道の歩み方/潮桜夕凪 『彼方』第11号(2023文化祭号)より
プロローグ
とん、とん、とん。
三月の朝。空気を吸い込もうとするとまだ鼻の奥がつんと冷たい。青み始めた空には、綿毛を集めたような雲がぷかぷかと浮いている。この制服を着ていられるのも、片手で数えられるほどしか残っていない――そんなことが昨日の学年集会で言われていた気がする。ハンカチで顔を覆っている生徒、マイクを握りしめながら涙を声に滲ませる先生を何人見たか覚えていない。誰もが、中学校生活の最後の時間を惜しんでいるのだろう。一方の私としては、恩人が既に去ってしまった今、私はこれ以上惜しむものも何もなかった。
――大村先生がいない中学校生活なんて、あってもなくても変わらないよ
次第に校門が見えてきて、首を大きく右に曲げると、玄関が見える。目を瞑れば、玄関前に立っている大村先生が笑いかけてくる。きっと、今の私にも「粟屋おはよう。元気?」とでも聞いてくれるのだろう。だが、当然ながら目を開けると、そこには昨日から出しっぱなしで、苔が生えかけた傘立てがあるだけだった。あの日は、もう戻ってこない。
◇ ◇
地面に足がついているのに、吹いてきた春風に流されてしまいそうで。ご飯を食べても、味がしない。空を見上げても、色がない。身も心も苦しいはずなのに、体のどこかがシグナルを認めてくれなくて、今日も足を引きずって学校に行く。
昇り始めた太陽が、まっすぐに私の顔を照らしてきて、俯いてしまう。燦燦と降り注ぐ朝日に、学校へ行く足取りの重さを責め立てられているようで、やりきれない。顔を上げると、宙をゆらゆらと舞っているビニール袋のように、風に流されるままどこかに行ってしまいたい、という思いが頭をよぎるが、私にはそんな逃げ場もない。しぼみ始めたビニール袋は道路の中央分離帯のそばに落下し、次々に通り過ぎる車を延々と避け続けているように見えた。
大通りを右に曲がると、中学校が見えてくる。この時間に登校している人の姿は見えず、教室には黒っぽい影がぼんやり揺れているだけだ。まっとうに学校へ通えている人たちの。それを思うと一気に胸が苦しくなる。閉まりかけの校門を体をよじらせてくぐり、身を縮めるように、俯いて歩く。途中から息が吸えないのに吐くばかりで、視界が黒っぽいもやに塗り潰されていく。その時、暗闇に投げ込まれるように誰かの声が降ってきた。
「おはよ、粟屋。最近元気?」
顔を上げると、濃紺で、絵の具まみれになったジャージ姿をした先生が、穏やかな微笑みを向けていた。
――なんで私のことを知ってるの?
目立たないタイプの私が、こんな大人気の先生――美術の大村先生に名前を覚えられているはずがないし、どうしたら私の存在に目を向けることがあるのだろう。クラスだって遠いし、授業もまだ一回しか受けていない。ならどういうことだろう。私は咄嗟に反応出来ず、錆びついた首をわずかに動かしただけだった。
「今のじゃどっちに振ったのか分からなかったよ。一限始まってるけど受ける?それとも休む?」
「休み……ます」
「途中から教室入るのもしんどいもんな。僕も一限空いてるから美術室で喋ろうよ」
私は、こくんと頷いた。
◇ ◇
「卒業式、大村先生来るらしいよ!」
上ずった女子の声がはっきりと聞こえた。きっと、耳を澄ませていた。
――ずっと待っていた
私の右腕が一瞬静止する。下を向いたまま、教卓を描いた描き途中のデッサンを眺める他なくなる。全身が石になったように固まってしまい、スケッチブックから目を逸らすことも腕を動かすことも出来ないという状況で、唯一機能したのが耳だった。
「さっき学年室の前通ったら、先生たち、大村先生が参列するみたいなこと言ってたの! もう、幸せすぎる!」
「まじ? 会いたい、絶対ツーショ撮る!」
「目の保養じゃん、神」
教室が一気に色めきだったことは明白だった。歓喜の声が昼下がりの穏やかな光が差し込む教室に溢れている。
実際、私も心の中でガッツポーズを盛大にかましていた。心臓が高鳴り、手汗が紙を濡らす。だが、そんな私の背後に影が――もう一人の私が近づいてきて、耳元で囁く。
