野生の熊から逃げていた僕が、東京でIT社長になるまで。
こんにちは。七田人比古(しちだ・ひとひこ)です。
今回は、僕のことを知ってもらいたくて、少し長めの自己紹介を書いてみました。
僕のことを知ってる人も、知らない人も、読めば、「七田ってこんな背景を持っているヤツだったんだ」と、僕の人となりがわかっていただけるのではないかなと思います。そこからお互いの共通点の発見など新しい何かが生まれたら嬉しい限りです。
■東京生まれ日光の山奥育ち
1996年5月4日、僕は東京都葛飾区で生まれました。父は建築雑誌の編集者で、母はファッションデザイナーというクリエイティブな両親の第一子として誕生しました。もしそのまま東京で育っていたら、両親から受け継いだセンスを活かしておしゃれな空間デザイナーにでもなっていたかもしれません。しかし、そんなことはありませんでした。
僕が6歳の時、「自然の中で自給自足生活がしたい」という両親の強い願いが実現される形で、栃木県の日光の山奥に引っ越しをすることになりました。港区で仕事をしていたような両親が、突然、栃木と福島の県境の山中でのサバイバル生活を始めたのです。それは、「ちょっとスローライフをしてみよう」というレベルではなく、山を買って、木を切って土地を開拓し、その木を材料にして家を建てるという、まるで無人島に漂流した一家のようなところから始まりました。
当時の僕は、急激な生活環境の変化に、「もしかして、東京での暮らしは幻だったのかも」と、少し混乱するぐらい、あまりにも日常が激変しました。最初は、電気も水道もなくて、長いキャンプをしているような生活でした。両親は大変ながらも生き生きしていたことは、鮮明に覚えています。自分たちが手に入れた“自由”が楽しくて仕方なかったのでしょう。
最初こそ戸惑いましたが、人は慣れるもので、僕もすぐに山奥でのサバイバル生活を楽しめるようになりました。山には、たびたび熊が出没しましたが、“ワイルドなご近所さん”ぐらいの感覚でした。
でも、一度、熊の写真を撮りに行こうとして森に入ったら、ばったり遭遇してしまい死にそうになったことがあります。恐怖と同時に、熊の大きく開いた口の中が鮮やかすぎるぐらいに真っ赤だったことは、いまでも昨日のことのように思い出すことができます。人生で初めて走馬灯がよぎった瞬間でした。
■中学時代に手に入れた2つのスキル
クラスメイトが5人しかいない山奥の小さな小学校を卒業し、地元の中学に入学すると、そこで僕は、人生を大きく変える2つの世界を知りました。それは、「IT」と「写真」です。
中2の時、プログラミングの授業でWebサイト制作を初体験した僕は、インターネットの無限の可能性に感動を覚えました。授業では、さわりだけ学ぶ程度でしたが、僕は、より深くWebサイト制作とプログラミングを知りたいと思い、夜な夜な親にバレないようにパソコンを引っ張り出してきては、プログラミングのスキルを磨き続けました。果てしないインターネットの世界では、実現できないことはない。少年ながらにそう確信したことは、いまでも覚えています。時は、2010年。スティーブ・ジョブズが最後の輝きを放っていた頃でした。IT・デジタルの世界を知れば知るほど、「いつか自分もジョブズのようになりたい」と、強く思うようになっていきました。
プログラミングと同じぐらい、中学時代の僕が夢中になったのが「写真」でした。きっかけは、僕のカメラの師匠・モリヒト先生との出会いでした。ある時、モリヒト先生が写真をトリミングしている現場に遭遇し、僕は写真をデータとして加工できることに衝撃を受けました。それまで僕にとっての写真は、瞬間を記録しておくだけのものでしかありませんでした。しかし、モリヒト先生と出会って、写真の撮り方や加工の仕方を教わるうちに、自分の好きな世界を切り取って、さらに彩ることもできる写真の世界の奥深さとクリエイティブ性の高さにすっかり魅了されました。
「プログラミング」と「写真」の技術を磨くことに夢中になるうちに、気づけば中3になり、進路選択を迫られる時期に差し掛かっていました。僕は、いま自分が夢中になっていることの先におぼろげながら、“何かがある”と信じることができるぐらい、プログラミングも写真も、それなりの腕前になっていました。そこで僕は、高校に行かない決断をしました。
先生からは、「中卒じゃろくな仕事に就けない」と何度も引き止められましたが、自分が身につけたスキルの将来性を疑わなかった僕は、「仕事に就けないなら、自分で仕事を作ればいい」と頑なでした。そんな僕を両親は、「好きにやれ。ただし、労働者にはなるな」と、斜め上のアドバイスだけくれ、自由にさせてくれました。
■16歳、たったひとりのホームスクーリング
中学を卒業してから1年ほど、僕は自宅で勉強をする「ホームスクーリング」をして過ごしました。もちろん、英語や数学といった学校の勉強ではなく、自分が勉強したいと思った「プログラミング」と「写真」の勉強をひたすらしていました。
山奥に住んでいましたし、ふらっと遊びに行ける場所もないので、1日中ずっと、父からもらったマックとにらめっこをして、プログラミングはもちろん、IllustratorやPhotoshopをどう使うとおもしろいことができるかをひたすら試行錯誤し続けました。
