【エッセイ】虚無感に襲われる・苛まれるのが日常茶飯事だったけど、全く縁のない人もいるらしい
大人になってから『えっ!そうなの?』と驚いたことのひとつに、「虚無感」がある。
一人で居ても、誰かと居ても、室内に居ても、屋外に居ても、日本に居ても、海外に居ても、つまりはどこで、誰と、何をしていても、得体の知れない「虚無感」に包まれることはあるし、必死に何かで紛らわそうとすると余計にむなしくなるのが「虚無感」の特徴。
ナンパをしていても、恋愛ごっこをしていても、セックスをしている最中でも「虚無感」に襲われたり苛まれることはあったし、なんなら20代の頃はそれが日常茶飯事でもあった。
ここを書いていて気がついたのだけど、そう言えば近年は虚無を感じた記憶がない。
後厄を境に投資やビジネスでの失敗で苦悶していたので、虚無なんて悠長な感情に浸っている暇がなかったのかも知れないし、単に平凡な大人になってしまったのかも知れない。
「驚いたこと」というのは、この虚無感を全く理解できない人がいるという事実だった(人間は誰しも「虚無感」を抱いているものと思っていた)。
例えば、もはや冠婚葬祭くらいしか会話をする機会のない弟にも「虚無感」について尋ねてみたことがあったのだけど、『なにそれ? そういうのは感じたことはないし、何のことだか良くわからない...』と至極真面目な返答をもらったことがある。
数年前に実家のトイレで倒れて急死してしまった父親に至っては、あらためて尋ねるまでもなく虚無に縁のなかった人間だとわかるし、母親もまたその種の人間で間違いないから、我が家においても既に4人に3人の75%が、この虚無感を理解することができない。
これは自分の勝手な思い込みなのだけど、いくら優秀な知識人で難解な話を語彙豊富に展開している人でも、「虚無感」を理解できない人の会話や文章は、実に軽く薄っぺらい。
『虚無を感じることがないなんて、なんてイージーモードな人生なのか』と羨ましくも思うと同時に、秀でたアーティストの紡ぐ歌詞や純文学小説などを読んでも、『勝手な解釈をして自己陶酔するのがオチで、真の共感・共鳴はできていないのだろうな』と容易に想像がついてしまう。
ネットで検索をしてみると虚無を恐れたり嫌悪する人も多いようだけど、虚無は思考の深淵にアクセスするための通知のようにも思えるし、人生の真理に迫るためのツールとしても有効に活用することができる。
実は人間には、ざっくりと分けて「ただ息をしている人」と「生きている人」が存在しているのだけど、この「虚無感」に縁がなくて全く理解ができない人というのは前者だと思っている。
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以上 –【エッセイ】虚無感に襲われる・苛まれるのが日常茶飯事だったけど、全く縁のない人もいるらしい – でした。
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