――まさか会っていいとでも思ったの?やめときなよ
浮き立っていた私の心を嘲笑するかのような声。その通りだった。大村先生に会いたいだなんて思ってはいけない、と自分の心にシャッターを下ろす。大村先生に会ってしまったら、守りたいものが守れなくなる。守れなくなってしまった時のことを思えば、会いたい気持ちは水に溶けていくように薄まって、また心に平静が訪れる。体がまた動き出した。
さっ、さっ、さっ。
鉛筆を立てて直線的な輪郭を取る。光の向きを確認しながら面を取って塗り分けていく。叩き込んできた直方形としての概形を意識し、鉛筆を寝かせて灰色で軽く塗っては指でごしごしぼかす。黒鉛の香ばしい匂いに包まれる時間が好きだ。人差し指を見ると、指紋の溝に黒鉛がたまり、テカテカと輝いている。木目や表面の傷を描き加え、細い消しゴムで反射光を描き加える。仕上げに、薄くなった輪郭をもう一度なぞっていく。
集中すれば集中するほど、大村先生の影がふと頭をよぎる。寝ぐせ一つない髪、絵の具だらけの深い紺色をしたジャージ、いつも笑顔を崩さないのに、はっとさせられたように驚いた顔とか、ざらついた声の調子まで全部ありありと私の前に現れる。
今みたいに、思い出すためだけに絵を描いている、というのは、冷静になって自分を俯瞰した時にいつも虚しさだけが残る。大村先生がいなくなってから私の時間は止まってしまった。そんな時間をまた動かそうとするのではなく、終わってしまった時間を何回も繰り返し思い出して浸ることで、私は信じたいものを守って生きてきた。大村先生が見つけてくれた自分の長所を忘れたくなかった。これがひと時の安心を得るための手段でしかないというのは分かり切っていた。
◇ ◇
「メザワリだから、もう部活も学校も来んな」
靴箱を覗き込むと、外靴の代わりにノートの切れ端が一枚、乱雑に入っていた。視線を下に落とすと、ぐっちゃぐっちゃに踏みつけられた黒いスニーカーと、部活のシューズが砂まみれで転がっている。
やった人は誰だか即座に分かったが、怒りを感じる気力すら私には残っておらず、大人しく靴を拾い上げる。二足合わせてぱんぱんと叩くと、吹きつけてくる風に砂は巻かれ、プリーツスカートが粉を吹いたように白っぽくなった。本来の紺色を忘れてしまったかのように。
「お砂遊びをする人は幼稚園に帰ってくださーい!」
校舎側を向くと、相模怜南とその取り巻きが高らかに笑っている。呼吸をするように易々と、「キモイ」「消えろ」「死ね」という言葉が私に浴びせられ、感情がピーラーで剥ぎ取られたように、一つずつゆっくり失われていく。相模怜南は見せつけるように、レギュラーの証であるユニファーム姿をして、ラケットを背負っている。私が部活に行けなくなった間に、残り一枠だったレギュラーは相模怜南に奪われた、らしい。一年生部員の中でも先輩と積極的に練習し、ダブルスでの腕前を認められていた私は確かに「メザワリ」だったのだろう。私だって行けるものなら部活に行きたい。ちゃんと学校にも通いたい。そんな気持ちは抱えているのに言い返せなかった。拳を握りしめて時間が過ぎるのをひたすら待つ。そのうちに人の気配は消えていて、おそるおそる校舎側に目をやると、相模怜南はいなくなっていた。
――私、何やってるんだろう
ふと我に返ると、部活のシューズを持って砂の中で立ち尽くしている自分がいた。無様にシューズを靴箱の奥底に戻す。左手から紙切れが落ちたことと、涙が頬を伝ったことのどちらが早かったかは知らない。
それをきっかけに私の心は壊れた。学校に行こう、と思いリュックを背負おうとすると、頭が殴られたように痛くなり、胃がぎゅっと圧迫されて、家から出られなくなる。やっとの思いで登校出来たとしても、部活には未だに行けていない。だから、毎朝靴箱の中を覗き込まないようにして上履きを取り出す。部活のシューズを見たら、今度こそ自分を守れなくなってしまうから。
そんなことを、大村先生に打ち明けたのだった。
「そっか。話してくれてありがとう」
私が話しきった後、三拍ぐらいおいて大村先生は優しく息を吐き出した。
――それだけ?
