わった。

オカルトな話に聞こえてしまいますが、あのときの異常性は体験者としての紛うことなき真実であり、慢性疲労の倦怠感で思うように活動できていない焦りに、魔が差してきたわけです。

人間に自由意志はあるのか?

こういった “運命を呪いたくなるような挫折” を幾度となく経験しているうちに、いつの頃からか「私たち人間に自由意志はないのでは?」と考えるようにもなっていった。

その根拠は単純で、私たちが自由に意思/意志したつもりであっても、その意思/意志に至った背景には自由がありそうでないからです。

出自や遺伝子はわかりやすいですが、例えば一冊の本を読むこと一つをとってもそうです。

私たちが、自由意志でその一冊の本を選択したように見えても、その背景には、生誕から今日まで連綿と続いている人生経験に影響を受けていますし、もしかしたらユングの提唱する集合的無意識や、仏教における輪廻転生やカルマ(業)の影響も受けているのかも知れません。

自我が自由意志を疑うことはなくても、そのように意思/意志すること、そのように意思/意志したくなったこと、そのように意思/意志せざるを得なかったことは、その意思/意志に至った背景を慎重に考慮すればするほどに「必然なのでは?」と自然に思えてくるものです。

その一冊の本を読まない選択をしたとしても同じことで、どのような選択に至ったとしても背景にある森羅万象によってそうなることが予定調和で決まっている、つまりは自由意志とは自我の思い込みに過ぎず、人間は運命を必然として歩んでいるように見えてきます。

「自由に意思/意志した選択の連続が人生である」

人間はそんな万能な存在なのでしょうか?

運命論(宿命論)を信じますか?

宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、英: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方[1][2]。宿命論の考え方をする人を宿命論者と言う。

宿命論 - Wikipedia

運命論(宿命論)と聞くと、我が強い方ほど反発を覚える傾向にあるのかも知れません。

実際に、根拠のない自信を両手いっぱいに抱えていた若い頃の自分は、「運命論なんて負け犬の遠吠えだろう」と強い嫌悪感を覚えていましたし、自らの強い意志や努力次第で、「どうにでも人生は切り開いていけるもの」と信じて疑いませんでした。

そんな自分が運命論を信じるようになったのは、逆説的ですが “運命を呪いたくなるような挫折” を何度も経験したからであり、それは同時に人生への謙虚さを覚えたことでもありました。

心をえぐられるような挫折で打ちひしがれているときに救われるのは、故事 “人間万事塞翁が馬” のたとえ話で、人智では人生の幸・不幸を判断することはできないので一喜一憂することはないし、最終的にはことわざ “人事を尽くして天命を待つ” の心境に行き着きます。

運命論を信じることで、宗教よりもよっぽど救われますし、何より前向きに生きていくことができます。

もし挫折の経験を積まずに、自分の思い描いた人生を順調に闊歩していたとしたら、今もなお「運命論なんて負け犬の遠吠えだろう」と傲慢さに拍車がかかっていたことでしょう。

人生が運命(宿命)として決定しているからこそ、例え大きな成功をしたと思えても謙虚さを忘れることはないし、例え大きな失敗をしたと思えても絶望することはなくなります。

「決まった運命なんてくそくらえ」も元気で構いませんが、存在としては傲慢不遜にも映ります。

むしろ運命が決まっているからこそ驕ることもなく救われますし、「最善を尽くして人生を全うしたい」と個人的に思うのですが、この意思/意志もやはり運命に依るものであり、幾多の挫折を経てそう思えるようになった今に感謝して、これからも人生の歩みを進めていきたい。

“人間万事塞翁が馬” で、幸か不幸かはどこまでいってもわからないことだけど、あれほどまでに嫌悪していた運命論(宿命論)を信じるようになるとは、とても想像していなかったことです。

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