「書く習慣」1ヶ月チャレンジ8日目 「最近怒ったこと」
喜怒哀楽の「怒」と「哀」は表裏一体である。
たとえば誰かに対して怒るとき、「もう2度とそのようなことはしないでほしい」というメッセージがあると思うんですよ。
「洗濯物取り込んでほしいって言ってたじゃないの!(怒)」
→(2度と忘れないでね)
「どうしてそんなこと言うのよ!(怒)」
→(2度と言わないでね)
一方で、同じ事象に対して、感情の矛先を人にぶつけるのではなく、自分に向けるタイプもいる。
「洗濯物、取り込んで欲しかったのになあ。(哀)」
→(自分でやるか)
「そんなこと言わなくてもいいのにな。(哀)」
→(なんか気を悪くさせたかな)
我が家の様子を見てみよう。
すると、妻は前者、私は後者である。
証拠もある。小学生の2人のこどもに、聞いてみた。
私「最近パパが怒っていたことで、覚えていることある?」
子「んー、なんだろう?ないかな。」
私「じゃあ、最近ママが怒っていたことあった?」
子「昨日!(笑)」
怒りっぽい妻に、冷静に対応しようとするとさらに怒られる。
「怒ってるときってさ、もう二度どこういうことをやってほしくないよ、ってメッセージを伝えたくてやってることあるでしょ。だとしたら、怒るという手段じゃなくても言葉で説明してくれたほうが伝わるんだよね。人って、怒られると反発したくなるしさ」
話せばわかる。犬養毅も言っていたじゃないか。
しかし妻にしてみると、怒っている時は、そんな理屈っぽいことは考えていないらしい。そして、理屈っぽいことが嫌いなのだ。昭和の雷親父なのだ。
私が小さいころ、父と祖父は怒るタイプだった。
祖父はゲンコツをした。でも普通のゲンコツではなかった。
ゲンコツの前には質問をしてくれた。
「のぼりとくだり、どっちがいい?」
のぼりは、前髪の生え際に当てられた祖父の拳が頭頂部までぐりぐりとのぼっていく。
くだりはその反対で、頭頂部からおでこのほうまで下ろされる。
圧倒的に痛いのは、重力に逆らっていくのぼり。
だから孫たちは皆くだりを選んでいた。
父は、姉が長電話をやめないときに、いい加減に電話を切りなさい!と激昂し、そのままハサミで電話線をちょんぎったことがある。
(昔の電話は受話器と本体の間にコードがあったのよ)
一方で、母と祖母は、怒っている人と怒られている人の間に入り、よくフォローをしてくれた。でもそんな母と祖母に悲しい顔をさせてしまった思い出もある。
1つめは、保育園のころ。鬼太鼓っていうおせんべいありますよね。
そのパッケージについていた鬼のイラストを無性に描きたくなって、でも紙がなかったのでしょうか。祖母の部屋のふすまをキャンバスにして油性マジックで豪快に描き切ったことがあります。
それを見たときの祖母。
青ざめた顔で「どうしたの……。」
2つめは、小学生のころ。
算数の授業で使う30㎝定規を、何を血迷ったのか、回転する扇風機の中に勢いよく突っ込み、プロペラごと破壊してしまったことがあります。
それを見たときの母。
青ざめた顔で「なにをやっているの……。」
ゲンコツも、ハサミも、悲しそうな顔も、それぞれ感情に訴えかける。
コミュニケーションは十人十色。
その場その場に適した答えをさがして、人はみな生きていく。
それでいいのだ。