大村先生の同情を期待していなかった、と言えば嘘になる。何かもっと踏み込んだ内容――「粟屋はよく耐えたよ」とか「学校来てて偉いね」とか言ってほしかった。いや、そんな淡い救いなんて求めていない。相模怜南を呼び出して、怒鳴って叱り散らしてほしかった。あいつの心がズタズタになって、学校に来れなくなったらいいのに。あいつさえいなくなればいいのに。他人の不幸を願う自分の浅はかさと傲慢さへの苛立ち、そんな自分の話を聴いてくれた大村先生への後ろめたさと申し訳なさ、自分への情けなさなどが今にも私の心を内側から乱暴にノックして、溢れ出そうとする。溢れ出しても残るのは虚しさだけだなんて見え透いているのに、私はこの憎しみを止められないでいた。ついに、気持ちのコントロールを失い、涙として溢れ出す。目の前にいる大村先生の姿が大きく歪む。涙と鼻水の区別がつかないのに、無理に吸い込もうとしてむせてしまう。ずっと前からかろうじて自分を奮い立たせていたのに、大村先生の前では張り詰めていた糸のようなものが切れてしまったのだろうか。言葉として伝えようとしているのに、吐き出した息は嗚咽に溶けて形にならない。子供に戻ったように私は大きな声を上げて泣いていた。
「粟屋は一人じゃない。大事に思ってくれてる人がいるから、くじけないで」
大村先生の言葉は乾ききった私のパレットに水を垂らす。水が触れた瞬間、こびりついていた絵の具が溶け出したかのように、世界に色が戻る。混じり合って新たな色が生まれる。
――私のことを大事に思ってくれている人って……?
「同じクラスの前野莉亜、分かる? 彼女が相模とのことを教えてくれた。すごい勇気だよな」
――前野莉亜……?
分かる、かもしれない、と感じたままに大村先生に伝えたかった――私にしか出来ない形で。その瞬間、今までならやろうとも思わなかったことが不意に思いつく。大村先生なら私を認めてくれる、と思ったからこそ私は賭けに出た。
「紙と鉛筆を貸してもらえませんか」
私は大村先生の目を見据えた。これは実力表明だ。大村先生は不敵な笑みを浮かべ、木で出来た横長の引き出しから、繊維の透けた紙と太芯の鉛筆、それからスリーブのない消しゴムを私の目の前に置いた。
しゅっとした輪郭をまず描き、くっきりした眉毛を一本一本描き込む。鼻筋は割とはっきりさせ影をクロスさせるようにつけ、切れ長の目に薄い唇を、濃淡をつけて描く。前髪はまっすぐ横に流れていて、肩のあたりまで伸びていた。毛先がほんのり軽かった気がする。
「こんな感じですよね?」
似顔絵を向ける。その瞬間、大村先生が息を呑んだのは絶対に私の気のせいじゃない。
「そう! それにしても粟屋、すごく絵上手いね」
似顔絵をしげしげと眺められているのが照れ臭くて、声が思わず裏返る。
「昔から絵を描くのが好きなんです。将来は絵を描いて食べていきたいなって」
全身の血管がどくどくと脈打ち、暴れ出す。不思議と勇気が出て、背中を押されるままに口に出したはずなのに、いざ打ち明けると途端に自信がなくなってきて、言葉をテープで巻き取って口の中に戻したくなる。
「かっこいいじゃん。粟屋ならきっと出来る」
ぱっと顔が上がる。その言葉一つで、話してよかったと思えるのはなぜだろう。いつもは無機質なキーンコーンカーンコーンと鳴り響くチャイムにさえ、心を洗われる。パレットに張りついていた絵の具はきれいさっぱり流され、まっさらな白が私の心を照らしていた。
◇ ◇
「今日は教卓? めっちゃいいじゃん」
突然、莉亜の顔がさかさまに映りこんでくる。どうやら、莉亜はいつものように私の椅子に後ろから張りついて、お辞儀をするように覗き込んでいるようだ。目が合った瞬間、莉亜は私の正面に回り込むなり、前の席を回して、ガタリと音を立てて何の遠慮もなく座った。そして、私の机に両手で頬杖をつく。莉亜の束になった後れ毛がまだ冷たい三月の風に揺れている。
