JICA海外協力隊が執筆した記事を綴るマガジンです。
本を読むこと、について最近考えることがあって頭の中で考えていても仕方ない、と思って文章にしてみる。そして、個人的に読んで良かったと思う本を何冊か紹介してみる。 今でこそ、読書という習慣というか暇さえあれば本を読む、みたいな、本を読む時間が言わばストレス発散の時間とイコールになるが、昔は本を読むことがかなり苦手なタイプだった。 特に、小学校・中学校の「朝の読書の時間」は苦痛以外の何物でもなく席替えで窓際の席をゲットしてはボケーっと窓の外を眺める時間だった。高校でも大学受験のた
はい、ジャンボー! ここに来て初めて、青年海外協力隊の活動のお話をば。 今回は、小学校の農業クラブについて。 村立の小さな小学校で、農業クラブを立ち上げたのは任期が10ヶ月くらい過ぎてからで、任地赴任後、早々に立ち上がったという訳ではなかった。それまでは、任地のありとあらゆる情報やリソースがないのでそちらを把握することに努めていた。 小学校のグランド。ただただ広い。天然芝。 まず、一番最初の立ち上げでは、ターム4から7までの30人を担当の先生にお願いして集めてもらった
先月末、国内待機していたケニア隊はケニアに戻り、再び活動を始めた。 そのニュースに、なぜか、複雑な気持ちを抱いた。 あぁ…ちょっとはケニア、戻りたかったなぁ。 自分でもびっくりした。 ケニアに?戻りたい?え?そんなこと願ったことなかったけど…って本当にびっくりした。 その時は、もう二度と戻すことのできない時間と、そう簡単には戻ることのできない場所だと実感して、これはほんとに貴重な時間の中、経験出来たことなんだと自分自身に納得させていた。 そして、昨日。 大好きなケニア隊
私が「農」に関り始めたのは、大学で農学部に進学してから。幼少期は、大好きだったテレビドラマ、「ナースのお仕事」シリーズの影響で医療職に就きたいと思っていた(っぽい)。と言うのも、私はドラマの内容以上に「松下由樹」さんが好きだったゆえ、ドラマがドラマでの世界でしかないことを悟った瞬間、私がなりたいのは「松下由樹が演じていた尾崎翔子」だわ、とその後、医療職への夢はどこか彼方に飛んで行った。ちなみに、松下由樹さんは今でも大好き。 という前振りは、置いておいて・・・ そんな私は、
実は、青年海外協力隊としてケニアに赴任する前、2016年度秋募集、2017年度春募集で募集があったグローカル協力隊と言う派遣前長期研修で石川県輪島市にある福祉施設で2017年度の1年間活動をしていた(詳しくは後で書こうかな、需要があれば。) 福祉施設の運営母体は社会福祉法人で、トップが協力隊OV、輪島市のプロジェクトも協力隊OVが何名か関わり、私もそのプロジェクトの立ち上げに加担していた。 金沢市にある別施設で働いていた同僚と、着任後すぐに開催された合同会議でたまたま話をし
今日、29歳の誕生日を迎えた。 本当は、会いたい人や行きたい場所は山ほどあるのだけど、この状況。でも、大好きなケニアの協力隊仲間が数名リモートで祝ってくれた。 20数年前はこんなだったのに。 あぁ、こんな方法もあるんだな、って思った。彼らは、ケニアという国で一緒に協力隊活動をしてきた仲間たち。久々にリモートで繋いで、私の誕生日なんかどうでもよく、みんな元気でそれぞれの道を歩み始めてた。ステキすぎる。わいわいしながらも(実際、1人はラム酒を嗜んでおりほろ酔いで参加していた。
最近、オンラインでのケニアでの体験談や報告会、就職活動、さらに空いた時間は家の仕事をしていて、久々に、あぁ…忙しいわって思ってる。 今日も、家族のお昼ご飯を作り、片付けも済ませてパソコンで資料作りをしていた… その時!!! USBの写真のファイルが、文字化けしている!!えぇ??しかも全く開けない… あぁ…飛んだ。ケニアで撮った写真、全て飛んだ。 一応、違うパソコンでも開こうとするが、同じ。とりあえずPC隊員同期に相談したら、これデータが壊れたか、ウィルスだと思うとア
日本でアボカドを見るたびに思い出す。こちら。 熟れないアボカドの話|Shibayan0725 #note https://note.com/shibayan_25/n/ndbc38639fb98 帰国直前まで悩みの種は、そう、アボカドだった。 元々、あまりアボカドが好きではなく自ら進んで食べることもなかったが、食に苦労していた環境からか、そこらへんにたくさん実っていたアボカドが安く、いつも買ってけよと言われれて買っていた。 火を通すと恐ろしく苦くて、漢方薬かよ!ってレベル
実は7年前、4か月ほど南米のボリビアに住んでいた。そう、たった4か月。何をしてたのかと言うと、国際NGOから派遣してもらい政府の運営する乳児院で孤児の面倒を見ていた。 当時私は、21歳、単身で、ほぼ初の海外、そしてボリビアの公用語であるスペイン語は全く話せなかった。「こんにちは」や「ありがとう」でさえも。 アンデス山脈にある国、ボリビア。私が住んでいた首都ラパスは標高3800mくらいで、日本が誇る明峰、富士山の頂よりも高い場所に住んでいた。空の青さがとても感動的だった。本
まだ携帯も無ければネットもそんなに普及してない時代の話。小学生の時、同じクラスの女子たちの間で文通が流行っていた。可愛らしい便箋に、色とりどりのカラフルのペンで、「きょうは楽しかったね。またあそぼうね。」と書いてシールやメモ帳の紙を入れたりしていた。主な文通相手は前途のように、同じクラスの女子同士。稀に、違うクラスの女子や学年が上の先輩ともしていた。 今、思う。 それは、極限られた中でのコミュニティ間の小さな外交的なものであったなぁと。 中学生になる頃には、携帯を持ち始
日本からケニアに戻って、ナイロビから居住地のビヒガまで帰った、その次の日。 1ヶ月ぶりの我が家には当然、食糧などあるはずがないので、近くの街、シャマホホまで買いに行く。 道を歩いていると、知らないオジサマ。目が合うなり、「Karibu avocado, kuja」とか言ってくる。アボカドどうぞ!だからおいで?って。くれる訳ないやろ。近くで見ていると、どれもカチンコチン。つまり、熟れてない。あのー熟れたの欲しいんだけど…と言うと、置いていたらすぐ熟れるから、20シル!とか言