写真は、父からもらったCanonのコンパクトデジタルカメラを片手に森の中でたくさんの動物たちを撮影しました。そのうち、活き活きとした動物たちの“瞬間”を捉えたいという欲がわいてきて、カメラのスペック不足が悩みの種となりました。撮った写真は、投稿サイトにアップしていたのですが、そこでその悩みを打ち明けると、コムロさんという方が、一眼レフを譲ってくれることになりました。
コムロさんは、当時55歳で、難病のMS(多発性硬化症)を患っていました。「もう自分は自由に動き回って写真を撮ることはかなわない。君にカメラを受け継いでもらいたい」というエールとともに託されたカメラ。僕は、コムロさんを第二の師匠と仰ぎ、写真を撮ってはデータを送り、アドバイスをもらっては、それを森で実践する日々を送りました。なかでも、構図づくりは、その後の人生観にも大きく影響を及ぼしたような気がします。コムロさんは、カメラの構図を作る際に、「主題」と「副題」を設定し、写真の中にストーリー性を作ることを教えてくれました。同時に、多面的な物の見方を体感的に学ぶことができたことは、とても大きな財産となっています。
■17歳、運命の出会い
ITスキルと写真技術をひたすら追求していたある日、父が趣味でやっていた養鶏のたまごを食べたいと、我が家にひとりの外国人がやってきました。彼は、カールさんというスウェーデン人で、モルガン・スタンレーでCTOをしたり、金融庁でデジタル技術の指導をしたりしている人物でした。カールさんは、山奥でひたすら独学でITスキルを磨き続けている僕の存在をおもしろがってくれ、自分の会社でインターンをしないかと声をかけてくれました。ネットで外の世界のことは知っていましたが、物理的には山奥から一歩も出ていなかった僕にとってその誘いは、まるで魔法のチケットのようでした。
カールさんの会社でインターンを始めた僕は、WordPressを使ってWebサイトを作りました。最初に作ったのは、「田舎でライフ」というサイトで、自分で写真を撮り、取材をして文章を書きました。いま思えばつたないサイトだったかもしれませんが、大人たちに褒められるのが嬉しくて、必死になってアップデートし続けました。会社には、ベテランのプログラマーもいて、それまで独学で学んできた知識を丁寧に整えてもらえたのもありがたい経験でした。
カールさんの会社は、福島県会津に廃校を活用したデータセンターを作ろうとしていました。働いているのは、デジタルと金融を得意分野とする、グローバルエリートばかりでした。それまで、たったひとりで掘り下げていた世界が、まさかこんな最先端の外国人たちにつながるとは夢にも思いませんでした。彼らから、シリコンバレーの話やMITの話を聞いているうちに、中学時代に漠然と憧れていたジョブズのいる世界と、自分のいる世界が同じ世界線なんだということを認識することができ、このまま歩みを止めなければ、いつかどこかにたどり着けるという確信を持つことができました。
この年、高校卒業認定試験を受け、合格しました。
■18歳、渋谷のIT企業で働く
この頃、iPhoneアプリの制作が一大ムーブメントになっていました。僕はネットで、家族向けSNSのiPhoneアプリを提供している渋谷のベンチャー企業(現在はミクシィが買収)が、エンジニアのインターンを募集していることを知りました。iPhoneアプリを作りたいという思いだけでエントリーをすると、すぐに連絡があり、「1週間後に自作のアプリを見せてほしい」という課題が出されました。iPhoneアプリをつくるのははじめてでしたが、できることを証明したいと、3日ほどで、数字を入力すると体脂肪を計算するアプリを作り提出しました。その後、いくつかの課題をクリアし、なんとかインターンに採用してもらいました。インターン中に僕が開発した2つのアプリが実際にリリースされました。自分のアイディアがアプリという形になって世に出る経験は、Webサイトとはまた違う喜びがあり、「いつか、自分の会社でサービスをリリースしたい」という思いを強くしました。
■18歳、学生団体のデジタル担当に
上京はしたものの、インターン先以外に知り合いもおらず、孤独な日々をすごしていた僕は、ある時、テレビで社会に対して自分たちのメッセージを届けようと活動する大学生たちの姿を目にしました。彼らの真剣な眼差しに興味を持った僕は、大学生ではありませんでしたが、彼らが活動している場所を訪れました。
運良く、団体の代表と話すことができた僕は、彼らのミーティングに参加させてもらいました。すると、日本の未来のことを真剣に考えている彼らの熱意がひしひしと伝わってきました。僕は、大学生ではありませんでしたが何か彼らの力になりたいと考え、彼らの活動に参加するようになりました。主に、デジタル面でのサポートが中心でしたが、連絡ツールを整備したり、Webサイトを立ち上げたりしながら、同世代の本気を間近で見られたことは、非常にいい経験になりました。
僕が入る以前は、学生団体の内部のコミュニケーションにはLINEを使っていました。そこで全員のメールアドレスを集めてGoogle Driveで情報管理をするようにしたところ、「アイツは公安なんじゃないか?俺たちの情報を抜こうとしている。」と噂されたこともありましたが…笑