「菜緒は聞いた? 大村先生が卒業式に来るって」
莉亜は上目遣いをしたまま、後れ毛を指でくるくる巻き取りながら話し出す。
「聞いた。大村先生って確か、みんなから人気だったらしいし、喜ぶ人は多いよね……」
そう言って私は鉛筆を再び握り、スケッチブックに向かい合う。そんな曖昧な態度――一番大事なところを避けることを目的とするコミュニケーションが癪に障ったのか、莉亜は目の色を変え、矢継ぎ早に言葉を連ねてくる。
「当たり障りのない言い方しないでよ。そもそも菜緒は喜んでないってこと? そんなわけないよね」
私は何も言えずに、表情一つ変えないことに集中しながら、ただ義務として鉛筆を寝かせて紙面にこすりつけ続ける。本当は嬉しいと言いたかった。でも、口に出してしまった後が怖かったから今も自分の感情を心の隅に追いやって、押し潰している。今は、考えるな、感じるな。
「ねえ、返事は?」
私は一呼吸置いたあと、莉亜の目をはっきりと見据えたはいいものの、肝心の返事自体は答えること自体から逃げてしまった。
「私は、大村先生が来る卒業式に……出たくない」
「卒業式出ないって? 嘘でしょ?」
莉亜はガタン、と音を立てて椅子から立ち上がる。教室が一瞬、水を打ったように静かになり、私たちに視線が集中する――と思ったのもつかの間、騒いでいるのが「私たち」であると分かった瞬間、ガスが抜けた風船のようにみるみる注目が失われていく。そんな単純で穢れた世界に、私はそれほど執着がない。それぐらいには今の私は強いはず――ある一点を除いて。
私を見つめている二つの目は、今にも落ちてきそうなほど開いている。その黒目にはっきりと映る私の顔はとても見ていられず、すぐに俯く。
「だって……会いたくないし会えないよ」
会いたくないのも会えないのも全部嘘だ。心の奥底でずっと、大村先生のことを想って生きてきた。自分の気持ちに正直になって、「会いたい」と声に出して言いたい。堂々と胸を張って、この二年間ずっと頑張ってきたことを伝えたい。
でも、私には大村先生と交わした「約束」がある。ここ二年、ずっと「約束」を守ってきた。大村先生と会うと、きっと私はその「約束」を破ってしまうだろう。私の道標となってくれた「約束」を破ってしまうことは、大村先生と過ごした時間、大村先生自身、大村先生に救われた自分――これら全てを否定することに等しかった。
「綺麗なままで……終わりたいから……大村先生が来る卒業式なら、出ないよ」
ゆっくり、一語一語噛みしめるように音声に変換していく。
「そんなの意地張ってるだけじゃん。私が見てきた菜緒じゃない。会いたいっていう気持ちにどうして正直にならないの?」
眉間にしわを寄らせて、莉亜が鋭い一打を喰らわせる。その発言にはっとさせられたことは紛れもなく事実だ。莉亜の言う通り、これは意地そのものだ。生き方を守るための決して曲げられない、ある種の呪いだ。こんな感情を抱えたままでは仕方がないことは自分が一番分かっているからこそ、莉亜に気持ちを逆撫でされたように感じた。口をついて出たのは、ナイフだった。
「これは私だけの大事な気持ちなの! 莉亜には分かってもらうつもりなんかないから!」
莉亜がその時どんな顔をしていたのか知らない。知るのも怖かった、というのは私の身勝手だろうか。何も言わず、足音をドンドンと立てて私は教室から出ていった。
◇ ◇ ◇
「莉亜ちゃん、教室移動一緒に行こう」
初めて、自分から人に声をかけた。私のことを心配して、見えないところで助けようとしてくれた莉亜ちゃんに興味があったからだ。
「莉亜でいいよ」
一緒に行っていいかの返事は、ない。だけど振り返らなければ歩き出そうともしない。私は莉亜の横に立てるよう、一歩踏み出す。とん、とん。私の足音が数回響き渡った後、莉亜も同じように歩き出す。莉亜の歩調は速く、私は半ば小走りになって廊下を進む。
「一限、いなかったけどどうしてたの?」
「……ちょっと先生に話聞いてもらってた」
「大村先生でしょ」
莉亜の返事には間がなかった。うん、と答えるべきなのに咄嗟にありがとう、という言葉が零れ落ちる。
「どうして伝えてくれたの……?」
莉亜の足が止まる。一拍遅れて、私も立ち止まる。二、三歩前にいる莉亜がやけに小さく見えるのはなぜだろう。
「罪……滅ぼし。あいつは……小学校の時から、気に入らない奴をとことん追い込んでいく……タイプだった」
降り始めの雨のように、ぽつりぽつり、と莉亜は息を詰まらせながら言葉を紡ぐ。淡々と語ろうとしたのだろうが、揺れ動いている感情が言葉の節々に見え透いていた。
「守りたかったのに、守れなかった人がいる。それを引きずって大きくなって、いい人ぶってるのが……私」
莉亜は拳を震わせる。息を吸ってしゃくりあげる声に、徐々に嗚咽が混じる。
「いい人『ぶってる』なんて言わないで」
私の足が前に出る。莉亜の目は涙に濡れていて、艶やかな黒目に映った私の姿はひどく歪だった。お互いの目が合った時には、私は確信していた。泣き腫らした目は物語る――一人でこの痛みをずっとずっと背負ってきた莉亜の強さも、脆さも。
「……っ、分かってるよ! あの子は、もう戻ってこない。何をやったって、過去は変えられない。それに……後悔なんて消えなかった……!」
私はきつく、莉亜を抱きしめる。胸のあたりが、莉亜の涙を吸って冷たくなる。呼吸が早い。肩にそっと置かれた手が小刻みに震えている。雄叫びにも似つかわしい莉亜の情動は、チャイムの音さえもろともせず、かき消していく。涙は堰を切ったように溢れて止まる様子を見せない。時折、手のひらを力ませながらも私は莉亜の背中をさすり続けていた。
◇ ◇
廊下を全力で走っていると、莉亜に謝らなければいけない、という思いがどんどん膨らんでいくだけで、足がもつれる。いつもぶっきらぼうだった。直接的な言い回ししか出来なかった。そんな不器用なところが莉亜の長所でもあるのに、突き放してしまった。寄り添うと決めていたのに、傷つけた。
「菜緒!」
私の名前が聞こえたのとほぼ同時に、腕に尖ったものが何か所も食い込み、掴まれる。鋭い痛みが腕にびりっと走る。振り向くと、やはり莉亜は私の腕をがっちりと掴んでいた――爪を立ててまで。列になって並んだ四つの真新しいくぼみがそれを証明していた。赤紫色にえぐられた傷の周りには、剥けたてのほの白い皮膚が不格好に巻かれている。
「菜緒のこと探してた。さっきはごめん。菜緒の気持ち考えないまま、自分の考え押しつけた」
そう言って、莉亜は私を横から抱きしめる。私の目頭が熱くなり、莉亜のスカートのチェック柄がぼやけては白む。ぽたぽたと二滴、莉亜のブレザーに滲みがじわじわと広がっていった。
「私こそごめん。卒業式、出るよ。どうしても、見てもらいたい人がいるから」
「うん。知ってた」
◇ ◇
暖かくなり始めた三月も半ばだ。ブレザーのボタンを開けて、クリーム色のベストを覗かせながら廊下を歩く。放課後はどことなく賑やかで、教室の前を通るたびに明るい笑い声が聞こえてくる。時折視界に入る友達のはしゃぐ姿に、こちらまでが笑顔になる。
「ちょうどいいところにいた。粟屋、ちょっと時間ある?」
教室に戻ろうと歩いていると、小走りの大村先生に笑顔で呼び止められ、そのまま面談室に案内されて椅子に座らされる。ドアがそっと閉まった。
「最近調子どう? 部活辞めてから上手くいってる?」
大村先生は、くたびれた座布団が乗った椅子をずずっ、と引いて腰かける。
「バドミントン部を辞めてから……相模さんから干渉されなくはなりました。今は、空いた時間で絵を描いています。別に、部活だけが全てじゃないので」
そう言って私は最大限の微笑みを浮かべる――笑え。今が楽しいでしょ。