その時、立ち上げたWebサイトは、3ヶ月ほどで180万PVを記録するなど、技術者としても嬉しい出来事もありました。
■19歳、1/18,000人の挑戦
同世代の大学生たちの情熱、いま自分が出来ること、これまで培ってきたこと、そして、これからやりたいこと、それらが僕のなかで大きなうねりとなり、あるひとつの目標がわいてきました。それが、海外留学でした。
その目標を定めてから日を置かないうちに、学生団体の活動で知り合ったモデルのハルちゃん(Instagram : @hahaharu777)が、「スウェーデンの留学支援機関がちょうど留学生を募集している。ただ締切は3日後」という、まさにチャンスの神様は前髪しかない、というような情報を教えてくれました。
応募条件は、履歴書と推薦文でした。僕は、恩人のカールさんがスウェーデン人だったことを思い出し、推薦文をお願いしました。他にも、これまでの人生で知り合ってきた尊敬する大人の人全員にお願いをして推薦文を集め、なんとか応募することができました。履歴書に書かれた半生は、一般の日本の若者と少し違っていたかもしれません。それでも、自分が信じて歩んできた道のりだったので、自信を持って書きました。
応募からしばらくして、合格通知が届きました。後で聞いた話によると、日本だけでなく、アジア7ヶ国から18,000人が応募していたそうです。その中で、たった1人選ばれたことは、まさに奇跡としか言いようがなく、推薦文を書いてくれた人たちへの言い表せないほどの感謝と、自分らしく生きることを肯定してくれたすべての人に深い感謝の念をいだきました。
■20歳、アメリカ留学
20歳の誕生日に合格通知をもらい、最高の滑り出しをした僕は、その意気のまま、サンフランシスコに飛びました。現地での最大の目的は、「シリコンバレーの視察」でした。昔から憧れていたスティーブ・ジョブズが活躍した場所にして、いまもなお世界最先端のIT企業が革新を起こし続ける街に行けば、きっと何か大きなヒントが見つかると思っていました。
特に驚いたのは、当時は日本に上陸していなかったUberタクシーでした。Uberがプラットフォームを作ったことで、移動手段に革命が起きている様子を目の当たりにしたことで、僕は“ある思い”が確信に変わりました。
それは、「世の中を変えるのは、テクノロジーの力である」ということです。学生団体での活動を通して、「小さな力が政治を動かし社会を変えることは難しい」と痛感していた僕は、ITの力でどんどん文明レベルを押し上げ、経済を活性化させていくアメリカの姿が、ひとつの答えであるように感じたのでした。
■21歳、最初の起業
帰国した僕は、自分の中の確信を具体化すべく、IT分野で起業することを決断しました。そこで、学生団体の活動で知り合った弁護士事務所の代表の河﨑先生とともに、契約書の管理をIT化する株式会社ケンタウロスワークスを立ち上げました。将来的には、AIやブロックチェーンの技術を用いてセキュリティを強化していくところまで見据え、CTOとして開発業務を担当しました。
■22歳、自分の会社を創業
株式会社ケンタウロスワークスでは、契約書の管理業務が中心でしたが、並行してポイントカードを一括管理するアプリを提供する会社ポイントークンを立ち上げました。ポイントークンは、自己資本で創業した初めての会社でした。スタートダッシュは好調で、ユーザー数も数千人まで急拡大しました。しかし、キャッシュレスの類似サービスが多数乱立し、事業は1年半ほどで終了せざるを得なくなってしまいました。
この時、「技術的にはどんなサービスでも開発できる」という自信を持っていましたが、一方で、起業することがゴールになってしまっていた自分の視座の低さを心底痛感しました。次に事業をする時は、開発だけでなく社会と人々の課題をほり下げ、経営面でも具体的なプランを持とうと誓いました。
■現在、次の事業の準備中
2021年から現在にかけては、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のWeb関係のサポートや、ECサイト、アプリのUI/UXの受託設計をメインに事業を行っています。
会社名も、株式会社ポイントークンからVita Activa株式会社に改称し、心機一転しました。社名は、僕のあらゆる活動の受け皿という意味を込めて、ドイツの哲学者、ハンナ・アレントの本「人間の条件」から借りました。
現在、既存のデジタルサービスの開発はもちろん、AIやフィンテック、メタバース、NFT等の次世代デジタルサービスの分野において、新たな風を巻き起こせるよう、日々試行錯誤を繰り返しているところです。
また、自分の経験を活かし、「型にはめない自由な教育」のモデルを提案・支援してきたいと思っています。
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ご精読いただきありがとうございました。
少し変わったキャリアの人間ではありますが、デジタル分野のサービス開発においては絶対の自信を持っております。
何かお困りの際は、お気軽にお声がけいただけますと幸いです。
Vita Activa株式会社 代表取締役 七田人比古