バドミントン部を辞めてよかったです、という言葉は吸い込んだ息と一緒にぐっと飲み込む。バドミントン部を辞めたことに後悔はないか、と言われればない、とは言い切れない。レギュラーになって、大会に出て、仲間と喜びを噛みしめる――思い描いたことは何一つ叶わなかった。相模怜南に屈した、という言い方ほど、私に相応しい言葉はないだろう。
「充実してそうでよかった。今職員会議で話してるんだけどさ……来年のクラス編成さ、相模とは離せる。体育とかの合同授業も絶対被らないようにするけど、粟屋はどうしたい?」
「相模さんとは……離してほしいです」
それが全てだった。あいつの近くにいる限り、いつだって私は「メザワリ」になりうる。その基準が分からなければ、次は何をされてしまうかも分からなかった。その時に自分を守れる保証もない。
「分かった。前野とは同じに出来るように頑張って交渉してるところ。これは内緒な」
大村先生は口元に人差し指を当てる。
「そんなにたくさん……ありがとうございます」
「いやいや、最後ぐらい生徒のために何か贈り物残さなきゃね」
語尾が明らかに下がった。瞬時に私の顔が上がる。大村先生の声のざらりとした感触が耳に引っかかって鼓膜に張りついた。何を意図して言ったのだろうか。「最後だから」というのは、まさか――異動してしまうのか。答え合わせが出来ないまま、大村先生はじゃあと言って、私とは目を合わさずに部屋を出ていく。大村先生がぼんやり眺めていた青空と、今私が見上げている青空が同じだ、とは到底思えなかった。
――嫌だ、いなくなるなんて
あの春に、私を絶望から掬い上げた大村先生は私の手を離してどこか遠くに行ってしまうのだろう。春は出会いと別れの季節――それを受け入れたくなかった。今までの当たり前だったことが失われる時、つらく感じるのはその温かさを知ってしまったからだ。知らなければつらくないはずなのに、知らなかったほうがよかったとも思えないのも、より一層残酷だった。
彩りで溢れていた世界からまた少しずつ色が失われていき、俯きがちに廊下を歩く。差し込んでいる日差しがだんだんと弱まり、光と影の区別がなくなっていく。先ほどまでそこにあった熱はじわじわと失われる。大村先生はいなくなる。このまま離れたくない。あと数日で終わる中一なら、最後に何か一つ叶えさせてよ。
「莉亜! 大村先生に会いに職員室行こう」
教室にいる莉亜を呼び出し、大村先生がいなくなるかもしれないことを伝える。莉亜は目を丸くするが、次の瞬間には手のひらを差し出した。私は莉亜の手を引っ張って、階段を駆け下りる。体操部が使いっぱなしにしたマットや平均台、それに剣道部の防具入れを避けながら、跳ねるように走っていく。職員室のドアが見えた時、莉亜は立ち止まった。
「菜緒、行ってらっしゃい。私は菜緒ほど大村先生に思い入れない。だから私のことは気にせず、いっぱい喋っておいで」
「ありがとう……!」
大村先生に会う前から涙がこみ上げそうになるのをぐっと堪える。私は莉亜に背を向け、職員室のドアをノックする。
「失礼します。一年、五組の、粟屋……っ……」
名乗っている時には既に顔一面が涙でぐちゃぐちゃになっていた。職員室のドアのすぐ近くに、大村先生が立っていたからだ。ジャージに白い絵の具がついているのが、ぼやけた視界でもはっきり分かった。
「さっきぶりじゃん、どうしたんだ粟屋菜緒……!」
その声は思っていたより数段明るかった。むしろ少し笑いが混じっていた。含みを持たせるように「最後だから」とか言った人物とはまるで別人かのように私に接する。それに少し安心させられた一方で、もしかしたら本当に大村先生がいなくなってしまうような、氷水に漬けられていくようなさめざめとした恐怖を感じた。
「……っ、大村先生が、異動してしまうと思って……」
大村先生は、なんだそんなことか、と明後日の方向を向いて呟くが、すぐに私に向き直って深呼吸した。
「いい出会いはたくさんあるから、泣かないこと。むしろ己が誰かのいい出会いになれたら嬉しいよな。頑張れよ」
これが、大村先生と交わした「約束」になった。人との別れを振り返らない。立ち止まらない。泣かない。出会いを大切にし、いつしか自分が誰かに惜しまれる人になる。誰かの大切な人、誰かにとっての「何か」になる。それは、私の当面の目標――いや、一生をかけて果たしていくことになるであろう「約束」だ。けれども、すぐに別れに強くなれるほど私は出来た人間ではない。今は頷くたびに頬を大粒の涙が伝っていき、ぽたぽたとくすんだ床の上に落ちるだけだ。涙は盛り上がることなく水たまりのように広がっていく。
「それと……前野。こっちおいで」
大村先生は莉亜を手招きする。莉亜は目をしばたたかせて近づいてくる。どうして私が?と言いたげに。
「前野は偉い。勇敢。前野の優しさは絶対誰かが見てるし、認めてくれる。その優しさをたまには己に向けてやってくれ」
莉亜は唇をきゅっと噛んで、潤んだ目を真っ赤に染めた。
そして迎えた二年生の始業式の日、やはり大村先生はいなかった――私への「贈り物」だけ残して。大村先生は遥か西の中学校に異動してしまった、それだけを校長先生は淡々と述べた。桜の花びらの小山は既に跡形もなく掃き取られてしまっていて、伸び始めた萌黄色の若い葉が枝を覆っていた。
◇ ◇ ◇
一陣の風が廊下を吹き抜けていく。莉亜の温かさに私は目を瞑り、葉が揺れて擦れる音に耳を澄ませる。
「……私、菜緒に出会えて、友達になれてよかったなぁ」
私を抱きしめる腕に、より力が入る。たった今、「約束」は果たされた。私は、誰かにとってのいい出会いになれた。でも、これが終わりじゃない。これからも私はこの言葉と共に生きていく。今はその道の途中に過ぎない。道標を糧に私はどこまで行けるのだろうか。
「私もだよ」
ふと眩しさを感じ、見上げると、薄墨色をした雲の切れ間から傾き始めた日差しが差し込む。同時に、空が再び輝き出す。視線を地面に移すと、影で塗りつぶされていた草花、アスファルト、土や砂の全てが、キラキラと照らされている。莉亜の腕の中から顔を出している私も、その暖かな光を浴びた。
エピローグ
体育館の四方に吊り下げられた紅白の幕がふわり、と春風に舞っている。パイプ椅子に座っているたくさんの生徒、父母の間の道を一歩一歩踏みしめるように歩いていく。たくさんの人の拍手を背中に受けながら。背丈が伸びていくらか短くなった、スカートのプリーツが膝下で跳ねる。足を止めて角を曲がると、いよいよ来賓席だ。ここで一礼した後、壇上に上がって証書を受け取ることになっている。差し当たり体育館の上の方にある校章をじっと見つめて歩いているが――目は嘘をつかない、とよく言われるのは私も例外でなく、周辺視野でずっと大村先生を追っていた。腕を伸ばせば届く距離に、ずっと求め続けた大村先生がいる。
はやる気持ちを抑えつつ、後ろ脚をさっと引き、回れ右をする。会いたくないのも、会えないのも全部嘘だった。この瞬間をずっと待ちわびていた。今、大村先生と目が合う。髪の毛が癖もなく流れているのは変わらないのに、スーツ姿なのがあまりにも馴染まなくて、可笑しい。眺めているうちに、自然に口角が上がる。深く、深くお辞儀をする。
――伝わったかな、伝わってるよね
顔を上げて再び胸を張ると、大村先生の目は三日月型に細まっていた。私は大村先生に背を向けて、壇上へ一歩踏み出す。本音を言ってしまえば、立ち止まっていたかった。時間よ止まれ、と切に思った。
けれども、時間は平等に流れて、止まることを知らない。立ち止まっても、振り返ってもいけない今を生きている。だからこそ私たちは一瞬一瞬を大切にする。その先に、たくさんの実りある出会いを求めている。
出会いの果てに、自分を見出すために。誰かにとってかけがえのない存在になるために。